西島京子だ。西島京子だった。
僕は西島京子を思い出した。
僕が西島京子を思い出したとき、僕は行きつけの、川沿いのホテルで女を抱いていて、ちょうど女が「イクイク」と言っていて、腰を振っているんだか、振られているんだか分からないときだった。女は、「イクイク」と言っているのだからイきそうで、僕はイクも来るもなかったわけだけど、ともかく、女が、あぁ~、と言って絶頂を迎えるとき、僕は西島京子だった。西島京子で頭がいっぱいだった。僕は、白目をむいた女の上で、女の絶頂と同時に、西島京子!
と叫んだ。
女の名前が西島京子だったら良かったのだけど、そんな偶然はなくて、すぐに飛んできた平手打ちを、僕はきれいに躱した。女が僕を睨む。誰よ、西島京子って。そう聞いた女は、僕を押して、僕の男根が弾みをもって、女から引き抜かれる。ブルンブルンっ。
僕は仕方がないから嘘を吐いた。僕はね、いつも射精するとき、西島京子! って叫ぶんだ。
やはり信用されなかったから、僕は試しに、西島京子!西島京子! と叫びながら男根をこすって見せて、実際射精にまで至ったのだけど、女は呆れて、帰ってしまった。
僕はともかく反省した。ふっと一息ついて、小窓から外を眺める。ラブホテルにしては珍しく、部屋の窓が隠されていなかった。普通は窓があったとしても隠されているものだ。すぐそこに川が見える。空は薄く白んでいて、ただ日は差しておらず、川辺は非常に暗い。防音になっていて、川の音は聞こえないけれど、黒くゆったりと流れる川は、いつにもまして迫力がある。
土手の上では、早朝にも拘らずランニングウェアに身を包んだ人がいた。僕は眺めているうち、彼らは何に走らされているんだろう、と疑問に思う。昔、ランニングを日課にしようとしたことがあった。初めは軽快に進むのだけど、走っているうち、次に右の足を出すのか左の足を出すのか、どうにも分からなくなることがあった。それでも、ひどく自動的に、自分の足は動くものだから、僕はなんだか気味が悪かった。結局、三日と持たず、走るのをやめてしまい、今は使わなくなったシューズだけが家に残っている。僕は飽き性なのだ。
そんな、変わらない、朝の景色を眺めていると、女が出ていったことなんかは、どうでもいいと思えるようになった。いや、そもそも最初からどうでもいいことだったのかも知れなかった。僕の腰が女の尻を叩く音や、それから連続するピストン運動には、さして意味なんてないように思えたし、僕が子孫を残さなかったところで、世界人口に大きな変化はないだろう。すると僕はなんのために女を抱いていたのか、まあ気持ちいいからだろうな、と思うと、ますますさっきの女のことがどうでもよくなって、僕はベッドに横になる。そして今しがた思い出した、少女の名前を反芻した。西島京子だったのだ、あの少女は。僕はとても嬉しくなる。
僕は最近、ある少女の夢を見るようになっていた。
その少女はいつも魔法使いのローブをまとっていて、魔法使いの杖を抱えていた。少女の顔はなんだかぼんやりとしていて、実際どのくらいで、どんな女の子だとか、そのあたりはよく分からなかったのだけど、少女ということは分かった。魔法少女なのだ。彼女はいつも、なにか強大な、黒いもやもやとしたものと戦っていて、傷ついては戦い、魔法を唱えては闇を払っていた。彼女は光の魔法少女で、きっと敵のあの黒いもやもやは悪の魔法使いが生み出した化身なのだろう。彼女は正義の味方で、みんなのヒーローなのであり、そのために身を滅ぼしながらも、懸命に世界のために戦っているのである。
僕は大学の三年生で、周りは将来どうするか、ああするか、という話で盛り上がっているわけで、僕の夢の話をしても、「大崎は就活への不安で頭がおかしくなった」だとか、「下半身でしか物を考えられなくなった」だとか、さんざんな言われようで、まあそれも仕方ないかと思っていたのだけど、夏休みが始まる前、インターンだのなんだの、周りが騒ぎ出してから、僕の夢はさらにエスカレートしていって、寝ていないとき、つまり起きてなにかしているときでも、僕の頭にあの少女のイメージが割り込んでくるようになった。
