階段譚 竹城劣


  こんなとき、いい大人なら煙草でも吹かすのだろうか。焦りともつかない喉の渇きに、しかし僕は手持無沙汰で、一体この口渇感をどうしようと思うにも、なにもできずに、ただ手すりに寄りかかるだけだった。

 僕は学校の屋上で「旅立ちの日に」の合唱を聞いていた。今、別れのとき、生徒の卒業を迎えた桜はどれも凛と咲いており、合唱の響きか、それとも風のせいか、どちらともつかない空気の揺れに、それでもなお、桜は毅然として並んでいた。満開の桜の上では、薄く、それでいて深みのある、広がりを持った空が一面を覆っている。雲が、目にも分かるほど、まるで追い立てるような速さで流れていく。気温は低くなかったはずだと羽織ってきた薄手のコートは、しかし僕の体を風からは守ってくれない。

 今日は卒業式だった。僕はかなり前の、それこそ何年前だったか指折り数えなければ分からないほど昔の卒業生で、いやでも、指を折っていく苦労はせずとも、僕は今年、大学を卒業するのだから、七年前ということになるのか、一応ストレートで卒業しているので、計算は単純だった。

 こうして合唱を聞いていると、自分がここの卒業生だったことを忘れそうになる。教室と廊下、学校全体を通じて、あるいは周囲の空気を振動させて僕に伝わってきているこの合唱が、僕には絵空事のように思えてしまう。僕も卒業式の日、あの体育館で「旅立ちの日に」を歌ったはずで、ソプラノ・パートを担当していたはずのことは分かるのだけど、それは分かるというだけで、あまり実感がない。ともかくあの日、僕は呆然としていた。意識がどこかに飛んでいて、だから、合唱の完成度がどうだとか、あまり覚えていない。音痴だったから、今聞いているような完成度とは思えなかったけれど、かと言ってうちの学年は合唱部が多い年だったから、それなりにうまく聞こえたのかもしれない。

 今日の朝は、いつもと同じ夢から覚めて、しかし珍しく早い時間に起きることができた。布団にくるまりながら日中を過ごそうかと思った僕は、カーテンを開けて、それから母校の制服姿の女子中学生を見つけた。なんとなく惹きつけられた拍子に自分のころと照らし合わせて眺めていたら、ふと彼女たちの会話から、今日が母校の卒業式だということを知った。布団にくるまりながら陽を浴びるより、散歩しながら陽を浴びた方がよほど有意義に思われた僕は、昔懐かしさを感じつつ、地域では一つしかない中学校に向かうことにした。大した恰好はしなくていいと思えたけど、さすがにスウェットで行ってしまっては面目も立たないと思って、ジーンズを履く。外に出ると案外に寒く、もう一枚くらい中に着ようかと考えたが、戻るのも面倒で、あとは歩いているうちに温まるだろうとも思った。用水路は昨日の雨を受けて速足で、散った桜も激流に飲まれて過ぎていく。あっという間に学校に着くと、もう卒業式は始まっているらしく、物静かな雰囲気を漂わせた校門は、人っ子一人おらず、侵入するのは容易だった。桜が円く、囲むように広がっていて、しかしグラウンドには誰もいないものだから、華やかと言うよりは、むしろ寂しげだった。僕は久しぶりに、トラックを全力で走ってみようとも思われたけれど、汗だくになって、タオルもないのでは始末に困る、そそくさと校舎に入っていく。下駄箱は懐かしく、自分の靴入れはどこだったかと、ぐるぐるとしてみる。学年が変わるときは、よくよく馴れた方へ、つまり一つ下の学年の方へ、間違って行ってしまうほど習慣になっていたものも、七年も経てば、自分の下駄箱がどこだったか忘れてしまう。探り探りで、確かここだったな、と目を付けた下駄箱の列は、眺めていると、大体合っているように思えたし、出席番号一番だった僕の靴入れは、昔のまま立て付けが悪かった。開いてみると、なんだか地味な、黒いスニーカーが入っていて、そういえば僕も、昔はこんな靴を履いていたなあ、と懐かしくなった。ひょっとして、僕は出席番号一六番を覗いてみたけど、そこには愛しの斉藤さんのちょっと大人ぶったスニーカーはなくて、同じく地味な色のジョギングシューズ、しかも強烈なにおいであったときには、さすがに冷静になった。来客用のスリッパを拝借して――と言っても、来客用出口は別に用意されているはずだから、きっとどこかの不届きものが、上履きの代わりに置いておいたものだろう――、階段をせっせと上る。ひいひいと言っているうちに、わっとした空気の揺れがあって、「旅立ちの日に」の合唱が始まった。一階ずつ、教室を回っていこうとも思ったけれど、せっかくの合唱であるし、どうせなら開けたところで、自由に聞いていたい、そう思って、階段を飛ばす。昔は二段飛ばしや、三段飛ばしが普通で、駆けるようにして上っていた僕だけれど、さすがに七年のブランクは大きく、途中躓きながら、屋上のドアを開くと、一面に声が広がった。

