JOKING』 赤い羽根より青い羽根が好き


  深々と、というにはいささか激しく雪の降る山々。もう幾日と止むことなく続いているのか、幾千、幾万と各々が天へと伸びる針葉樹は、その半身に纏う永遠に碧きを失うことない葉々を真っ白に覆われている。端から端までを覆う雲が空を隠す中、木々の合間より顔を覗かせる灯りの点った山小屋のみが今が夜であることを告げていた。

 その山小屋の中で繰り広げられているのは他愛のない食事に過ぎなかった。

「焼き加減はいかがかな」

 食卓についているのは二人の男だった。一人はいささか痩せすぎの嫌いのある二十代と思しき青年で、付け合わせもなく肉のみ盛られた皿に手を付けていた。

「ええ、何の問題もありません」

 もう一人は灰色の口髭を蓄えた壮年の男で、年ほど衰えていない、均整のとれた体躯をしていた。この男の前には酒以外何も置かれておらず、ただ青年の食べる様子を眺めているようだ。

「そうか、それはよかった。今日はドリスに頼んでいつもよりレアにしてもらったのだが、口に合うようでなによりだ」

「どおりでいつもより舌ざわりがなめらかだと思ったんです。ですがどうして急に変えようと」

「いやね、君のような特異な者の好む具合というのが私にもまだ掴めなくてね。もしかしたら生に近いほうが良いのではと思ったんだ」

「お気遣いありがとうございます。確かにこの方が肉の味を感じられる」

「肉の味ね――」

 男はそう呟くとテーブルについていた肘を肘掛けに置き、背もたれに体を預けた。

「君も初めて見たときより大分肉がついてきたようだね」

「ええ。体の調子もかなり良くなりました。本当にあなたのおかげです。僕の体質を理解してくれ、そのうえこうして自分ではどうしようもなかった食料の調達までしていただき、感謝してもしきれません」

「私は心苦しく思っているのだよ。一週間に一度しか食事を提供できず、そのうえこんな山奥まで足を運んでもらわねばならないのだからね」

「しょうがありません。この山荘はとても居心地がいい。こんなところに住んでしまったら中々都会に戻ろうなどと思えないでしょう」

「ああ、その通りだ。君はよくわかっているね。私のような者には人の喧騒が時としてとても邪魔になるんだ」

「ええ、そうでしょうね。それに……食事のことだって、これを提供してくださるのはお知り合いのお医者さまなのでしょう。ならば当然です。彼らは命を助けるのが役割なのですから」

「本当にね。それに彼にも危険を冒して死体を横流ししてもらっているのだ。悪く言うことはできないな」

 そういうと男は目をつぶり、それを見た青年は食事へと戻った。聞こえるのは食器の擦れる音と時々爆ぜる暖炉にくべられた薪の音、それから壁向こうに響く雪風の音のみだった。

しばらくの沈黙の後、男は再び口を開いた。

「君の話を初めて聞いたときは本当に驚かされたものだ」

 そう言うと右手で顎を撫でながら、青年に微笑を投げかけた。そして青年が皿から自分に目を移すのを確認しこう続けた。

 

「あの日はジャケットどころかシャツすら必要でないほど暑かった。仕事関係の会食でなければ街どころか麓の村にすら下りたくないほどだったよ。

雲が如く立ち上る排気ガスとカラスを何万羽と集めたような道行く人間のざわめき。おまけに額から垂れ、目に入る汗だ。私は何もかもがうっとおしくなり、地に視線を這わせ歩いていた。そう、そうしていたおかげで君に出会うことが叶ったんだ。君は人々の足の間に背を丸め、頭を抱え込み伏せっていた。正直な話、私は君を見たときしめたと思ったのだよ。これで出たくもない会食を断る口実ができたとね。そうして私は君に心配気に大丈夫かと声を掛けた。

 だが私の安易な気持ちは振り向いた君の顔を見て驚愕に塗り込められた。極限的に痩せた顔は土気色に染まり、頬骨が皮膚を突き破らんばかりに張りだし、そして落ち窪み生気を失った瞳には絶望の全てが映っていたのだ。それを見た私は、君こそが真に労わる必要のある人間だと悟った。そこから君に事情を聴くまでの私は、全ての献身を注いでいたといってもよいだろう」

 一息つき、ほったらかしにしていた酒を口に含むと話を続けた。

「私は衰弱する君をひとまず、極まれに仕事で使う事務所へと運ぶことにした。ふらつく君に肩を貸して歩くのはいささか骨が折れたよ。事務所からそう遠くない場所だったことに感謝しなくてはね。そして事務所に着くと君をソファに座らしたんだ。覚えているだろう」

「ええもちろん。その後あなたは水を飲ませ、病院に電話をお掛けになりました。そしてそれを僕は拒否した」

「そうだった。君は病院に行くことを拒んだ。なので仕方ないから食事を用意しようとしたら、君はそれも拒んだんだ。あのとき私はただ遠慮しているのかとも思ったのだが、君の尋常じゃない様子からどうしても理由を聞かねばと思った。職業柄の好奇心というのもあったがね。