少女は夢のときほどぼんやりとしていなくて、顔もはっきり分かり、目には光があり、体は溌剌としていた。いつも服の上から黒いローブをまとっている。場所は教室であることが多くて、たまに校庭だとか、プールサイドだとか、あとは帰り道だとか、ともかく学校周辺の出来事だった。僕にはそれが小学校だと分かった。僕の母校の風景そのままだったからだ。僕の空想なのだから、僕が知っているものが出てくるのは当然とも言えた。
僕が寝ていて、夢を見ているときの少女は、なにか黒いもやもやしたものと戦っていたのだけど、僕が起きているときに浮かぶ彼女はいつも、手がいくつもあって、けれど目はひとつしかない、どことなく不安になる、粘土の塊みたいな化け物と戦っていた。うねうねと手を自由自在に操り、壁を歩いたり、そのたくさんある腕を振るって、空を飛んだりしていた。足はなくて、色はやはり黒い。
化け物は、少女が放課後や休み時間になると攻め込んできて――その辺りはかなり都合の良い化け物なのである――、だから彼女は、友達と遊ぶ時間を削って化け物と戦うことになる。あまり友達はできないけど、それでも戦うのだ。
少女は魔法を使って、杖から出てくるのは電撃や炎で、ピカピカと神々しい光を放ちつつ、敵を倒していた。
少女のイメージは、いつも唐突に僕の頭の中を支配した。僕が少女に支配されているとき、僕は全く動かないで、中空のある一点をずっと眺めているらしい。呼びかけても答えず、まるで神でも崇めるように、ずっと一点を見ている。そんな状態だから、バイト中や女を抱いているときは誤魔化しようもないわけで、何度か痛い目にあった。
さすがにまずいなあ、と友人に相談するも、大崎が薬に手を出した、と真面目に受け取ってもらえず、まあそれも当然かと納得するほかなかった。
しかし、ついに思い出したのだった。少女の正体を、彼女は西島京子だ。彼女の名前は西島京子だ。
たぶん小学校三年のとき同じクラスだった。うまく思い出せないからなんとも言えないけど、彼女はいつも魔法使いのローブを着て、教室で暴れまわっていたように思う。変人呼ばわりされていて、でも顔は良かったはずだから、きっとその中傷には、照れ隠しがあったのではないだろうか。なにぶん昔のことだから、記憶が曖昧でどうにも具体性に欠けるけど、しかし彼女が西島京子で、それからローブをまとって教室を駆け回っていたということはなんだか確信が持てた。
僕はケータイを探そうとして、体がじめじめしていることに気付いた。とりあえずシャワーを浴びたい。脱衣所まで行って、隅には黒くカビが生えていた。そういえば、あの女はシャワーを浴びて帰ったのだろうか、妙に暑かったからずいぶんと気持ち悪かったはずだけど、と考えても仕方なかったので、僕はシャワーを浴びた。排水溝には黒い毛が幾本も詰まっていて、そこに大量の水が流れ込んでいく。僕はぞっとした。
体をさっぱりさせたあと、ケータイを開いて、僕は金田に連絡を入れる。小学校のころ、西島京子ってやついたよな。すぐに返信が返ってきて、ああいたな、えらく美人だったが、頭も芸術的だった。
結局、金田が明日、大学に卒業アルバムを持ってきてくれることになった。僕は一人暮らしで、アルバムがあるのは実家だった。実家があるのは調布で、僕が住んでいるのは杉並区だった。一応都内ではあるけど、夜も深く、取りに帰るのは面倒だった。実家から通っている金田は、僕の一人暮らしを道楽だとののしり、それから、寝ろよ成金、と捨て台詞を残して、そのあと返信はなかった。
僕はその日、また少女の夢を見た。
