人の声がしていた。それぞれが別の方向を向いた声たちは、複雑に絡みあい、個別の意味を失ってしまっていた。それは狂騒と言ってもよかった。すべてがおぼろげで、だけど唐突に深い眠りから覚めたようだった。僕は遊園地にいるようだった。
いったい、いつからここにいたんだろうか。僕はソフトクリームを片手に、行列に――ああ、ジェットコースターに乗る順番を待っているのか――並んでいた。列は果てしなく、わずかに霧のかかったような視界ではその終わりを見ることはできなかった。数えるのも嫌になるほどの人間がそこにはいた。
「ねぇ、それ食べないの?」
突然、すぐ後ろから掛けられた声には聞き覚えがあるようで――でも、振り返るとそこにいた女の子の名前を僕は思い出せなかった。
「食べないんならもらうよ」
そう言って僕から半分ほどになって溶け始めているソフトクリームを攫った彼女は、親しげな様子からどうも僕のことを知っているようで――初対面の人から食べ物を奪ったりはしないだろう――僕はどうしたらいいんだ?
「ん。つめた」
彼女はそう言って目を細めた。つっ、と一筋溶けだしたクリームが指を伝って滴った。
「君は…」
「なんかさ、お祭りとかでもそうだけど、こういうところで食べるものってむやみと美味しく感じるよね」
「そうかもしれない。ところで、悪いんだが…」
君は、誰?
「――あれ? 君、名前なんだっけ」
僕の失礼な質問はさえぎられた。彼女も気づいたようだった。
「っていうか、なんであたしたちこんなところにいるんだろ」
「次の方、どうぞ!」
ちょうどそのとき奥たちの順番が回って来た。さっきはあれほど長く見えた列はいつの間にか随分と前に進んでいた。僕たちの後ろにはまだ、地平線まで長くうねる列が続いていた。
「さ、どうぞこちらです」
「とりあえず、乗ろっか」
「そうだな」
彼女は素早くソフトクリームを食べ終えると、手についたクリームをぺろりと舌で舐めとった。そのまま僕の手を引くように、ジェットコースターに乗り込む。小さな手だった。
「ベルトは必ず、しっかりつけてくださいね」
少しオーバーなくらいに仰々しいベルトをつける。塗装の剥げかけた金属製の車体は随分と古いらしく、少し揺れただけでキィキィと不快な音を立てた。
「大丈夫なんでしょうね、これ」
不安を感じたのは彼女も同じようだった。でも、そんなことを心配しているのはどうやら僕たちだけで、他の乗客たちはみなこれから訪れる出来事に対してひたすら興奮しているようだった。
「まさか。事故なんておきやしませんよ。それでは、楽しんできてくださいね」
案内のお姉さんの声とともに、ゴトリと動き出したジェットコースターは、暗いトンネルをゆっくりと登りはじめた。
「それで、」
「それで?」
「失礼なようだが――君は一体、誰なんだ? 僕の知り合いだとしたら申し訳ない。だけど、どうにも思い出せないんだ」
「そうね。というか、奇遇ねって言うべきなのかも。ごめんね。君、誰だっけ? この辺まで出かかってる感じはするんだけど――」
そう言って彼女はその細い首を両手で絞めるような動作をしてみせた。舌をちらりと見せるおまけもつけて。
「――全然思い出せない。本当にね。気づいたらここにいて、」
「それで、見ず知らずの僕からソフトクリームを奪ったと」
「そ。食べかけだったけどね。だって、どうも君が他人の気がしないというか…」
あれは食べかけだったんだ。そう意識してしまうと、彼女の顔を直視するのはなかなかに難しいことだった。特に、あの柔らかそうな唇なんかは。
「何よ、急に眼そらしたりして。いまさら他人のフリなんかされたって、困るじゃない」
「悪い。いや、何でもないんだが…」
「だんだん怖くなってきた?」
「え?」
トンネルを抜け、僕たちはすでに登り坂の、その頂点に来てしまったようだった。傾いていたジェットコースターは一瞬だけ水平に止まったかと思うと、今度は歯がゆいくらいにゆっくりと前のめりになって――猛烈な勢いで下り始めた。地面にぶつかるかというほど、垂直に近い角度で下る――というよりも落下した後、速度だけはそのままに再び上昇に移り、時計回りに三回転。また上昇し、下降し、回転して――
僕が認識できたのはそこまでだった。
「ボロい割に、結構面白かったね」
頭の中までシェイクされてしまったような僕がへろへろになってベンチに横たわる一方、彼女は随分と満足げな表情をしていた。
「…それはよかった」
「なーに。君、こういうの慣れてないの?」