 懐かしさに駆られた合唱は、しかし静寂の中に消えいって、果たして、いつまで式が続くのかしらん、冷静に考えてみれば、在校生や、さらに教師などにあったらひとたまりもない、もしかしたら僕を覚えている先生が、まだ学校にいるかもしれない。式が終わるまでにここを出るべきだろう。合唱が式のどのあたりに組み込まれていたか、確かではないけれど、僕のときは後ろの方だったように思う。ゆっくりと腰を上げ、一つ大きく伸びをした。

 ともかく、ここを離れなければならない。僕はもう部外者なのだから。

 一歩一歩、コンクリを確かめるように歩いた。靴の裏側が地面に張り付き、でも歩いている心地がしない。屋上から下りる階段への扉が、ずいぶんと遠く、またおぼろげに見える。いつの間にか、扉のノブに手をかけていた。行きは急いでいたので気づかなかったが、ドアの立て付けがたいそう悪い。風雨にさらされているのだから当然で、僕はあまり音を立てないように、用心しながら開かなければならなかった。開くのも中ほどで、扉が軋み、声を上げたけれど、多少は「旅立ちの日に」が消してくれただろう。

 校舎内へ戻ると、屋上よりもずいぶんと暗い印象を受ける。屋上へ続くドアの窓部分からしか光が差し込まないからだろう。他の階段とは違って、屋上への階段には途中に窓がない。

 ともかく急がなくては。階段に足をかけると、やはり二段飛ばしで降りていく。踊り場に出るときに着地すると、うっとする衝撃が僕の足裏に響いて、昔はこんな感覚があっただろうかとついつい考えてしまう。一昔前のことがずいぶん昔のことのように思えて、ともすると自分のことではないように感じる。振り返ってみても、昔のことを思い出そうとしても、思い出せることは断片的で、一繋がりのようには思えないし、例えば僕がこの学校にいたとき、つまり中学時代のことも、思い出せることは少ない。入学式の朝を僕がどんな気持ちで迎えて、また卒業式をどんな気持ちで迎えて、と、初めから終わりまでの気持ちの変化とか、あとは僕が意識しないようなもろもろの連なりは、やはり意識したとき、印象に残ったときを集めた、かなり断片的なもののように思えた。そう、断片的だ。僕の中学のころの思い出は、そのほとんどが斉藤さんへの想いと、それから彼女への視線に彩られていたように思える。それはとびとびのレコードのように、一つ一つは断片的であるけれど、レコードそれ自体を見れば、一つの円でしかなくて、実際につながりがある、地続きの記憶である。

 斉藤さんは、今何をしているのだろう。

 高校が別れてから、一度も会わなかった。成人式にも、僕は東京で用事があったから出ていないし、会う機会は全くなかった。斉藤さんは、確か県内でも上の方の学校に入っていたはずだし、きっと大学に進学しただろう。大学もきっといいところで、僕のように就活で苦労するなんてこともなかっただろう。それこそ住む世界が違う。中学では同じクラスで、同じように授業を受けていたのに、今や彼女が雲の上の人のように思える。

