考える像   腹痛青虫



 翼がぱたぱたと小気味の良い音を立てている。身体から重みがふわりととけてゆく。頬をなでる冷ややかで心地よい風が、どれだけの速度が出ているのかを教えてくれる。俺は夜空を滑る緩やかな線を描き、東京の空を飛んでいた。鯉になる夢を見て幽体離脱し、危うく死人として葬られかかった上人の話を聞いたことがあるが、俺は徳を積んだわけでも信心深いわけでもないので、これは夢の類のものだろうか。真偽を知る術はないが。
 しかし、存外空を飛ぶというのは快感である。俺にはスカイダイビングをする輩の気が知れぬと思っていた節があるが、この独特の浮遊感を求めて、ということなら納得である。それに高いところというのは単純に眺めがよい。下界を見おろし、さながらムスカ大佐のごとく、ふはははっ!人がゴミのようだ! と人でなしな思考を脳内で繰り広げていると、下から何やら声がする。
「たすけてくれーっ」
 おじさんっぽい叫び声なので、今はすたれたオヤジ狩りでも行われているのかと思って、興味本位で高度をさげた。
 馬鹿でかい鳥居を上から通過して、無駄に高いところにあるおっちゃんの像の頭の上に着陸する。さて、どこに哀れなオヤジがいるのか。鳥の姿で助けることはできないだろうから、大きな木の棒でも不良に落としてやろうか?
 と思案していると、
「無礼者おおおおおっ!」
 と真下から大音量のもののふボイスが俺の脳天を貫いた。
「うわあ!」
 とかなり情けない声を出してバサバサと像の近くの木に渡って、あたりを見回してみるが、まったく人の気配はない。疑問符が頭の中で列をなしているところだったが、とりあえず先ほどのおっちゃんの像の頭の上に、帰還する。
「一度ならず二度までも我を愚弄するかあああああああああ!」
「きゃあああああああああ!」
 先ほどを上回る世紀末の大魔王ボイスに俺は鳥らしからぬ滑稽な落ち姿で、頭から重力のありがたさを甘受した。
「貴様鳥の分際で某の頭で羽休めなど言語道断! 万死に値する! この狼藉ただでは済まさぬぞ!」
 声の出どころはこのおっちゃんからで間違いないようだ。この銅像……喋っているのか?
「なんなんだ……このおっちゃん像……」
「むう? 貴様は鳥であるのに人語を解するのか? 珍妙な奴よ……さては妖の類か!」
「元は人間だよ」
「輪廻の果てに畜生道に堕ちたか。業深い奴よ」
「いやいやまだ死んでねえよ」
 なんと縁起でもないことを言うのか。なんなのだと不思議に思うと同時に、あることに気が付く。
「あれ? おっちゃんの声さっきの悲鳴っぽい声にそっくりだぞ?」
「いや某は女子供のように悲鳴を上げることなどせぬぞ」
 口ではこう言っているが、信憑性は低い。この辺にはさっきから人の往来は少ない。試してみる価値はある。
「なあ、おっちゃん名前は何ていうんだ?」
「名を尋ねる時には自分から名乗るものよ」
「そうか、俺は西崎和也だ」
「某は大村益次郎と申す」
「おお、教科書に載るレベルの有名人じゃないか! 先ほどから大変失礼しました」
「いや、某はすでに死んだ人間。そんな名など関係ない。気軽に話して構わん」
「大村殿は器の大きな人物であるようだ。今も……生前も恐れるものなどない偉丈夫であったのでありましょう」
「人は恐れを持たずに生きることはできぬ。それを失ってしまっては人は成長することができん。自らが恐れるものに向き合うことこそが自分と向き合うことであるからの。かくいう某は……高いところが怖いいいいぃぃぃぃぃ!」
「えええええっ⁉」
 やはりさっきの悲鳴はこのおっちゃんのものだったのか。しかし高いところが苦手ということは……。
「おっちゃんいつからそこにいるんだよ……」
