純真セラヴィター 七水樹

  もうすぐ私の主人が帰ってくる。このアパートで二人暮らしを始めて三か月ほど経ち、私の主人である夏澄ましろは学校へと通い始めた。私は留守番をしていて、学校には行ったことがない。ましろが言うには、ろくでもない場所らしかった。

 部屋に近づく足音に、ロックの解錠音が続く。私はソファから飛び降りて玄関に向かった。今日も戦に赴いたかのように疲労困憊して帰宅する主人を癒すことが、私の一番の役割なのだ。

 ただいまも言わずにドアを開けて帰宅したましろに、私は「おかえり」と声をかけた。深いため息とともにましろは玄関にしゃがみこんで、組んだ腕に顔を突っ伏してしまった。そしてもう一度、吐き出す息が掠れるほどに深く、ため息をついた。

「何かあったのか」

 私は玄関で丸くなるましろの前をうろうろと動き回ってみた。今日も学校で何やら嫌な思いをしたのだろう。そういう時、ましろは必ず私のことを抱きしめる。今日もそうだろうと思って、私はましろの腕が伸びてくるのを待っていた。項垂れたつむじにすんすん、と鼻を寄せているとふいに横から抱き上げられ、やはり彼女の胸にぎゅっと包み込まれた。私の頬に、ましろは自分の頬を擦り寄せる。

「すき」

 幼さを感じさせる調子で、ましろはそう呟いた。そのままぐりぐりと頬の擦り合いをしながら、すきすきすき、と連呼する。

「やっぱり私はお前が好きだよ」

 ましろは私の前足の下に指を入れて抱え上げると、無防備に晒された腹部に顔を埋めた。白い腹毛を鼻でくすぐるようにしながら、唐突に膨らました頬から、ぶ、と息を吹きかけてくるので、やめろ、と私は少し暴れた。腹に息を吹きかけられるのはくすぐったいのだ。しかしましろはそんなこと一切意に介さない様子で、くすくすと笑った。ようやく見えた笑顔に、腹のくすぐり一つで元気になってくれるのであれば安いものだと思う。だが、もう一度私の腹に同じ攻撃をしかけようとするので、身を捻ってましろの腕から逃れた。ましろは愉快そうに笑っている。

「お前は本当にかわいいね」

 立ち上がりながら、優しい声音でそう言ったましろは靴を抜いで部屋へと上がった。ましろの足音と、私の爪がフローリングの床にぶつかるちゃかちゃかという音が重なる。ましろは私を一撫ですると、洗面所へと消えていった。何やら今日のましろは落ち込んでいるようなので、万全の状態で彼女を迎え入れられるように、私は先にリビングへ戻っていることにした。

 ミュージックプレイヤーが置かれた低い棚に、私は飛び乗った。ましろのタブレットと連動したタイプのプレーヤーで、簡易的なボタン操作のみで内部に登録された楽曲を流してくれる。あらかじめ、ましろの好きなアーティストの曲がシャッフル再生に設定されていたものを、私は鼻先でボタンを押して再生した。たおやかな女性の歌声が、ふわりと広がるピアノの伴奏とともに響き始める。私は左右に広がる大きな耳をぴくりと動かした。私もこのアーティストが好きなのだ。

 さらに私は、ましろのお気に入りの円形クッションを引きずってソファの上に放った。そしてベッドの上など、部屋中に点在するぬいぐるみたちを銜えて集め、クッションの周囲に並べる。ソファの上にクッションを敷かずとも良いだろうが、これは私から「ここに座って欲しい」という、ましろへのメッセージなのだ。ここにましろが座れば、ぬいぐるみたちに囲まれて、好きな音楽を聴くことができる。もちろん私はましろのすぐ隣の席を確保しているし、大半は膝の上で横になっている。そうして、落ち込んだ日はましろの話をゆっくり聞いてやるのだ。

 ましろは部屋に入ってきて、私が簡易カウンセリングルームを作り上げたことに気づいたようで、私を見てふっと笑った。いつもありがとう、と私の頭から背にかけてを往復して撫でてくれる。きゅい、と私の喉が鳴った。