 ねえ君、どうしてあのとき話してくれる気になったのかね。君の疾患は誰かに話してもいいような類のものではないだろう。なのにどうして私ならば大丈夫だと思ったのかね」

 青年は答えた。

「ひとつには、僕があなたのことを知っていたというのがあります。ですが、それは当たり前でしょう。あなたは国民的作家だ。知らない者はこの国にいません。僕もあなたのことを知っていて――だから、水を頂いて意識がはっきりしてきて、あなただということに気付いて驚きました――いくつか作品にも触れてきました。あなたの書くものはいつも異端を扱っていながらそれを是としてしまいます。そんな作品を書くあなたなら、こんな僕を受け入れないまでも、多少の理解は示してくれるかもと思ったんです。そしてあなたは僕の想像を超えた同情をくれた。

 もうひとつには、限界だったということです。十六の頃に、突然普通の食べ物を受け入れられなくなった自分を皆に隠してきました。親からも学校からも逃げ、ようやく見つけた職場でも付き合いが悪いと疎まれ、転々とする日々。食事だって、僕には調達する勇気もない。ひもじくなると人目を盗んで墓を掘り返す。そのことにも罪悪感を抱きながら。何度も死のうと思いましたが、僕には結局その勇気もなかった。もう僕は限界だったんです。生きる辛苦と、死ぬ恐怖に挟まれて。

 そんなときにあなたは手を差し伸べてくれた。僕はそれに縋る選択をする以外救われる道はないと思ったんです。

 結果あなたは縋る僕を優しく包み込んでくれました。そう、あなたの書く小説のように。人の肉しか受け付けられないという僕を、気味悪がることもなく、自分のことのように考えてくれた。そして今です。あなたとご友人は――まだご友人にはお会いしたことがありませんが是非一度お会いして、感謝を述べたいです――自らの危険も顧みず僕なんかのために、こうして食料を調達してくれています。本当になんと言ったところであなた方に報いるには足りない」

 最後に至る頃には青年はその瞳に涙を浮かべていた。

「いいんだ。私は自分の興味に従ったに過ぎないんだ。感謝なんて必要ないよ。きっと友人もそう思ってるだろうさ」

 青年はそれでも感謝の言葉を述べようとしたので、それを制し男はこう続けた。

「いや、本当に興味に過ぎないんだ。だから私は過去に墓荒らしの事件が起きたかどうかをあの街と、君がそれ以前に住んでいた街で当たってみることにしたんだ。ところがね、ここ数年一件も確認されていないんだよ」

「僕は相当用心して行いました。ばれることなど」

「いまは私が話しているのだ。少し待ちたまえ。いいね。……どちらの墓地も芝生で覆われていて、そうでないのは新しく埋められたところのみ。食べることも考えたら掘るのはそういった場所だろう。食事のためだと考えたら常習的に行っていたとみて間違いない。それを一人で行っていたのだ。これで痕跡が残らないわけがない。しかし実際には全く残っていなかった。

 だが生きるためには食べなくてはどうしようもない。そこで私は試してみることにした。どうだね、いま君が食べている肉。それは口にあうかな」

「ええ……」

 狼狽えながら青年は答え、男は満面の笑みで頷いた。

「そうか、よかった。ならば君は異常者などではないよ。めでたいことだ」

「何を言っているんですか」

「何って、だってそうだろう。君が食べているのは鹿の肉だ、人肉などではない。私も君が来る前に美味しく食べたよ」

 青年はこの言葉を聞くと血の気を失い、かさつく唇を閉ざし俯いてしまった。

 男は朗々と続けた。

「これで説明がつく。墓を荒らすことも、人を殺すこともなくどうして生きながらえてこれたのか。ずばり君は一般人と同じものをひもじくなると食べていたからだよ。君自身にその記憶がないのは、おそらく人肉しか食べれないという思い込みが余りにも強すぎて、その事実を覆い隠してしまったのだろう。ほら、たまに使ってもいないのに財布から金がなくなっていたということはないかい。

 まあともかく君は正常なのだ。なのになぜあのような突拍子もない思い込みをしていたのか。想像だが、君は普通を嫌ったのではないだろうか。君と会話していて思ったのは誠実だが少し気おくれ気味だということだろうか。おそらくその凡庸さから、人とは違うことに夢を見たのだろう。そういった夢は誰もが見るものだ、特に思春期にはね。ただ君の場合はその夢の度合い、方向が少しおかしな方向に行ってしまったに過ぎないんだ。だがそれも今日までということにしよう。私も君が社会復帰するのには協力を惜しまないよ」

 男は暖炉の上の時計へと目を向けた。

「もうこんな時間か。うむ、この雪では車もここまで来れないだろう。今日は泊まって行くといい。二階に客室がある」

 男はそう言うと青年の横を通りすぎ、二階へ続く階段の下まで行き、こう叫んだ。

「ドリス、起きているかい。客室のストーブを点けて、ベッドを整えてくれ」

 

 以下、地方紙より抜粋。

 

 ○○日未明、J県K村にある、著名な作家であるジェームズ=ボガード氏宅にて、ジェームズ=ボガード氏本人と家政婦のドリス=ミンツの遺体が発見された。発見時には既に、死後三日が経過していた。遺体はそれぞれ、背中と腹部を刺されており、刺された箇所の肉が、抉るように取られていた。死因は出血死と思われ、凶器は見つかっておらず、犯人は依然逃走中だ。