少女はいつものように、八つの手の怪物と戦っていた。魔法で攻撃したり、杖で叩いたり、杖で叩いたところからは白い光が散った。怪物が痛手を受けている様子はなく、でもいつか化け物は闇の中へ帰っていく。少女はこちらを振り返り僕に向かってブイサインを送る。その姿に僕は温かさを感じる。けなげに、文句も言わず、よく分からない黒い化け物と戦う彼女、その顔から笑顔が消えることはない。
次の日、僕が学校へ行くと、金田が近づいてきて、A定食な、と言って卒業アルバムを渡してきた。僕が千円を渡すと、金田は、金持ちー、と僕を煽る。もともとお金にはあまり執着がない。銀行の残高にもあまり興味がない。打算的なものを嫌うところがあるのかもしれない。
僕は卒業アルバムを開いて、集合写真を探した。六年のページにしか集合写真はないようだった。なあ、西島京子って、六年のとき何組だった? ああ、たしか四組。僕は目次から四組を開く。一人一人、顔を確かめようとした矢先、金田が写真の一点を指して、こいつだよ、と言った。
西島京子は集合写真に写っておらず、いや正確には写っていたけど、別枠というか、右上の丸窓の中に別の日に取られた写真が張り付けてあった。不登校ゾーンである。西島京子は、あの少女とたぶんそっくり同じ顔をしていた。ただ、僕の頭の中の話だったから、確信は持てなかった。
西島京子って、不登校だったか。僕が金田に聞くと、いんやそんなことはねえな、と返ってくる。たまたま休んでたんだろ。
西島京子について、金田は知っていることを教えてくれた。僕の記憶の大部は正しかった。いつもローブを身にまとった変人、戦う魔法使いの設定らしく、手にした木刀を振り回しては先生に怒られていたそうだ。魔法使いなのになんで木刀なんだ、と僕が聞くと、金田は、俺が知るわきゃねーだろ、とケータイをいじりながら言った。それから金田は、僕の方を見て、そういえば、どうして西島なんだ、と聞く。僕は例の夢の少女が西島京子だったのだと正直に話す。金田は腹を抱えて笑い、周りの視線を集めた。僕は周りなんてどうだって良かったけど、金田はそうでもなかったらしく、声のトーンが少し下がった。ああ、確かに、お前って、やたら西島の方見てたよな。
僕は驚く。僕が西島京子のことをずっと見ていた? 全く覚えがない。金田に聞くと、どうやら本当のことらしい、金田が嘘を吐く必要なんてない。ともすると、僕がなにか忘れているのか。
いやあ、ずっと見てたさ。昔もお前に好きなのかって聞いたけど、なんかうやむやな感じで、しかし専らの噂だったぜ。お前さ、いろんな女に告られて、付き合ってたじゃん、でも毎回一、二カ月で別れてさ。で、好きなやつがいるんだって、学年中の噂になって、最有力候補があのイカレ女だったわけよ。
僕の話だというのに、なにぶん他人事だった。確かに、僕は小学校のとき、いろんな女の子から告白された。最初に告白されたときは嬉しかったけど、何度か会って、でも案外しゃべることもなくて、僕はあの子――名前は忘れてしまったけど――、最初に僕を好きになったあの子に、僕のこと好きなの、うん、僕といて楽しい、うん、でも僕おもしろい話もできないし、うん。それでもいいの? いいの。僕は決定的に、その子とは合わないんだなあ、と思った。
それからも何度か女の子と付き合ったけど、僕にはあの女の子たちが、僕とはどこかズレているように思えた。目を輝かせて、僕に告白してきて、それから僕のためなら何でもしてくれるというあの女の子たちが、僕には全く分からなかった。どうして僕なのか分からなかったし、確かに顔は整っていたけど、でもそんな表面をなぞるような献身が、僕には理解できなかった。他人より整った位置に目と鼻と口があるだけ、それだけなのに、彼女たちは、僕が好きだと言う。そんなひた向きさが、僕には分からなかったし、分からなかった僕を、女の子たちは分からなかった。別れるときはいつも同じだった。僕が、僕のことを好きか聞いて、彼女たちは、じゃあ私のこと好き?