 階段を駆け下りる。どれほど下りただろうか。もうすぐ昇降口だろう。踊り場に着地すると衝撃が、やはり足裏に走って、僕はうっと声を上げる。

違和感を覚えたのはそのときだった。

また踊り場だったのだ。

いや、踊り場自体がさしあたり変なわけではない。さっきから何度も見ている踊り場だ。僕は階段を下りる。二段飛ばしで下りる。スリッパの音が響く。「旅立ちの日に」はもう聞こえなくなっている。校舎はとても静かで、スリッパの破裂音が、一定の間隔を持って響く。踊り場に着地して、いっそう大きな音が響く。きっと教室の方にも聞こえるだろう。ただ、僕にはそれに構っているような余裕がなかった。

僕は焦った。

一階にたどり着けない。

なぜだか分からないけれど、僕はいつまでも一階にたどり着けないでいた。確かに階段は下っているのだ。下っているように思えて、実は下っていなかったなんてことはない。確かに下っているのだけれど、一向に一階に着く気配がない。

階を確認しながら下りてみる。やはりスリッパが校舎を叩き鳴らす。三階、二階、次が一階だというとき、いや確かに次が一階で、昇降口なはずだ、そこに下駄箱がある、僕はそこから入ってきたのだ、間違いない、次が一階なことは確かで、それはさっき僕が二階から下ってきたのだから本当なのだけど、しかし、実際下りてみると、そこは四階だった。どういうことだ、と引き返してみると、そこにあるのは二階で、確からしく二階と四階がつながっていた。

僕は階段の途中にある窓から外を眺めてみる。来たときと変わらない、普通の景色だ。桜が校舎を囲むように並んでいる。校舎自体も、変わりなく、普通の校舎である。僕はふっと息を吐いて、それでも落ち着かないものだから何度も呼吸を整えてから、よし行くぞという気になって、階段を一息にかけ下りる。階数を数えながら、また各階に表示されている番号を確認しながら、かけ下りる。四、三、二、までは順調だけれど、やはり二階まで下りると、次が四階になっていて、果たして事実、そこは四階なのだ。僕は階段に座り込んだ。一階にたどり着けないという事実よりも、二階が四階に繋がっているという奇天烈で摩訶不思議な状況が、僕をよりいっそう混乱させた。下っているはずなのに、結果として上っているという反法則に、さらにむしろ、その先に終わりがないことに、僕はひどく落ち着きをなくす。今の状況は、僕にメビウスの輪を思い出させた。構造は全く違うし、二階が四階に繋がっているだけで、なにもかもメビウスの輪とは違っているにも拘らず、僕はメビウスの輪を思う。いつまでも続く連続性に、僕は閉塞感すら覚えた。それから焦り、僕はともかくここから抜け出さねばならないと思った。

四階から二階を、四度往復して――いや、往復ではなく、実際には周回なのだけれど――、僕はようやく諦めがついて、教室の方を探ってみることにする。四階は三年の教室が集まっている。うちの学校は五クラスあった。廊下は、五クラス分ということもあり、それなりに長い。ただ、身長が伸びたせいもあってか、廊下にずっと連なっているロッカー群は、当時よりもずいぶんと小さく見え、教室のドアも、なんだか低く見えた。ただ、物自体は昔と変わっていないため、どこか懐かしさも感じる。僕はとても奇妙な心地だった。焦っているはずだ、何度も階段をかけ下りたせいで息も上がっているし、脈拍も多い、状況は僕の頭を内側から叩いているような感覚もあり、ここから一刻も早く出たいという気持ちもある。なのに、学校を懐かしんでいる余裕はあって、実際、なんだかふわふわとした心地なのだ。

まあしかし、これだけ不可思議なことであるから、仕方ないのかもしれない。案外こんなものなのかも、とも思う、記憶が急になくなったり、例えば突然連れ去られてしまった人も、こんな、地に足がついていないような心地なのかもしれない。

ともかく、僕は三年生の教室を一つ一つ見て回ることにした。誰か他に人はいないのか、校舎の中に誰もいないとは考えにくかった、さすがに数人は何かの用事があって教室に残っている人もいるだろう。

