カルミアの唇 沼御前法華糊
新幹線は安中榛名を通過した。十月という中途半端な時期もあってか、僕の周囲の座席にはあまり人がいない。窓の外を見ると、小一時間前よりも田舎になった風景が目に映った。東京からの旅は、もうすぐで目的地に着く。
今僕は旅行用の大きな鞄を持っていない。持っているのは標準サイズのトートバックだけだ。中には財布と本と、デジタル一眼レフが入っている。必要最低限すぎると言えばそうだが、現地調達すればなんとでもなる。今の僕の心は、そんなに多くの荷物を持ち切れない状態なのだ。
僕が大学生だった頃、これはとてもどうでもいい話だ。僕が大学に入学して与えられたのは、広大な校舎と、教室と、酒と煙草だった。そこには自由があり、僕は友達と四年間のモラトリアムを川に住むビーバーのように過ごした。適当に女と遊び、レポートを出し、派遣のバイトをしてお金を手に入れる。貯蓄は全く頭になく、飲み会や洋服にお金は消えていった。当時の僕は傍から見れば常に口を半開きにしている阿呆のように見えただろう。
口をしっかり閉じるようになったのは就職活動が始まってからで、しかし僕の口の中は相変わらず調子のいい言葉で満ちていた。ありもしない情熱を語り、一時だけ背筋を伸ばす。周りが就職活動に勤しんでいたので、僕も就職活動に勤しむことにしたのだ。ただし頑張りすぎない程度に。
もちろんそんな気持ちで内定が取れるはずもなく、僕は晴れてフリーターになった。周りがスーツを着こなし始める中、僕だけマウンテンパーカー等を着ていたのでなんだか可笑しかった。いざとなれば実家の家業を継げばいいやと考えた。しばらくはライブハウスでバイトを続け、やがて僕という存在は煙草の煙と共にはっきりしなくなっていった。自己への無関心さが僕の全てだった。
ある日のバイトの帰り道、渋谷の円山町を歩いていた。LEDの光が男女の戯れを助長する中で、僕はある人と出会った。
その人はなるべく体を小さくして歩いているようだった。なんだか円山町に迷い込んでしまい、雰囲気に怯えて、どちらに歩けば早く安全な場所に出られるのかを教えてほしそうな感じだった。
事実その通りだった。
僕が声をかけると、ラブホテルに誘おうとする悪漢だと思ったのか、持っていたバッグで思い切り殴られた。後頭部をアスファルトに打ちつけ、一瞬呼吸が止まった。雰囲気と違って実はたくましい人なのかと夜空を見上げながら考え、そのまま僕は気を失った。
僕が目覚めた後、ホテルで自己紹介をした。どうやら僕が倒れた後もしっかりトドメを刺そうとしたらしく、背中に鈍い痛みが残っていた。彼女は気絶した僕をラブホテルに連れ込み介抱してくれたらしかった。こういった場所に入るのは初めてらしく、鍵の取り方もわからなかったと言って顔を手で覆った。
「大体、ホテルに連れ込もうとする人なんていないよ」
「知らなかったんです、すみません」
彼女は僕を見てややムスッとした様子で喋った。僕は俄然彼女に興味を持った。今まで付き合ってきた女の人は皆僕と似たような性格で、皆一様に頭が悪かった。それに比べ彼女の声は芯が通っていて、顎のラインなんかも頭が良さそうだった。
話をする内に、彼女に惹かれていくのが分かった。そういえば、僕が女性に惹かれるのは中学生以来だった。高校生になってからは女性の構ってほしい性分に嫌気がさして、自分からアプローチというのはしなくなったし、付き合うことになっても僕から彼女を求めたりはしなかった。
だけど彼女の涙袋とかを見ていると、自分が満たされるような錯覚に陥った。彼女のような人に出会うのは初めてで、これほど楽しくて静かな会話は久しぶりだった。
その日は結局話をするだけで終わり、僕が「駅まで案内するんで、また会ってください」と言うと「はい」と言ってコクンと頷いた。
それから何度か食事をし、旅行に行った。それら全ては僕が誘い、彼女はたまに「めんどくさいです」と言って断った。
彼女と出会ってから僕は彼女に感化され、純文学を読んだし、美術館へも行った。僕の感性は見違えるほど芸術的になったように見えた。しかし漱石を読んでも美術館で現代アートを見ても、僕の口からは「ほー」しか出てこなかった。僕は芸術や文学の表面上を低空飛行していたに過ぎず、ライブハウスで色とりどりの音に埋もれていたほうが気楽だった。要するに真面目に向き合うことはしない俄か仕込みの感性だったのだ。
だがその中で時間をかけて確実に僕は変わっていった。パーマをかけ明るかった髪の毛を黒く染め、適度に短くし、バイトを辞めて就職活動をし、煙草を絶った。ただ今思えば、それもやはり表面上のことだったのかもしれない。こうすれば彼女は喜ぶから、という考えだけで僕は自分の舵を切っていた。僕という存在はやはりどこか適当で、彼女あってこその個性になっていた。
「黒髪で、あっさりしてる顔の君が好きだよ」と彼女は言った。彼女の唇はとても魅力的で、キスをせがむ時は決まって唇を真一文字に結び、瞳を潤わせながら僕の服を両手で優しく掴むのだった。僕はそんな彼女の下唇を甘噛みするのが好きだった。