「迷惑をかけてすまない。どうやらそうらしい」
自分以外の世界のすべてがまだぐるぐるとまわっているようで、ただ目を開けていることさえできなかった。
「無理してまで乗らなくたってよかったのに」
「苦手だって知らなかった――というか、忘れていたらしい」
間の抜けた話だった。僕はそんなことさえ忘れてしまっていたのだ。
「あー。てか、そうだよねぇ」
彼女は一瞬だけすまなそうな顔をして、だけどその表情は何かとても困った事に出会ってしまったように変化した。
まったくもって僕たちは困っていた。ようやく僕は、自分の名前さえ忘れていることに気がついた。
「どうしよっか。なんにもわかんないのって、こんなに落ち着かないものなんだね」
そう言って彼女は、何か名前のわかるものでもあればいいんだけど、とポケットの中をまさぐった。僕もそれにならう。二人とも鞄みたいなものはもっていなかったから、身体検査はすぐに終わった。
「何もないな」
この状況にはお手上げだった。
「ちょっと待って」
彼女は僕の左腕をつかむと、そこに巻かれた腕時計を外し始めた。奇妙にねじくれたその時計は随分と使い込まれているようで、なるほどイニシャルぐらい彫られているかもしれない。
「残念、何にも書いてないね。そもそもこの時計動いてないし」
時計はきれいに十二時を指したまま止まっていた。霞がかって傾いた太陽から、正午と言う訳ではないようだからずいぶん前から動いていなかったのかもしれない。
「どうしよっか」
僕たちは途方に暮れるしかなかった。
「一時的なキオクソーシツ、ってやつなのかな?」
「僕たち二人ともが?」
そんな都合のいい――あるいは、悪い――ことがあるものだろうか。
「でもさ、どうも君とは初対面、って感じじゃないんだよね」
「それは僕も思っていた」
「んー、じゃあさあ、あたしたちのどっちかが嘘をついてるってのは?」
「そんなことしてなんになるんだ? 第一、僕には君が嘘をついているようにはとても見えない」
「言い切れることでもないでしょ。まぁ、あたしは嘘ついてないし、君が嘘ついてるとも思えないけど…」
本当に何もかもがわからない。それは恐怖というよりは困惑だった。あるはずの何かが欠けている、という恐怖感を抱くことができないほど僕たちはすべてを失っていたのだ。
僕はベンチからようやく体を起こした。まだ揺れている感じはするけれど、だいぶ楽にはなっていた。
「とりあえず、僕たちのことを知っている誰かを探すしかないだろう。どうしてここにいるのかもわからないんだから」
「誰かと一緒に来てたのかもしれないしね」
しかしぐるりと見渡してみても、人並みの中に知った顔はありそうもなかった。そもそも、誰かの顔を思い出すことができるのだろうか? 知っている誰かを思い出そうとし――だけど僕はその『誰か』さえ思い出すことはできなかった。
「ここの出口まで行ってみる? 何かわかるかもしれないし」
彼女も同じようなものだったらしい。しばらく考え込んでから諦めたようにそう言った。
「そうだな」
少なくとも、このままここにいるよりはいいだろう。立ち上がろうとして――立ち眩んだ。
「よっ、と。ちょっと大丈夫? まだ調子悪いんなら…」
彼女は危うくよろめきかけた僕の腕をつかんで支え、引き上げてくれた。
「すまない。もう大丈夫だ」
「ほんとに? まあ、だいぶ顔色もよくなってきてるけど」
ダメそうだったらちゃんと言ってよね――いくらか疑わしげだったものの、彼女はつかんでいた手をゆっくりと放した。
遊園地の出口を探すのは難しそうだった。不親切なことにどうやらここには――誰も必要だと思わなかったんだろうか?――どこに何があるかを教えてくれる看板のようなものは無いようだった。それに加えて、園内はどこも大勢の人間でまっすぐ歩くのが難しいほどだったし、先ほどからだんだん濃くなっている霧のせいで見通しも悪い。僕たちは人ごみの中ではぐれないよう手をつないで、なんとか外側だと思われる方に向かって歩いていた。
「天気も良くないのに、なんだってこんなに人がいるんだ」
「さあね。でも私たちって、たぶんわざわざ来ようと思ったんだろうから、あんまり人のことは言えないんじゃない?」
記憶がないというのはどうも不思議な経験だった――それ以前の経験さえ僕は忘れてしまったのだけれど。常識のようなもの、例えば遠くに見える巨大な円が観覧車と呼ばれることは『知って』いるのだけれど、自分が以前にそれに乗ったことがあるのかどうか、みたいなことは何もわからないのだ。手探りというよりも無重力のように何もかもがふわふわとしていて、僕は握られた彼女の手を強く意識した。小さな手。彼女だけが生まれたばかりの僕にとって、すべてと言ってもよかった。