「そうだ、叔母さんからもらったクッキー食べようか」

 ましろは部屋の隅に追いやっていた段ボールの中から、クッキー缶を取り出した。ましろの好物で、現在は離れて暮らしているましろの叔母が送ってくれたものだ。ましろはこの缶を「クッキー食べたい衝動」がどうしても抑えきれない時にのみ開封している。理由は入手困難だからではなく「太るから」らしかった。以前、ましろは険しい顔をしてそう答えた。私としてはもう少し肉付きがよくても良いと思っているのだが、それを言うともの凄く不機嫌になってしまうので黙っている。

 ビニールテープをはがして、ましろは缶をソファ前の机まで持ってくる。嬉しそうにそこで蓋を開けて、美味しそうだね、と私に笑いかけた。

キッチンに向かい、甘いカフェオレと私に温かいミルクを用意してから、ましろはソファのクッションの上に座る。飲み物と一緒に持ってきた布ナプキンを膝の上に敷くと、ましろは缶から一つバタークッキーを取り出し、それをナプキンの上で半分に割った。片割れを銜え、もう一方の片割れはさらに細かく割っていく。欠片になったクッキーを、ナプキンの上でましろは掌に乗せて私に差し出した。私はましろの膝に前足を乗せて、クッキーをはぐはぐと食べる。喉の奥へと転がすように、口を動かしながら上を向く私に「粉っぽいから喉に引っかけないように気をつけてね」とましろはこもった声で言いながら、ミルクの入った皿を反対の手で近づけてくれた。私はクッキーを食べるのをやめ、今度はミルクに顔を近づける。跳ねないようにちろりと慎重に舌で舐めとる私を見て、ましろはくすくすと笑った。

「そんなに気を遣わなくていいのに」

 私がミルクを舐めるのをやめると、ましろは机の上に皿を戻す。空いた手に体を寄せて「その言葉、そのまま君に返そう」と私はましろを見上げた。驚いたように瞬くましろに私は、何かあったのだろう、と額を擦りつける。ましろは私を見つめ、少し間を置いてから「……うん」と頷いた。ましろの手が優しく頭上を過ぎ、尾の先まで流れていく。そのまま私の尾を弄り始めるので、したいようにさせることにした。

私がクッキーを食べないのを見て、ましろは細かくした残りをナプキンの上に落とし、それを包んで机の上に移動させた。空いた膝に、私を抱えて乗せる。私が丸くなると、ましろはカフェオレを一口啜ってから、ゆっくりと私の背を撫で始めた。毛並みに沿った、優しい愛撫を受ける。私は目を細めた。

「ねぇ、フェネ」

 名を呼ばれて、私は垂れさせていた耳をぴん、と片耳立てた。ましろはその耳を指先で擦るように撫でる。それが気持ち良くて、喉を鳴らしそうになる直前で、ましろの言葉に私は動きを止めた。

「結婚しよう」

 大きな耳で、はっきりとその言葉を聞き取ったが、いやいや聞き間違いだ、と私はましろに顔を向けて首を傾げた。

「……よく、聞こえなかったんだが」

 そう言う私に被せるように、ましろは先ほどよりも声を大きくして「結婚しよう」と至極真面目な顔で告げた。私は混乱して、横に瞳を潰しながら鼻をひくひくと動かした。ましろはなおも真剣な面差しで私を見つめている。妙な沈黙が生まれて、私は耐えきれずにため息をついた。

「ましろ、私は真剣に君の話に耳を傾けようと思っているのだがな」

 私の呆れ声に、ましろは失敬な、と私に寄せていた顔を遠ざけて背筋を伸ばした。

「私だって大真面目に口説いているんだけど」

 こういう場面で冗談を言う子ではないことは重々承知しているが、だからこそ反応に困るのである。何を言い出すのかと思えば、結婚しよう、とは。思い返せば帰宅した時も、何かあったかと問う私にましろは、好き、と脈絡のない言葉を返していたことを思い出す。ましろの私に対する唐突な告白ラッシュはいつものことなので、あまり気に留めていなかった。しかし、「好き」や「可愛い」はあっても、今まで「結婚しよう」と言われたことはなかった。

「セラヴィターを口説く主人など、聞いたことがないぞ」

 私は起き上がって、膝の上で真っすぐにましろを見上げる。ましろは不貞腐れた様子で少し唇を突き出しながら、わかってるよ、と呟いた。

 私は、ましろを癒すために存在する「セラヴィター」だ。セラヴィターとは、主人との交流を通して主人のメンタルケアをすることを目的に生み出された人工生命体のことである。