僕には難問だった。
金田は言った。いやあ、大崎先生にも、ようやく春が来たようですなあ、白い歯を見せながら、僕の方に顔を寄せた。しかし、あれだな、十年来の恋なんて、ずいぶんロマンチックじゃん。
顔を引いた金田は何度も頷いていた。あの天才で、金持ちで、女を幾千人も食ってきた、大崎が、恋! 納得した顔で、まるでオペラ歌手のように叫んだ。
僕が西島京子に会ってみようと思ったのは、それから一週間ほど経った日曜日で、僕はそのとき、フロイトの『夢判断』を読んでいる最中で、しかしそれに飽きて散歩に出かけたときだった。僕は法学部だったけど、社会に出る前に、いわゆる常識と呼ばれる範囲の本は読んでおこうと思っていた。それに、例の夢の件もあった。書店に行き、目についたフロイトの本を三冊買った。『夢判断』『自我とエス』それから『精神分析入門』だった。帰って、ネットで調べてみると、どうやら『精神分析入門』から読み始めるのが良いらしい。そんな経緯で、僕は土曜の夜から、仮眠を挟んで、『精神分析入門』を読んでいたのだけど、果たして朝には飽きてしまい、だいたい僕の目下の課題は夢についてだった。『夢判断』などという直球のタイトルがあるのだから、それから読めば良かったのだ。僕は『夢判断』を読み始めて、しかしそれも放り投げてしまった。魔法は可能性の象徴なんて言われても、なんとも抽象的であったし、異性に魅入られるとか、杖が性欲だとか、とても信じられるような内容ではなかった。
気分転換に散歩へ出て、僕は自販機でコーヒーを買った。飲みながら、しかし『精神分析入門』は本としておもしろかったな、などと考え、今から心理学科にでも転籍するか、ばかばかしい、と吐き捨て、そもそもなんで僕は法学部に入ったのだろうと巡って、ああカッチリしたことになんとなく惹かれたんだなあ、とか、でも実際弁護士になりたいわけじゃないし、じゃあなんで法律なんか勉強しているんだろう、だいたい論理だとかカッチリだとか言ったら数学やら物理やらの方がよほど、まあでも数字とにらめっこしてもどうにもならないしなあ、と思って、ふと西島京子に会ってみる気になった。西島京子に会えば、例の夢のなにもかもが解決するかもしれなかった。
僕は金田に電話をした。金田は用件を聞いて、興奮した様子だった。まかせろ、と一言で通話は切れた。
西島京子の住所が分かった。そう連絡が来たのは、それから二日と経たない、午前中だった。西島京子が今、何をしているのか、分からなかったけど、ともかく僕たちの地元で何度か目撃情報があったらしい。たまたま実家に帰っていただけかもしれないけど、今も実家で暮らしているということは十分にあり得る。
金田は西島京子の住所を告げ、それから言った、いやあ、俺ほどの人脈がなければ、不可能なミッションだったな、これはそれなりの報酬が必要だな。僕が千円でいいかと聞くと、冗談だ成金が、と笑った。じゃあなんだ、と僕が聞くと、いや、なんかお前ってあぶなっかしいからさ、特定の女でもできれば落ち着くと思ってさ。僕があぶなっかしい?
そらそうよ、いつだったか飯も食わずに、家で干物になってたことあっただろ、俺がお前んち行ったら、お前さ、生かされてる生かされてるってずっと呟いてて、こいつぁイカレた野郎だぜって、心底……、ああ、実際、あのイカレ女とはお似合いだと思うよ、ほんと。
僕はその午後、さっそく西島京子の実家へ向かった。西島京子の実家は――同じ学校だったのだし、当然だけど――僕の実家と同じく調布で、僕は実家へ帰るとき、いつも電車を使う。月に一度は帰っているので、懐かしさはない。住所をネットで検索すると、僕と西島京子の家とはかなり近いようだった。
僕は西島京子の顔を思い出して、それからこれが恋なのだろうかと考える。確かに、僕はあの少女の夢ばかり見ているし、現にこうして、西島京子に会いに行こうとしている。ただ、果たして僕が本当に西島京子のことを好きなのかと言うと、疑問が残る。僕は僕を好きになってくれた女の子のことを、思い出せるだけ思い出してみる。僕が覚えていることはそんなになくて、ただ、みんな一様に、僕に予定を合わせたり、僕の意見を尊重してくれる子が多かったように思えた。献身こそが恋なのだとすれば、僕には一つ思いあたることがあった。
高校の、たしか二年のころに付き合っていた女の子のことだ。彼女は、活発な子で、それでいて芸術肌な、繊細な部分のある女の子だったように思う。絵を描くのが趣味な割には、バッティングセンターへデートに行ったりした。