「見つからないな」
そこは行き止まりだった。遊園地の隅、そこだけがぽっかりと人のいない、見落とされたような場所で僕たちは途方に暮れていた。いくらか離れたところをたくさんの人間が、僕たちには一目もくれず、次から次へと霧の中を現れては足早に消えていった。彼らは僕たちと違って、何をすべきなのかがわかっているんだろう。
「無いってことはないと思うんだけど、困ったね…」
お化け屋敷、ゴーカート、さっきのジェットコースター、アイスクリーム売り、コーヒーカップ、メリーゴーランド、別のジェットコースター、フリーフォール、観覧車…
出入り口となる、ゲートのようなものを見つけることはできなかった。
「そういえば、誰か知り合いっぽい人、いた?」
「全然。わからなかった」
はじめに彼女に覚えた既視感のようなものは、すれ違った誰一人として感じなかった。それほど注意していたわけではないから、僕が気づかなかっただけかもしれないけれども。
「そっか。私の方も全然。そうなると、君と二人でここに来たのかもしれないね」
遊園地はぐるりとその周りを常緑樹の林で囲われていた。この林を抜ければどこかに出口があるのかもしれない。
「もう一回探しに行く?」
「いや、今度はそっちに行ってみよう」
「暗くなってきちゃったけど、大丈夫かな」
もう夕暮れが近いのかもしれない。空は次第に暗さを増していた。確かにこれは危ないかもしれない。林とは言ったものの、ここからではどれぐらいの大きさなのかまったくわからない。最悪、迷いでもしたら夜をそこで過ごす羽目になる。僕一人なら構わないが、彼女を危険な目に合わせるのは…
「ま、こうしてても仕方ないしね。行ってみよっか」
「いいのか? もし迷いでもしたら」
「なるようになるでしょ。ここでぼけっとしてたって何が変わるわけじゃないんだし。迷子にならないように気をつけなきゃね」
そう言って彼女は、また僕の手を取った。
「わざわざ手をつながなくたって」
「ん? もしかして、恥ずかしかったりする?」
彼女はいたずらっぽく笑うと、つないだ手を持ち上げて見せた。
「ほんとに嫌なら放してもいいけど。別にいいんじゃない? 誰が見てるってわけでもないしさ」
そのとおりだった。誰も僕たちのことなんて気にしちゃいない。いくらか盛り上がったなだらかな丘の上に立った観覧車がおぼろげに見えていた。たとえば、あそこから僕たちのことが見えていたとしたって、だから何だと言うんだ。すべてのものは無価値だった。ただ彼女一人を除いて。
「そっかー。気にしてないのかもって思ってたけど、意外とそうでもないんだね」
そう言うと彼女は嬉しそうに歩き出した。
林の中は想像以上に暗く、注意していなければ突き出した木の根や石につまずいてしまいそうだった。遊園地の喧騒ももはや聞こえてこず、耳に入るのは僕たちの足音と、せいぜい風が枝葉を揺らす音ぐらいだった。鳥だとか虫の声は不気味なほど聞こえない。
僕たちは焦っていた。曲がりくねった道が方向感覚を怪しくして、さっきから同じところをぐるぐるとまわっているんじゃないかと錯覚させていたし、頭上を覆うように生い茂った木の葉は光をさえぎってどれぐらい歩いたのか、時間さえもわからなくなり始めていた。
「なんだか気味が悪い」
もはや森と呼ぶべきだろう、その奥に行くにしたがって――本当に奥に進めているのだろうか――節くれだった木は徐々に背丈を増しているようにさえ思えた。それとも僕たちが縮んでいるのかもしれない。比べるものが他にないせいで、そんなことを考えてしまうほどだった。
「やっぱり、来た道を戻ろうか」
彼女は怯えていた。もちろん僕も。焦りから、僕たちはほとんど走る寸前といったスピードで歩いていた。もしこのまま進んでも出られないとしたら。立ち止まって、振り返ろうとした僕の手を彼女は強く引いた。
「それは嫌。ちゃんと戻れるのかもわかんないし。早く出ようよ」
今にも泣きだしてしまいそうな声。霧のせいで見通しも悪く、僕たちは黙ったまま足元だけを見て歩いた。一度見たような形の岩も見ないふりをして先を急ぐ。
こんなところで迷子になってしまったら。僕らがここにいることは誰も知らなければ、他にわざわざこんな道を通る人がいるとも思えなかった。そして困ったことに、どうやら僕たちは迷子になりかけてるんじゃないだろうか?