三年一組には誰もいなかった。スライドドアが空しく鳴って、教室はとても冷たいような気がした。外は白々とした晴天で、教室は全体として明るいにも拘らず、教室の隅の暗がりばかりに目がいってしまう。卒業式というだけあって、黒板には色とりどりのチョークで、卒業おめでとうだとか、一生忘れないとか、まあそんなどこかで聞いたような単語が並んでいる。僕の卒業式のときも、いつの間に、誰が書いたのやら、朝来たときには黒板はうるさいほどの装飾が施されていて、ああ、そういえば、そのときも僕が教室に入ると誰もいなくて、ちょうど今と同じような状況だった。黒板を荒らしていった張本人たちはどこへやら、教室には僕一人しかいなくて、ああ、今日で卒業だな、とか思うようにも思われず、全く実感のないまま自分の席に座っていた。

 僕は、式の内容とか、誰が泣いていて、誰が泣いていなかったとか、あとは卒業アルバムに書かれた寄せ書きの内容とか、その辺りのことは全くと言っていいほど思い出せないけれど、でも卒業式の朝のことだけは詳細に思い出すことができる。あの日の朝は今日よりもっと寒くて、でもマフラーや手袋をするような季節ではなかったので、僕は指先を、神経質にこすって、少しも温かくはならなかったのだけれど、そうやって気を紛らわしていた。手のひらは白いのに、指先だけが赤くて、それを眺めていると、どうにも寒くなってきたような気がして、足をカタカタと揺らしながら、両手を執拗にこすり続けて、僕がそのときのことをよく覚えているのは、そのとき、教室に一人でいる僕の目の前に、勢いよくドアが引かれて、僕が顔を上げた、ちょうどそれと同時に、すっと息を吹き返すような、空気の詰まりが、時間の停止がそこにはあって、

「あ」

 と、僕は、実際に、今、空気が詰まる音を聞いた。

斉藤さんだった。

そこには、当時と全く変わらない斉藤さんがいて、当時のままの斉藤さんがいて、あんまりにも変わらないものだから、僕は、聞いてしまった。

「あ、制服、どうしたの?」

 

   ***

 

何年前の話よ、私もう二十二だよ、とびっくりするくらいの大笑いをした斉藤さんは――彼女はびっくりするくらい声を上げて、それから変なふうに笑うことで有名だった――、ひとしきり笑うと、ふっと息を吐き、それからこちらを見て聞いた。「小池くん、だよね」

僕は、全く状況が呑み込めないばかりか、なにより斉藤さんが目の前に現れて動転してしまって「あ、どうも、小池です」と返す。斉藤さんはこちらに寄ってきて、ずんとこちらを見下ろすと「どうも、斉藤です」と真面目な顔で言ってから、こらえきれなくなったようで、また大笑いした。

ひひゃひゃひゃ、ひひ、ひゃひゃひゃひゃ、というのが、彼女の突き詰めたときの笑い方で、いつもは「わはは」という感じなのだけれど、確か「笑いすぎて息ができなくなると、変な笑い方になるのよね」という話だったから、たぶん彼女なりに呼吸をしようとしてああなっているのだろう。僕は、そんな笑い方をする彼女を見て、たいそう安心できた。

 また一息ついて、僕に声をかける。

「ずいぶんおっきくなったね」

「あ、うん」

 ちょっと立ってみ、と言われ、僕は席から立ちあがる。立ち上がるとき、机に引っかかって、よろける。斉藤さんが笑う。

 僕が一七〇で、斉藤さんは僕より頭一つ分小さい。中学のときの僕はちょうどそのくらいで、斉藤さんとはだいたい同じくらいの身長だった。斉藤さんはあのころから全く変わっていないようだった。