彼女は僕からすると、たいそう不思議な子だった。彼女は美術部だったので、土日に練習はなく、ただ急に河原に呼びだされて、僕が何の用かと聞くと、彼女はなんでもないのと言って、それからずっと、僕などに目もくれず、もくもくと絵を描いていることがあった。僕はそんな、彼女が絵を描いているところを眺めているのが好きだった。彼女はその帰り、決まって僕にジュースをおごってくれた。
たぶん、僕は彼女のことを好きだったのだ。確信はないけど、好きだったのだ。彼女に対しては、どうして僕と付き合っているんだろうとか、そういったことを聞く気になれなかったし、僕は彼女が絵を描いている姿を、いつまでも見ていられた。
僕があの女の子を眺めていたときの視線は、僕が今、西島京子へと向けているそれと、同じものなのだろうか。僕には分からない。ただ、僕が西島京子に、なにかしら感じているのは、きっと本当で、西島京子に会ってみたいという気持ちも、たぶん本当なのだ。
西島京子の家は、僕の家より駅に近かった。黄ばんだ壁に、幾重にも黒い模様が染みついていた。生垣は整えられておらず、玄関ドアに設置されたポストには、吐き出した汚物のように、広告類が散乱していた。雑多な空間の中で唯一、たぶん魔除けの護符だろうものだけが、しっかりと延ばして貼られていた。剥げかかった表札には、確かに西島と書かれていて、その下には頼子、それから京子と書かれていた。どうやら西島京子の家で間違いないようだった。
僕はインターホンを押そうとして、それからふと、このまま西島京子に会ってしまっていいのかと考えた。僕は今、西島京子に会ってみたいと思っている。ただ、僕が思う西島京子は、夢やイメージの西島京子であって、本物の、肉体を持った西島京子ではない。それは当然だ。そんなことは分かっていた、ただ、なんとなく、僕を躊躇させるほどには、この差は、僕に意識されて、頭の中を回った。ともすると、西島京子は、僕にとって特別な女の子かもしれないのだ。
僕がインターホンに指を置いて、どれほどの時間が経ったか、突然にドアが開いて、僕は驚いて手を引く、ただその弾みでインターホンを押してしまい、鐘の音が、むなしく鳴った。西島京子が僕を見つめていた。
***
西島京子は変わらなかった。昔の面影そのままで、それでいて大人の、すらりとした美貌を映していた。僕は夢と変わらない彼女を見て、それから彼女の瞳が陽の光を浴びて白く反射するのを眺めて、どうしてか安堵した。
西島京子は、僕の顔をぐるりと眺め、上や下や様々な角度から僕を見つめた後、それでも首を傾げ「どなたさま?」と聞いた。僕は小学校三年のとき、クラスが同じだったことを彼女に告げ、覚えてるわけないね、と続けた。ただ、彼女は僕の名前を聞いたところで、「ああ、大崎くん」と手のひらを叩いた。笑顔が散った。
西島京子が僕のことを認識していたことが、僕にはひどく意外だった。ローブを身に着け、ずっと前しか向いていなかった彼女が、一クラスメイトでしかない僕を、その視界に収めていたことが想像できない。
僕が二の句を告ぐ間もなく、西島京子は「まあ上がって」と僕を家の中へ導いた。僕は言われるままに靴を脱ぎ、彼女に着いて行った。廊下にも玄関と同じように、いくつかお札が貼られていて、僕が聞くと「お母さんがね、体調悪いの」、そう言って目を伏せた。
通されたのはリビングで、食卓の他にはテレビもなく、とても静かで、鬱蒼としていた。僕が椅子に腰かけると正面に台所が見える、最近見かけるシステムキッチンではなくて、手垢にまみれた昔ながらの台所だ。ガス給湯器が黄ばんでいる。
「お昼は食べた?」
台所を眺めていたからか、西島京子に聞かれる。僕は彼女のことで頭がいっぱいで、だから昼食は食べていなかった。
「食べて行ってよ」
そう言った彼女は、冷蔵庫に手をかけた。すぐに帰るから、と遠慮したけど、西島京子には聞こえていないようだった。
まな板を叩く音が小気味よく響き、油に火が通って、鍋が沸騰する。しわになったエプロンで料理をする後姿を、僕はすっきりとした気持ちで眺めていた。じっと見つめていたせいか、あっという間に時が経ち、いつの間にか料理が並ぶ。炒飯に中華スープ、それから葉物中心のサラダだった。
僕に箸を渡した彼女は、自分の箸を用意すると、それを揃え、両手を合わせた。「いただきます」。それから、箸で炒飯をつつこうとして、固まる。僕の方を向いて笑いかけ、「大崎くんも使うよね、レンゲ」と言った。