アニマルセラピーのような「癒し」の効果を、人工的な生命体によってもたらすことができないか、というのがセラヴィター開発に至った当初の目的であった。動物と触れ合いは、他の生命を慈しむ心を養い、他者との交流による信頼感の構築から自己肯定感を持つことが出来るとされている。そうした効果をより高めるために研究、開発されたのが、私たちセラヴィターなのだ。

私はフェネックという動物に、ドラゴンの翼と尾を併せ持つセラヴィターである。私のように、型を組み合わせて作られたセラヴィターもいれば、犬や猫のように人間にもとより慣れ親しんだ姿を、そのまま忠実に再現したセラヴィターも存在する。基本的には主人に合わせてオーダーメイドで作成されるのだが、ましろはセラヴィターの製造施設でサンプル展示されていた私を、そのまま自身のセラヴィターとして迎え入れた。通常、ほぼ一生の付き合いとなるセラヴィターをサンプルから選ぶ人間はいない。ましろは、出会った頃から変わった子だった。彼女の変化球にはそこそこ柔軟な対応ができると自負していたのだが、今回ばかりは、ああそうだな、と簡単に頷いてやることはできなかった。

「でも、セラヴィターを口説いちゃいけないなんて、私は一度も言われたことがないよ」

 ましろは玄関でそうしたように、また私の前足の下に手を差し入れて私を立たせた。今度は腹ではなく、鼻にましろの鼻を近づける。鼻と鼻とぶつけて見つめ合いながら、私はましろの口の端にクッキーの食べこぼしがついていることに気づいて、ぺろぺろとそれを舌で舐めとった。くすぐったそうにして目を閉じるましろは、んー、とくぐもった声を上げる。腕が緩んで、私はましろの胸に寄りかかった。柔らかいと感想を述べると、えっち、とでこを弾かれたことがあった。

「言わなくとも、誰もそんなことをしないからだ。君は少し、独創性が強い」

 それっていいことじゃない、とましろに首を傾げられて、時と場合に寄る、と私は鼻を鳴らした。

「……それで、『結婚』などという結論に至るまでに、どのような過程があったのか聞かせてもらおうか」

 本題だ、と私が話を戻すと、ましろの表情に一瞬の迷いと、垣間見える嫌悪が現れた。ああ、間違いなく何かあったのだな、と私は確信する。どう伝えたものだろうかという迷いと、それを生み出した者への嫌悪感。複雑に入り組んだ彼女の精神は、他者が取りこぼしてしまうような小さな穢れも、彼女の中に巻き込んでしまうのだ。

 ましろは覚悟を決めたように目を伏せて、すっと息を吸い込んだ。

「行きの電車でイヤホンからがんがん音漏らしながらぼそぼそ歌ってるやつと周囲を気にせずに大声でべらべら喋ってる女に挟まれて、改札の直前でふいに足を止めて携帯弄り出したやつにぶつかりそうになって避けたら他の人にぶつかりそうになって睨まれて、学校の細い階段でのろのろ歩くグループに足止め食らって、集団討論とかいうやつで気持ち悪い綺麗ごとを散々聞かせれて、自分もそれを言えとか言われて、挙句の果てには外から飛んできたちっこい虫と戯れてたのにそれに気づいた女子が騒ぎ始めてパニックになって虫は叩き潰された」

 一気に言い切ったましろはそこで一旦言葉を止め、呼吸を整えたところで「その虫を潰した男に告白されて、むかついてた」と最後の一言を追加した。

 ましろのマシンガン文句をふんふん、と聞いていた私は最後の一言に頷いた後に、びん、と尾を立てて毛をそばだたせた。

「告白、だと」

 思った言葉がそのまま口をついて出て、ましろは憤った様子で頷いた。

「放課後にね、呼び出されてだろうなとは思ったけど、あまりにど直球過ぎて馬鹿なのかと思った」

 大切な主人に言い寄った男がいたことに私は衝撃を受けていたが、ましろの様子を見る限りは断ったようで、私はそっと胸を撫で下ろした。身内の贔屓目を差し引いても、ましろは愛らしい少女だろうと私は思っている。そういった出来事に遭遇することがあるのはわかっているし、初めてではないのだが、やはりそれでもどきりとさせられてしまう。