新幹線が軽井沢に着いた。多少厚着をしてきてよかったと思った。僕が何故軽井沢に来たかというと全くの適当だった。東京へ向かう途中に「ハルニレテラス」という広告が目に入ったので、そのまま切符を買ってここまで来た。ここで何をするのかなんて決めていない。気の向くままに歩こうと思った。もうなにもかもどうでもよかった。彼女を失った僕は自暴自棄になり、道行く人の手に刃物がないかを探し、あわよくば僕を刺してくれと思った。自殺する勇気などない僕の哀れな神経衰弱だ。僕はほとんど幽鬼のような足取りで歩を進めた。
郵便局を通り、美術館を二つ過ぎたところで礼拝堂が現れた。横に広い建物の造りは厳めしく几帳面さを思わせ、しかしよく見ると複数の小屋が参差に折り重なっているようだった。入ろうかと考えたが、歩き続けたかったので礼拝堂には入らなかった。
しばらく歩くと雨が降ってきて、気にせずに進むと土手にさしかかった。足元の草の生え具合と暗くても見える雲の模様などが一昨日と似ている気がして、彼女との別れを思い出した。
付き合い始めてからしばらく経ち、僕たちは同棲を始めた。珍しく彼女から提案してきたので、僕は喜んだ。彼女は観葉植物を沢山置いた。僕は水をあげるのがめんどくさかったので、世話をする気がない旨を彼女に話したら、「いいよ。私こういうの好きだから。古谷くんは本当にめんどくさがりだよね。」と言って胸を柔らかく叩かれた。
同棲を始めて一年が経ち、彼女が携帯ショップの職に就いた。二人の時間は次第に短くなり、一緒に夕食を食べたり散歩をしたりするのはほとんどなくなった。それからというもの、彼女はストレスを溜め込みトイレで一人泣いているような顔つきになった。ある日のベッドで彼女にそのことを聞いてみた。
彼女は僕の腕の中で「古谷くんは私のことをどれくらい見てる?」と言った。
「どれくらいって分からないけど、うんとだよ」
「じゃあ、私が今なにを思っているか分かる?」
「明日の仕事が嫌だ」
「半分正解」
「もう半分は?」
「ちょっと恥ずかしいから言いません」
そう言って彼女は僕に背を向けて寝てしまった。彼女は恥ずかしがりで、中々「好き」とか「もっとこうして」等は言わない。自己表現が下手で、猫舌だった。僕も愛情表現はめんどくさかったのであまり口には出さなかった。
僕はその夜もう半分がなんなのかを考えたが、仕事の疲れもあって寝てしまった。
その三日後、彼女はどこの馬の骨とも知れぬ男とアパートのベッドにいた。僕は最初何が起きているのかよく分からなかったが、彼女が自分の乳房はその男だけのものだというようにシーツで隠したのを見て、状況の三割くらいを理解した。その時僕は久しぶりに彼女の顔を見つめた気がした。
僕はアパートを飛び出し、しばらく呆然としていた。寒さを感じた時に自分はどこへ帰ればいいのだろうと思った。その日はカプセルホテルに泊まり、そして僕は新幹線に乗った。カプセルホテルで僕の胸に去来したのは、気怠さと自分への苛立ちと、彼女へのよく分からない気持ちが主だった。それらは僕の胸に居座り、他の考えを一切締め出してしまうのだった。そうして僕は結論を出した。僕は愛する人を守れなかったのだ。
軽井沢の夜は、雨のせいもあって寒かった。僕の心の中はぐちゃぐちゃで、その感情は雨に濡れた服と同じく僕の肌に貼りつき、この上なく気持ち悪かった。
人を愛するということは、こんなにも辛いのだと初めて知った。なればこそ、僕の心には愛することへの恐怖が生まれた。今まで中途半端に生きてきた罰が、愛する人を失う辛さの巨大さを禍々しいまでにしたのか。僕の口から漏れた声は最初、雨音に掻き消されそうなほど小さく、弱々しかった。
僕は叫んだ。己の内臓の奥にある、何か気持ち悪い物の存在がとうとう嫌になってしまったのだ。ありったけの声を絞り出して空に吠え続けた。声が掠れて、気付けば僕は泥を吐いていた。内深くにあった泥を、嗚咽と共に吐き出した。自分はこんなにも汚れた物を持っていたのかと思うと、今度は涙が出てきた。
もう彼女の事も自分も、何もかもがどうでもよかった。このまま時間が経ち、夜に溶ける事が出来たのならどれ程楽で素敵だろうかと思った。
僕は芸術の表面上を低空飛行していたのと同じく、いつまでも彼女の表面上をなぞっていただけだった。いくら煙草を止めて髪の毛を黒く染めたとしても、僕という人間の両肩に背負われたものはどうにも取り除けない物だったらしい。観葉植物に水をあげていたのは彼女だけだったのか。この旅も、自分は何て可哀想なんだと、自己憐憫に浸っていただけなのかもしれない。
ふと、携帯のディスプレイが光った。「龍野結衣」と彼女の名前が表示された。僕はしばらくその画面を見つめて、携帯をポケットにしまった。そして煙草を取り出し、火を点けて吸った。雨ですぐに湿気って吸えなくなったので、そのたびに新しい煙草に火を点けた。煙を吐くたびに彼女との生活が思い返され、自分の不甲斐なさが際立った。煙草を吸い終わったら、シャワーを浴びて真っ暗な部屋で全て忘れるまで寝ようと思った。風に膨らんだ煙草の煙が、僕の顔を掠めて夜空に消えて行った。
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