レンゲは炒飯の山を容易に崩し、パラパラになっていることを感じさせる。持ち上げてみると、米粒一つ一つに光沢があって、僕の舌の裏を刺激した。白い湯気が立った炒飯を、僕はゆっくりと、大切に、口に入れる。香りが口いっぱいに広がり、でも熱くて、僕は空気を取り込みながら、咀嚼する。
「そんなに慌てなくても、食べ物は逃げてかないよ」と笑いかけた彼女も、炒飯を頬張るときは口から白い湯気を立てていて、その上喉に詰まらせたらしく、何度も胸を叩いた。水を仰いで、恥ずかしそうにこちらを向き、微笑む。僕も笑う。
僕は完食し、彼女も「お腹いっぱい」と満足そうだった。皿を重ねて立った彼女に、手伝うよ、と声をかける。「ん、大丈夫だよ」こちらを振り返って言う。「他人の家の台所って使いにくいでしょ」。もっともだ。
流れる水の音と、彼女の姿を、やはりじっと眺めていた。いつまでも眺めていられそうだ。彼女は皿を洗いながら言った。「私さ、他のクラスメイトのことは覚えていないんだけど、大崎くんのことは、印象に残ってるんだよね」。僕がなぜと聞くと、作業をしながら、顔だけこちらを向いて、「知りたい?」と聞く。僕は頷く。
「きっかけはね、六年の運動会のとき。大崎くん、リレーで最後だったじゃない。私の組はたしか真ん中くらいを走ってて、一位とは差があったから、優勝は難しいなあ、ってみんな思ってたんじゃないかな、でも、大崎くん速かったから、みるみる抜かして、最後には一位と競ることになった。会場は大盛り上がり、みんな大崎くん大崎くん言ってた。一位だった、確か青いハチマキの子だけど、あの子も頑張ってた、でも大崎くんの方が圧倒的だった。最後の直線になって、大崎くんはわけもなく横へ出て、ねえ、大崎くん、あのときのこと覚えてる」
もちろん覚えていなかった。
「そうよね、きっと大崎くんにとっては些細なことだった。でも私にはとても歪に見えた」
なにが、と聞く前に彼女は語る。
「大崎くん、そこで青いハチマキの子を眺めて、いや本当に私には止まって見えたような気がしたんだけど、必死になっている青いハチマキの子を見て、大崎くんは転んだんだよね」
運動会で転んだ、そんなことあっただろうか。
「大崎くんはすぐに立ち上がって、でも、うちのクラスは二位、ただ大崎くんへの歓声は鳴りやまなかった。あれだけ頑張って一位を取った、本当に称賛されるべき青いハチマキの男の子は、息も絶え絶えで、クラスメイトにはハイタッチされてたけど、なにかやりきれない表情だった」
西島京子は――食器を洗い終えていた――水を止めて、僕の前に座った。
「それからだなあ、私が大崎くんに興味持ったの。なんだか、他人ごとだとは思えなかったな。それに大崎くん、かっこよかったから」
西島京子は、僕の目をしっかり見ていた。僕はそのうちに、おぼろげながら光を見た。
「今日は何しに来たの」
西島京子が聞いた。僕は答える。ちょっと会ってみたくなって。「私に?」。そう。「それは嬉しいね」西島京子が笑う。
質問してもいい。
「いいよ」
好きな食べ物は。
「秘密」
嫌いなものは。
「秘密」
特技は。
「秘密」
趣味は。
「秘密」
全部秘密なんだね。
「全部秘密なのよ」
僕は笑った。なんだか安心できたし、この問答はいつまでも続けていられそうだった。何より、秘密と言ってくれる彼女に、僕は好感を持った。
ねえ、西島さん、僕たち、友達にならない。
「素敵ね」
じゃあさ、連絡先とか交換してさ、どこでもいいや、バッティングセンターがいいかな、いや、ねえ絵とか描く? 河原で絵を描くなんてどうかな、楽しいと思うんだけど。
「ねえ、大崎くん」西島京子は僕の話を途中で切った。「私も質問していい?」
それからあのまぶしい笑みで、瞳に白い光を帯びて、聞く。
「あのとき、わざと転んだよね」
僕は彼女がなにを言っているんだか、分からなかった。あのとき? 運動会のときか。だったら、わざと転ぶはずもない、いや、だいたい、僕は転んだことも覚えていないのだ。
「大崎君、この質問ね、小学生のときにも、一度したことがあるの」
そんなこと……
「それがね、あったの。私、その運動会のときから、ずっと気になってて、大崎君が一人になったときに聞いたのよ。そしたら、大崎君、今みたいに顔を青くして」
僕は体中から血の気が引いていくのを感じる。
「ねえ、大崎くん。私たち、似てると思うの」
似てる?