僕は斉藤さんを上から下まで見て、本当に昔のままの斉藤さんだと感じる。身長も、体つきも、僕が思っている、当時の斉藤さんのままだった。

「斉藤さんは、変わらないね」

 僕は褒めたつもりだったけれど、斉藤さんは頬を膨らませ、「成長しない良さだってあるさ」と胸を張る。僕は尤もだと思った。それから、彼女の、確かに成長しない胸を眺める。斉藤さんは恥ずかしくなったのか、「わ」とたたみかけて、「えっちなんだー」と少し照れながら笑った。僕も少し恥ずかしくなってうつむく。

「ねえ、えっちな小池くん」

 気を取り直したらしい斉藤さんが、まだ少し恥ずかしい僕を呼ぶ。それから、斉藤さんは居直り、今の状況について僕に同意を求めた。僕が一階にたどり着けないことを言うと、斉藤さんは頷いた。

「まずは探索ね」

斉藤さんは「百戦危うからずー」と言いいながら、僕を引っ張っていく。それから、僕と斉藤さんは、校内を順繰りに回った。教室棟には、階段が三つある。そのうち、どの階段も、状況は全く同じくであって、二階と四階がつながっていた。斉藤さんに言われて、逆に階段を上ってみたりした。結果は同じで、やはり上と下がつながっている。屋上へ行く通路が二階に繋がっていた。教室も一つずつ回ったけれど、僕と斉藤さん以外に人はいないようだった。

渡り廊下で連絡している、別棟も確認した。渡り廊下は二階から繋がっていて、上半分がアーチ状の窓になっていた。

「改めて見ると、きれいよね、ここ」

 と斉藤さんが言って、僕は窓から空を見上げる。どこまでも浅い青、海のように黒く深いものじゃなくて、それこそ浅瀬のような、南国の青がどこまでも浅く、それゆえに深く広がっている。そのさきに、つまり成層圏の先に、全くの黒と光だけの世界があるなんてことが、僕には信じられなかった。

 別棟には主に特別教室や、それから職員室が集まっている。斉藤さんは「職員室に行けば誰かしらいるんじゃないかなあ」と言っていた。確かにその通りで、卒業式と言えっても、防犯の関係上、少なくとも一人二人の職員は居残っているはずだった。今までそのことに気付かなかった僕は、全く抜けていたと思う。

 職員室に行くのは、なにかと緊張するものだけれど、今回はさすがにそんなことはなかった、それよりむしろ僕ら以外に、人がこの校内にいるのか、と言う方がよほど大切な用件だった。ただ、斉藤さんと出会えたせいか、先ほどまでの焦りは一切なかった。

「誰もいないね」

 職員室に入って、斉藤さんが言う。やはりそこには焦燥感や切実さはなかった。三階建ての別棟でも三階が二階に繋がっていて、屋上や、一階にある職員玄関へは行けなかった。非常口の扉は固く開かず、また窓なども同様だった。これは教室棟の方も同じだった。外へ繋がるもの、開閉できるものからは外へ出られないようになっている。

 ともかく、教室へ戻ろうということになって、僕らは三年一組まで戻った。そのころには日も暮れていて、さっきまでの空は薄く赤く染まり、それでもやはり果てしなく遠い印象を受けた。

「いやあ、冒険だったね」

 斉藤さんが言う。僕らの他に人がいないこと、また、ここから出られないことに対する危機感は全くないようだった、むしろどこか楽しげでさえあった。自然、僕もあまり切羽詰まった感じはなく、むしろ斉藤さんとの時間はとても貴重なもののように思えた。斉藤さんの性格が、僕を救ってくれているのかもしれなかった。

 僕が、当時の席、つまり真ん中の列の後ろから二番目に座ると、斉藤さんはその前の席にまたがるようにして座った。幸い斉藤さんはスカートではなかったので、心配は無用のことだったが、しかし斉藤さんのこと、スカートだろうと全く同じ状態になっただろう、現に卒業式の朝、僕を見つけた斉藤さんは、今日と同じように――そのときはもちろん制服で、スカートだった――、僕の前の椅子に座って、こちらと対面していた。そうだ、あのときと全く同じ状況だ。

「ねえ、小池くん」

 僕はなに、と聞き返す。

「今日はどうして学校に来たの」

 僕は少し考えてから答える。

「卒業式だったから」

「わはは、小池くん、それは答えになってないよ」

 そうかな、と僕が聞くと、斉藤さんが、そうだよ、と答える。

「じゃあ、なにかい。小池くんは、卒業式だからって毎年ここに来るの」

 それは卒業フェチだね、と斉藤さんが言う。僕は当然、卒業フェチではなかった。童貞すら卒業できていない。斉藤さんにそう言うと、少し顔を赤くして、

「お、うまいね、座布団一枚」

 と言った。僕は座布団がもらえて光栄だった。僕は斉藤さんに聞き返す。斉藤さんは、どうして学校にいたの?