 衝撃から立ち直った私は、なるほど、と尾を垂れさせた。そのまま尾を抱えるように丸くなって、毛繕いをする。ましろはそんな私に少し怒気を忘れたようで、表情を柔らかくして私に触れてきた。毛繕いの延長で、ましろの指も舐めてみる。小さく笑う声が降ってきた。

「とすると、君が今日激しく落ち込んでいる主な原因はその男子生徒にあるのだな」

 まぁそんなとこ、とましろは一気に語って脱力した様子だった。息をつき、クッキーに手を伸ばす。さきほど砕いたものがまだ残っていたが、違う味のクッキーの欠片を差し出されたので、私はそれをありがたく頂戴した。ましろは咀嚼しながら、でね、そいつがね、と続きを語る。

「席が近かっただけのくせにさ、私のことをやたらと知った風に言うんだよね。あれが好きなんだよねこれが好きなんだよねって、私が適当にあしらって話した会話の内容を一言一句漏らさずになぞられて気持ち悪くって。面倒くさくなったから、何が言いたいんですかってこっちから先導してやったんだけど、もじもじ遠回しに『良かったら一緒にでかけない?』とか言って、拒否しようとしたら『全然そういうんじゃないから。友だちになりたくて』とか何とか言って私から否定されることからも逃げるし、ああいう退路を作りつつ探るような物言いをするやつには本当殺意が湧く」

 憤慨した様子で文句を連ねるましろの表情の雲行きは再び怪しくなっていた。話を聞いて、確かにましろが一番嫌いなタイプだなと私は一人納得する。恋人になって欲しいのならば、それだけ伝えればいいのだ。そしてましろにこてんぱんに言いくるめられてその心をぽっきりと折られてしまえばいい。

 ましろは少し冷めてしまったカフェオレをずず、と啜って喉を潤し、ああいうのは私じゃなくていいんだよ、と続けた。

「満足に話もせず、互いのことを知りもせずに好きだなんて言えるやつは、彼氏彼女がいるっていうステータスを自分に与えたい馬鹿ばっかりだよ。愚か者だよ。そんなものが世の中にごまんとあふれて息をして、何食わぬ顔で今日も生きていると思うと、寒気がするね。私はたかだか十四年ほどしか生きていないけど、悪寒の持久力なら人並み以上だとむしろ誇りに思うよ」

 加えて言うなら虫唾もだ、とましろはもう一枚クッキーを摘まんだ。中央にジャムが乗っているタイプは私が嫌いなものなので、ぺろりと食べてしまったようだった。

「確かに、人間相手だと君の悪寒は年中駆けずり回っているからな」

 私の言葉にましろは、そうなんだよね、とぼやいてソファにぽすんと背を預けた。ましろが寄りかかったことでバランスを崩したうさぎのぬいぐるみがこてりと倒れると、ましろはそれを抱き上げる。胸のあたりでぎゅっと抱きしめるので、私はむっと目を細めた。ましろのためにぬいぐるみを用意したのは私だが、それを大事にされる姿を目の当たりにするのはなかなか妬けるものがある。私は鼻先をましろの腹に押し当ててぐいぐいと押した。それだけでは撫でられるだけで充分に注意を引くことができなかったので、前足でたしたしと穴を掘る仕草をする。ふふ、と含んだ笑い声をこぼしてましろは、くすぐったいよ、と寝そべるように倒れ込んだ。うさぎのぬいぐるみをましろが手放したのを確認し、さり気なく私はそれを自分の背後に押しやる。そして、ましろの顔のすぐそばに近寄った。

「……フェネ、私はどんどん人間が嫌いになっていくよ。もう好きだった頃のことが思い出せない。こんな愚かな生き物に生まれてしまったことを恥だと思うし、お前のようにたった一つの目的のために純粋に生きるものに生まれ変わりたいと思う」

 私以外の者が聞けば、何を告白ごときで大袈裟なと思うかもしれない。しかしそれこそが愚鈍な人間の証であった。他者の内部を慮ることのない者は、平然と他者を踏みにじり、深い傷をつけたことにも気づかずにそのまま立ち去っていくのだ。人のあふれ返ったこの場所では、傷つけられた者でさえ、簡単に憎むべき相手の顔を忘れてしまう。ましろが恐れ、忌み嫌うのはそういった者たちだった。人を傷つけても、傷つかない者たち。そんなものと同等になり下がるくらいならば、永遠に傷ついて、そのまま死んでしまった方がましだとましろは言う。優しい子なのだ。優しく不器用で、世間知らずで我儘な、慈愛に満ちた子どもだ。