「め、明治二十六年から……」
「軽く一世紀じゃないか!」
 よく正気を保てたものだ。
「某ここから落ちたらどうなるものか……」
「銅像だから死にはしないだろう」
「死ななくても痛いではないか!」
「大丈夫、顔が凹むだけで済むと思う」
「銅像である某の某たる所以である姿かたちに深刻な問題が発生してはおらぬだろうか……」
「まあ、サダム・フセイン像は悲惨な落ち方だったが」
「なんと! 前例があるというのか!」
「人々に縄でくくられて引きずり落とされていた」
「……悲惨、いや、凄惨と言うべきか」
 生前の行いは大事……これほど孔子の言を噛み締めたのは初めてだとものすごい顔で安堵され、涙が出そうになった。
「時に西崎よ……お主、元は人間でまだ死んでおらぬのよな?」
「ああ、そうだが」
「人間に戻れたら某の像を低いところに下してはくれぬだろうか。せめて狛犬と同じくらいの高さには」
「難しいな、靖国は国の管轄でも難しい立ち位置のところだしな」
 実際近隣の他国とのパワーバランスの引き合いに出されるくらいの場所だ。必要な重機を入れることもできまい。
「むう……やはりのう。むずかしいとは思っておった。ここで知略を尽くすのは某の仕事じゃな」
 そう言っておっちゃんは黙り込んだ。そういえば、大村益次郎は軍の参謀を担う人物だっただろうか。おっちゃんの眉間に縦のしわがはしる。長いしわ二本の間に一本の短いしわ。その刻まれたように深い陰影は、苦悩の年月のうちに生まれたものか。そうしているうちに姿勢も低くなり、握りしめた拳を顎にあて、そのままグイっと下向きにひく。眉間のしわはますます深まり、おっちゃんは腰を下ろした。ここに日本版「考える人」が誕生した。二本の刀の鋭いイメージで、全体としてきりりと締まった印象がある。
「っていやいやおい!」
「! 何事ぞ!大声を出すでない!」
「黙っていられるか!どうして銅像が動くんだよ!」
 自然な所作で気づかなかった! 「おお、そうじゃな、丑三つ時は霊気が高まって動けるようになるのじゃ」 「そんな二宮金次郎の銅像みたいな!」  何なのだ! いかにも当たり前と言わんばかりの反応を! 「こんな風に動けるなら最初からそうすればよかったじゃないか! いまの考える時間はなんだったんだよ!」
「そ、そうか……いやちょっと眠かったのだ」
 さきほどの俺の高評価を返してほしい。これでは下手の考え休むに似たり像だ。
「では、明日の丑三つ時に梯子を持って来てくれ。それで降りられる」
「高いところは苦手なのだろう? 降りられるのか? 」
「某も男の端くれ。少々のことなら胆力をご覧に進ぜよう」
「本音は?」
「フセインのようになりたくない」
 さっきは怖がらせすぎたようだ。
「わかった。明日のこの時間、梯子を持ってくるから、待っていてくれ」
「承知した。それどころか動くことすら叶わぬがな」
 そういって俺たちは別れた。飛び去る俺に銅像は手を振る。その期待を背に、俺は東京の夜を飛んで行った。
「も、もう三十分すぎたのか! か、体が!」
 ……なんか嫌な言葉も背に。

 翌朝、俺は自分の部屋で目を覚ました。差し込む日差しとベッドの骨組みのせいで縞々に日焼けしてしまっている。瞳をこすりこすり、今日見た夢について考える。えらくリアルで生々しい夢だった。ベッドからおりて、日課である朝のニュースを確認する。
「大変驚きのニュースです。今朝、靖国神社にある大村益次郎像が、ポーズを変えていることがわかりました。遠い空に手を振るようなポーズになっており、表情も晴れやかになっているということです。宮内庁は関与を否定しており、関係者一同首をひねって……」
 ……とりあえず梯子を買いに行くか。