「卒業式だからだよ、私も」

「なんだ、卒業フェチじゃないか」

「わはは、そうかも」

 斉藤さんが笑う。僕も笑う。

「ねえ、お腹減ったね」

 斉藤さんが言う、僕はなぜだかあまり減っていなかった。朝から何も食べていないはずなのに、不思議だ。

「冒険のあとは、メシだね」

 そう言った斉藤さんは椅子から立ち上がって、教室の外へ駆けていく。どこ行くの、と聞くと、女の子にそれを聞くのは失礼だよ、わはは、と言ってそのままどこかへ行ってしまう。待って、と言って追いかけるも、僕が廊下を覗いたときには、もう斉藤さんはいなくて、ただ斉藤さんの笑い声が、こだまのように響いていた。

 仕方がないので、僕は席に着く。さっきまで赤かった空は、もうすでに黒く、深く染まっていた。ずいぶん早く陽が沈んだものだ。

満天の星空は、さっきまでの天蓋が嘘のようで、しかし実際、これが空の持つ本当の姿であった。ただやはり受ける印象は昼も夜も変わらなかった。果てがない、この空には果てがない。

斉藤さんがいなくなってから、教室が少し寒くなったような気がした。体をなるべく小さくして、斉藤さんの帰りを待つ。しかし、そう考えた途端、僕はとても不安になった、果たして斉藤さんは本当に帰ってくるのだろうか。僕を見捨てて、どこかへ行ってしまったのではないか。すると、僕は学校から出られないことがひどく恐ろしく思えてきた。だいたい、なぜ誰もいないのだろうか、生徒は、教師は、外は一体どうなっているのだろう。校内に閉じ込められてから、斉藤さん以外の人に会っていない。そもそもなんだここの階段は、二階が四階に繋がっているって、まるでRPGのマップみたいじゃないか。各マップを繋ぐためだけにある階段。気持ち悪い階段だと思う。おかげで学校からは出られない、そうだ、学校からは出られないのだった。僕も出られないのだから、斉藤さんも出られない。ということは、いつか斉藤さんも帰ってくるはずだ。なんとなく気持ちが落ち着いてきた。それから僕は、斉藤さんを待った。今日は満月で良かったと思う。これなら夜でも明るい。

途端に教室がパッと光って、僕は目を閉じる。恐る恐る目を開けると斉藤さんがいた。

「夜なんだから明かりつければいいのに」

 そういえば、そうかと思った。

「なんだかサバイバル気分だったよ」

「わはは、アホだなー、小池くん」

 そう言いながら、斉藤さんは教室の中にガスコンロや鍋や、その他もろもろを運び込んだ。なにするの、と聞くと、もちろん料理、と答える。

「サバイバルと言えば、カレーでしょ」

 斉藤さんは誇らしげにジャワカラーを掲げていた。

「具はどうするの」

「具なしです」

 なぜか偉そうだった。

「米は」

「米はあります」

 レンジを使って炊くタイプのものだ。僕は思わず、おお、と声を上げる。しかしレンジは?