「しかしそれでは、私は君のもとへ行けなくなってしまう。私は君が人で良かったと思っている。君が、君で良かったと」

 私はましろの頬をぺろりと舐めた。ましろはその頬を染めてはにかむ。

「……そうだね、人間に生まれて良かったことは、お前に出会えたことだよ」

 ありがとう、と言ってましろは私を抱きしめた。私の額に顔を埋めるようにして、ましろは私にキスをした。もぞりと動いて顔を上げると、穏やかな表情で見下ろされる。

「でもね、フェネ。私は多分もう人間を愛することはないと思うんだよ」

 鼻先と鼻先が触れ合うような距離で、ましろは囁き始めた。ほう、と言って私が促すと、夢見る少女らしいきらきらと輝く笑顔でましろは続ける。

「だから私は誰よりも何よりも愛するフェネと結婚して、セックスして、子どもを作りたいなって」

 げふんげふん、と私は咽た。今更になって粉っぽいクッキーを喉に引っかけたかもしれない。ちょっとミルクを飲ませてくれ、と私がましろの腕の中から逃れようとすると、がっちりとホールドを強められてしまった。

「私、人間には微塵も魅力を感じないんだ。でも、フェネといる時はこの胸の辺りがね、きゅうってするんだよ。人間が何をしようともここは冷えたままなのに、お前の姿を見ただけで苦しいくらいに熱くなるんだよ」

 これは恋だよねと、自信満々に告げてくるましろに、何の拷問だと私は頭を抱えたくなった。そこそこに豊かな胸に挟まれて身動きが取れないが、自由の身であれば間違いなく自分の手で大きな耳を塞いだことだろう。どうして主人の胸の中で、恥ずかしくなるような愛の告白を聞かされねばならないのか。

「ましろ、落ち着きなさい」

 むしろ落ち着きたいのは私の方だった。声は何とか平静を装うも、素直な尾は隠しきれずにぶんぶんと振り回っている。私は落ち着いてるよ、とましろは眉間に皺を寄せて言った。彼女は恐らく、自分がどれほどぶっ飛んだことを口にしているかわかっていないのだ。なお性質が悪い。

「……確かに君が、人間を嫌う気持ちはわかる。だが、だからと言ってそれがセラヴィターとの結婚云々には直結しないだろう」

 諭すような私の言葉に、ましろはむっと表情を少し歪めた後、何を思ったかまた拘束を強めた。私の顔を彼女の肩口に埋め、片耳に頬ずりをされる。

 ましろがここまで人間を嫌うのは、単に彼女の神経に障るからだけではない。彼女は事故で両親を同時に失った。その両親は大手企業の経営者であり、資産家であった。そのため彼女は大切な家族の喪失の代わりに、莫大な遺産を背負うことになったのである。

 ましろが会ったこともないような、遠縁にあたる親戚までもが、遺産欲しさにましろの保護を申し出た。もちろんその中には、本当にましろの身を案じて保護を申し出た者もいたのかもしれなかったが、タイミングが悪かった。自身の背に遺産を負ったましろは、突如伸ばされた人々の手に酷く怯え、そして怒り、蔑んだ。人間の笑顔の裏というものを見る子になってしまっていた。事故についても不可解な点が多く、遺産を狙った者の計略ではないかと囁かれたほどだった。そんな状態で、他者を信じて身を寄せることなどできるはずもなく、ましろは深い親交のあった母方の叔母夫妻を、ましろたち家族が暮らしていた邸宅に「住まわせる」という形であくまで主権を自分に残し、他の一切の手を跳ね除けた。ましろにとって叔母夫妻のみが、一番にましろの身を案じ、そして両親の死を悼んでくれた相手だったのだ。

 ましろは賢い子だ。同時に快活でもある。しかしそんな少女の心は一度大勢の人間によって捻じ曲げられてしまった。叔母たちと暮らし始めても以前のような明るさを取り戻すことができずに、人間不信から精神を病んでいったと言う。そこでカウンセリングを受け、紹介されたのがセラヴィター、つまり私だったのである。