「ええ、厳密に言うと違うのだけど。でもたぶん似てるの。だから私も、気になってたし、友達になれると思って、声かけたの、あのとき」
彼女は僕を、白い瞳で見つめた。
「私さ、昔、黒いマント着けて、拾った木刀を持って、ありていに言えば、おかしな子だったじゃない」
僕はやめてほしかった。
「私、戦っていたの、なにか、おかしなものと。だから私もおかしくならなくちゃいけなかった。おかしくなって、戦ってたの、戦っている間だけが、生きている心地になれたし、私は主役になれた。でもね、大崎君、もう私は救われたの」
救われた? なにを言ってるんだ、君は。
「聞いて、大崎くん。私はもう不安じゃないの。なにもおびえることなんてないのよ、大丈夫よ。私もいるし、それに……」
西島京子は、いつの間に持ってきたのだろう、なにか紙を一枚取り出して、僕に見せた。
「ねえ、大崎くん、大崎くんも、きっと救われると思うのよ」
僕はもう耐えられなかった。紙を破り捨て、ふざけるなと叫んだ。西島京子はなおも、信仰について説いた。彼女の瞳は、いまだ光に包まれていた。しかし、その光が、僕には白く濁って見えた。それはあまりに鮮やかで、一方でおぼろげだったために、いつか見たような、どこかで捨て去ってきたような記憶の断片だという気さえした。
僕は裏切られたのだ、そう思った。僕は西島京子に裏切られた。僕は切り破いた紙を、西島京子に投げつけて、果たしてその紙片はてんでばらばらに、ひらひらと舞っただけだったけど、僕は走って、玄関を突き抜けた。
僕は走って、疲れて立ち止まったときには、目の前に川が広がっていた。河原の風景。僕はあの子のことを思い出す。高校のときに、僕が好きだったかもしれない、あの子。
彼女は泣いていて、傍らにはカンバスが横たえてあって、
大崎くん。その絵のなにがだめなんだろうね。
僕は嗚咽交じりのその言葉を、あまり聞きたくなかったのかもしれない。彼女は壁にぶつかった。普通の人と同じように、壁にぶつかった。その先にはきっと、なにか目標があって、そう、明確ななにかが。
海の絵だった。視線は海の底に向いていて、そこには様々な色で塗られた、しかし暗く、黒い深みがある。
いけないところなんて、ないよ。
僕が言う。
嘘よ、だめなの、それじゃあ、だめなの。
いいじゃない、ねえそれより、次の絵を描いてよ。僕はそれを眺めているよ、いつまでだって、眺めている。
だめなのよ、いつまでもこんな絵を描いていては。
それから、僕は彼女が絵を描いているところを眺めているのが苦になった。僕の内心を察してか、彼女から別れ話を切り出されて、僕は悲しくて泣いた。でもその涙も、どうして僕は泣いているんだろう、悲しいのだろうか、なにが、彼女がいなくなるのが、それとも、眺められなくなるのが?
そもそも僕は泣いているのだろうか、泣かされているのだろうか、考えるうちに、枯れていた。
僕は河原に降りて、石を探した。なるべくひらべったい石だ。なるべく遠くまで、撥ねていくような石。
僕は川を見つめる。ゆっくりと、しかし流れがやむことはない。
石を投げる。一回、二回、三回……
流れに吸い込まれていく石を、僕はただ手放しで眺めていた。
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