「普通に炊くのです」

 なるほど、と僕は感心する。それから水と米とカレールーを使った料理が始まる。まず水にカレールーを溶かし、煮詰める。具もないのに煮詰めるの、と聞くと、カレーはコトコトが常識でしょう、と言う。斉藤さんが、よしいいぞ、と言うのが、なにを基準にしたものかよくわからなかったけれど、ともかくカレーはできたみたいだ。次はライス、斉藤さんは土鍋を持ってきていた。また謎の判断基準によって、彼女は味見もせずに、できました、と言った。そのころにはカレーは冷めていたので、もう一度ガスコンロにかけた。

 薄いカレーだった。ただ、斉藤さんが作ってくれたと思うと、妙に感慨深い。

「どうだ、カレーはおいしいだろう」

 斉藤さんが聞く。

「うん、おいしい」

 僕が答える。斉藤さんは笑う。

「わはは、小池くんは味音痴だなあ」

 それでも、斉藤さんはおいしそうにカレーを食べていた。僕も幸せになる。僕の視線に気づいたのか、斉藤さんが、カレーを食べながら僕に聞く。

「ねえ、小池くん。なにか悩んでることとかある」

「悩み」

 僕は答えに困る。

「それじゃあ質問を変えるよ」斉藤さんはモグモグしながら喋る。そんな斉藤さんも僕は好きだ。「小池くん、最近の出来事を聞かせてください」

最近、僕は考える。「最近は、そうだね。あ、おめでたいような、おめでたくないような、なんだけど、就職が決まったよ」

「そうか、どこ」

「うん、出版社の営業」

「出版業界にかかわりたかったの」

「うん、そうだよ」

 僕は編集者になりたかったのだ。ただ、学歴やらなにやら、足りないものばかりで、結局ここまで採用がずれ込んだ。ただ、営業部で、果たして、僕に営業なんてできるんだろうか。

「斉藤さんは」

「あ、私? 私はねー、大食いタレント目指してたんだけど」

 僕はびっくりする、大食いタレント!

「そう。だけど私、あんまり大食いじゃないんだ」ぺろりとカレー二皿をたいらげて言う。「だから、私は普通の会社の事務」

「そっか、事務か」

 僕は、自ら志願して、お皿やら鍋やらを洗う。料理を作ってもらって、それから片付けまでさせるわけにはいかない。石鹸を手で溶かしながら、カレーの油をとっていく。なんとなくルーの黄色い跡が残ってしまったけれど、これ以上落ちる気はしなかったし、仕方ないように思う。

 僕が水場から帰ると、机が端の方に寄せられていて、真ん中に布団が敷いてある。

「持ってきました」と斉藤さんが言った。

 さすがだね、と僕は返した。

「良い子は寝る時間なのです」

 そう言って斉藤さんは時計の方を指さした。午後の十時。確かに良い子ならば寝る時間かもしれなかった。斉藤さんは良い子なので、すぐに布団に入る。さほど良い子じゃない僕も、斉藤さんが寝ると言うならやることもないし、布団を被ることに決めた。

「電気消すね」

「うん、お願い」

 電気を消す。また月明りがライトアップする。月はいいなあ、と思う。誰もが子供のころ思ったように、月は手が届きそうなのだ、空には手が届かない。

「ねえ、斉藤さん」

「なんだい、小池くん」

 僕と斉藤さんは、お互い背を向けて布団にくるまっている。

「あのさ、斉藤さん、卒業式の朝、覚えてる」

 僕は斉藤さんの答えを待つ、斉藤さんが息を吸う音が聞こえて、僕はどきどきする。

「うん、忘れるわけないよ。私、告白されたことなんて一度もなかったから」

「うん、そうか、それは、そうなのかな」

 言葉につまる。何と言ったらいいのか、そんなことないよ、とか、かな、まあそんなことはどうでも良かった。僕には言わなければならないことがあった。

「ねえ、斉藤さん、僕はさ、君のことが大好きだったんだ。それはもう、めちゃくちゃ、ほぼ十年物だよ。僕の半生」

 僕が斉藤さんのことを知ったのは幼稚園のころ、粘土をうまく使えなくて、もう嫌になって、べちゃべちゃのよく分からないものを作って、泣きながら作って、それでも「わはは、おもしろいね」と言ってくれたのが斉藤さんで、僕は彼女を好きになった。