 ましろは私を自分のセラヴィターとし、そしてカウンセリング受信者専用のこのアパートに、私と二人で暮らしたいのだと言って越してきた。叔母夫妻のことが嫌になったわけではなく、人と暮らしていくのにもう少し時間が欲しかったのだとましろは言っていた。

 日常のほんの些細な出来事が、彼女に残された深い傷を刺激し続ける。繊細で脆い主人を、私は何としてでも守ってやりたいと思うのだ。今は、人からの愛情を受けつけられないましろに、人ならざる私が愛と休息を与えたい。

 だが、しかし。

「私も君を愛おしく思う。しかしそれは恋だ、結婚だとは別次元なのではないか」

 何とか体の向きを変えて、私はましろの頬に鼻を寄せた。つんつん、と突くとようやく解放される。仰向けに体勢を変えたましろは、そうかなぁ、と不満げに天を仰いだ。

「私はこんなにフェネのことが好きなのになぁ」

 ましろは眉間の皺を深くして、口を尖らせる。ましろの胸の中央に安定する場所を見つけ、私は四肢を畳んだ。頭を下げて上目遣いに見上げると「だって、もう、こんなに可愛いのに」とましろは私の顔を両手でもみくちゃにした。うりゃうりゃ、と猫可愛がりする手から逃れて、私はぶるぶると顔を振るう。

「フェネ以上に愛せる存在が、この地球上にいると思えないんだよね」

 ましろは真剣な顔と、真剣な声音でそう言う。主人からこれほどまでに愛されるのは、セラヴィターにとって非常に名誉なことではあるが、それでは困るのだ。ましろの将来的な意味合いで困る。

「望みを捨てるにはいくら何でも早すぎるだろう。君はまだ子どもなんだ。これから色んな出会いがある」

 私がため息交じりにそう告げると、ましろはあからさまに不服そうな表情を浮かべた。ましろは未来の話をされるのが好きではない。これから先も、わけのわからない人間たちと出会っていかねばならないという悲しい宿命を思い知るからだ。

「じゃあさ、逆に聞くけど、フェネは私が他の人を好きになって、いちゃいちゃしても何も思わないの? こうやってクッキーを食べるのも、その人とかもよ」

 ましろの問いに、主人の幸福とあればそれも良いだろうと答えようとしたのだが、ましろが見ず知らずの男と仲睦まじげにクッキーを食べたり、ともに出かけたり、果てには恋人に許された愛情の伝達行為を繰り広げたりする図を頭に展開してしまって、私は唸った。威嚇のような表情を浮かべる私に、どういうリアクションなの、とましろは怪訝そうに顔をしかめた。私ははっとして視線を逸らし、耳を垂れさせる。

「……あまり、良い気はしないが」

 口ごもりながらそう返答した私に、ましろはじわりと喜色を浮かべ、えへへと笑った。ありがとうと礼を言われてしまって、私は居た堪れなくなる。主人の交際関係に口出し、嫉妬をするなどセラヴィターとしてあるまじきことだ。

「まぁ、そんなのあり得ないけど」

 機嫌を良くしたましろは、けろりとそんなことを言ってのける。ずっと控えめに流れ続けていた音楽に軽い鼻歌を添えながら、あーあ、とため息をついた。

「人間やめちゃいたいよ」

 人間をやめて、どこかここではない場所でお前といつまでも一緒にいたい。それが最近のましろの口癖だった。学校に行き始めてから、こんなことを呟くことが多くなった。

ましろの通う中学校は一般的なものではなく、何かしら問題を抱えて一度学校をやめてしまった生徒たちが通う特別学校である。ましろも両親を亡くしたことをきっかけに学校を休み続けていたが、このアパートで暮らし始めてからしばらくして、学校へ行く決意をした。ましろなりに今後の自分の身の振り方を考えてのことのようだった。