「それで、君に振られて、僕は何をしたらいいか分からなくなっちゃったんだ。勉強にも打ち込めないし、本は昔から好きだったけれど、でもそんなもの読んでどうなるの、って親に言われたときはなにも言い返せなくて、じゃあどうしたらいいんだ、ってなって、なにもかも空しくて」

 斉藤さんはなにも言わなかった。ただ聞いていてくれるのだった。

「で、ふと、斉藤さんとあのままうまく行っていたら、とか考えるようになった。考えている間は、安らかになるんだ。それから夢を見るようになった。ウェディング姿の君を抱いて、階段を上る夢、あれが幸福の階段って奴だろうね……って、ごめん、気持ち悪いね」

「ううん、そんなことないよ、続けて」

斉藤さんは笑わなかった。

僕は続けた。

「夢から覚めたとき、決まって思うんだ。僕はあのときから、君に振られてから、幸福の階段を、逆に、一歩一歩下り始めてしまったじゃないかって、いやただの妄想なんだ、でも、いつも考えてしまうんだ。そんなことを。嫌なやつだろう、僕は」

 僕は、いつからか泣いていた。女々しくて、女々しくて、こんなことを斉藤さんに打ち明けてしまう自分が、本当に悲しくて、僕の頬から涙が伝い、枕に落ちるのが分かって、そんな僕を斉藤さんは抱きしめてくれた。布団越しに抱きしめてくれた。

「ねえ小池くん、人って、そういうものだと思うよ、あのときああだったから、こうだったとか、こうしたからこうできたとか、いちいち理屈で考えちゃうの」

「でも、僕のせいで、君は」

 そうだ、僕のせいで、斉藤さんは告白する決心を固めてしまった。あのとき、斉藤さんは言った。ごめん、私、好きな人がいるの。僕は呆然としてしまって、二の句が継げなかった。

でも、その気持ちは嬉しいし、私も勇気づけられた。

彼女は笑った。

わはは、私も告白してくるよ。

 彼女が振られたらしいと聞いたのは、その春休みで、僕はどうすればいいかと悩んだ、彼女に謝らなければならないと思った。僕の勇み足が、彼女の不幸を招いてしまった。

「ねえ、同じことだよ。そうやって考えるからいけないんだよ。確かに、小池くんの告白が、私の告白のきっかけになったかもしれない。でも、私が振られたのは全部、私のせい。小池くんのせいじゃ、ないよ」

 僕の目は、相変わらず涙であふれていた。

「ごめん」

 僕は相変わらず女々しい。

「だから謝ることじゃないって」

 彼女は僕を強く抱きしめてくれた。あんまり強く抱きしめるものだから、僕が「苦しいよ」と言うと、斉藤さんも「私も苦しい」。そう言った。

僕は泣き疲れたのか、すぐに寝てしまった。

僕は夢を見た。階段の夢だ。しかし、そこには斉藤さんはいない。暗い星空の中に、階段、それはかろうじて、直感で階段と分かるだけで、階段の体を為していなかった。それは一段一段バラバラに別れて飛び交っていて、はた目には白いブロックが宙に浮いているだけだ。僕はその中の一つを拾って、自分の足元に積む。もう一つとって、積む。五つくらい繰り返すと、階段と呼べるほどにはなっていた。

僕はそれを上る。上った先は、やはり中空だけれど、でも、しっかりと足場があった。そうだ、そもそも、階段は階を繋ぐためにあるのだった。人が高みへと昇ろうとするための道具だ。そうだ、そうだった。

僕は紛れもない幸福感の中で目を覚ます。

なんだか肌寒い。布団の中で眠っていたはずなのに、布団はなく、地べたに寝転がっている。腰が痛くて、立ち上がるのもやっとだった。よく見れば教室でもなくて、何階かの踊り場だった。見上げると、屋上へ続く扉があり、光が差している。

僕はなんだかその先に、確信はないけれど、なにかがあるような気がして、一歩ずつ、階段を踏みしめる。足はしっかりと地面をとらえ、僕を屋上へと運ぶ。

扉を開けると、そこはやはり、浅くて深い青空だった。屋上には、一人、誰かが立っていて、きっと煙草を吸っているのだろう、紫煙が舞っていた。