だが、そんな場所であったとしても、人間嫌いのましろには苦行でしかない。ましろが人間と関りを持たなくて済むのは、確かにこの家の中しかないのだ。今でも登校を渋ることは多々ある。そして今日のように、項垂れて帰って来ることも多かった。学校へ行けば他の生徒や教師との関りは必須となり、それはましろがいつかはこの家を出て、人間のあふれる社会へと立ち向かわなければならないことを色濃く意識させるのであった。だからこそましろは、人間をやめてしまいたいと嘆く。人ではないものに変わって、何の束縛もなく、セラヴィターと過ごす穏やかな時を永遠に続けたいと考えるのである。それはどこか、大人になりたくないという子どもの願いに似ている。成長や時の流れから永劫に逃れてしまいたいという、叶わない願いだ。

自身に猶予を与えるためにましろは今の生活を選んだ。しかし今度はその猶予が、永遠でないことを彼女に突き付ける。難儀な子だ、と私は黙した。

 静かになってしまった私との間を持たせるように、ましろは小さく歌を口ずさむ。優しく全身を撫でられて、心地よさに私は目を瞬かせた。

「……もし、フェネと結婚できるならね」

 ぽつりとましろが呟き、私を撫でていた手が背で止まった。そこからあやすように、とん、とん、とゆっくりとリズムを刻み始める。

「こういう時間を、もっと大切にしたいな。お前がそばにいてくれるとね、すごく安心するんだよ。お前以外は何もいらないっていう気持ちになる。恋とか、愛とかを全部取っ払っても、ただお前を感じて心が安らぐ」

 私をあやしながら、ましろ自身もゆっくりと微睡んでいるようだった。寝息を混ぜたような囁きが漏れる。

「そういうのがね、人間だとないんだよ」

 だから人を愛せないのだと、ましろはそう言っているような気がした。

 ましろの言葉からあふれるのは、純真だ。真白な心が、他者の介入で色づくことを恐れている。私はセラヴィターであり、その色を守るために生まれた。

 本当に私が、ましろの永遠と成り得たら。人工生命体には出過ぎた役回りであり、望むこと自体がおこがましい。しかし、もしそれが許されるのであれば、私は喜んでましろの願いを叶えたかった。私もすでに、主従を越えた愛を彼女に抱いているのだ。ましろの言うものとは少し違うかもしれないが、ましろは私の子のようで、姉のようで、母のようでもある存在だ。そうした家族のような愛と絆で結ばれたましろを、みすみす他の男に奪われたくはなかった。

 この思いを告げれば、ましろはどんな顔をするのか。目に見えていたので、私は微睡んでいるふりをして何も答えなかった。

 何だか眠くなっちゃったねと、ましろが間延びしつつも明るい声で私に呼びかける。私は返事の代わりに畳んでいた足を伸ばして、ころりと横になった。ましろはそんな私を見て、くすくすと笑う。

「こんな時は、惰眠を貪るに限るよ」

 するりと一撫でされて、私はくあ、と大欠伸をして見せた。それが伝染して、ましろも欠伸をする。私を落とさないように、腕を伸ばしてましろは伸びをした。

「ねぇねぇ」

 呼びかけられて、私は目を開ける。眼下のましろはにやりとしていた。何かろくでもないことを思いついたな、と私が牽制する前に、おやすみのちゅうしてよ、とましろは言った。わざとらしく口を尖らせてくる。

「君にはまだ早い」

 私は起き上がって前進し、前足でたし、とましろの口を押えた。不満な返答が返ってくると思っていたが、予想に反してましろはぱちくりと瞬いた後に、にこりと笑った。

「じゃあ、いつかはしてくれるんだ?」

 しまった、と私は目を細めた。うまく往なしたつもりが、ましろの方が一枚上手だったようだ。これ以上の追及を逃れるために、私はふす、と鼻を鳴らしてもといた場所に戻った。そこでまた、ころりと横になる。

 ましろは声を抑えて笑うだけで、深くは追及してこなかった。丸まった私を、ましろの優しい手が撫でていく。やがて、微睡は深くなっていった。ましろが私を撫でる手も不規則になっていく。その手が止まった頃に、私は目を開けて少し顔を上げた。ましろの寝顔が見える。

 主人に私の思いが勘づかれてしまうのも、時間の問題かもしれない。もしそうなってしまったとしても、私だけはましろに安息を与えていたいと願うのは、セラヴィターとして相応しくないのかもしれなかった。だが、ましろのために与えられた命はましろのために使いたかった。

私はもう一度大きく口を開けて欠伸をする。それからましろのぬくもりを感じながら、ゆっくりと目を閉じたのだった。