その時、木の葉の揺れるそれとは異なる音が聞こえてくることに気がついた。繰り返し、単調に連続する低い音。はじめ気のせいか、あるいは幻聴かとも思われたそれは、一歩進むごとにわずかずつではあるもののはっきりと聞こえてくるようになっていた。
「何か聞こえない?」
彼女も気づいたようだった。下を向いていた顔をあげ、きょろきょろとあたりを見回しているが何もそれらしいものは見えない。見えるのはさっきからこれっぽっちも変わっていないような景色だけだった。その音はどこか遠くから響いていた。
「聞こえる」
「もしかしたら出口が近いのかも」
つられるようにさらに足を速めようとした彼女は、何かに足を取られたのかよろめいて――あいている右手を伸ばし――バランスを崩しきってしまうぎりぎりのところでどうにか抱き留めた。
「…ありがと」
よほど驚いたのだろう。彼女はむやみと目を瞬かせていた。
「足をくじいたりはしてないか?」
「ん。大丈夫」
半ば抱え上げるような形になっていた彼女をゆっくりおろす。少し気にするようにくるくると足首を回した後、彼女は驚いた表情のまま器用に笑ってみせた。
「いやー、びっくりした。ありがと、ちょっと気が急いちゃった」
「気をつけてくれ。見てるこっちの心臓が止まるかと思った」
「そんな大げさな」
「大げさなもんか」
もう転ばないようにしないとね。彼女はそう言って、また歩き出した。まだ心臓はばくばくと、それこそ大げさに脈打っていた。
森はその端に近づいているようだった。次第に視界が開けていく。まばらになった木立を抜けるとそこは岬になっていた。先端は切り立った崖になっていて、遙か下の方に海面が見える。さっきから聞こえていたのはこの音だったらしい。大きな波が岸壁にあたって飛沫をあげていた。
太陽はすでに大きく傾いて、夕焼けが波を照らしていた。
左右を見渡しても何もない。なにかの目印のように、いまにも崖から落ちてしまいそうにぽつんぽつんといくつか細長い岩が立っていた。
「こんなところ?」
彼女がそういうのも無理もなかった。僕たちが期待していたのは、こんな行き止まりみたいなところじゃない。ひどく寂しい場所だった。彼女が大きなため息を吐く。徒労、の二文字が浮かんだ。
「ねえ、あれ、人じゃない?」
細長い岩のように見えていたのは、確かに人間のようだった。よく目を凝らしてみれば服が風になびいている。彼らはじっと、崖の下を眺めているようだった。嫌な予感がした。
「あっ、」
その中の一人がふらりと前に出たかと思うと、何でもないことのように崖から飛び降りた。
あまりにもあっけなく落下していき――わずかな水音を残して姿を消した。何も浮かんでこない。その人は波の下にぽっかりと空いた穴に吸い込まれてしまったようだった。
つられでもしたかのように、まるでそれが当然のように残りの人も次々と飛び込んでいく。不自然なほどに静かだった。僕たちはそれを見ていることしかできなかった。
最後の一人がいなくなっても、しばらくの間僕たちは口を開けなかった。
「…あそこが出口なんだね」
「そうみたいだな」
彼女もそうなのだろう。あそこから外へ出られる、奇妙な確信があった。
崖の上から見下ろしてみても、飛び降りてしまった人たちは影も形もない。まるで元からいなかったかのように、何一つ痕跡は残っていたなかった。あるいは見間違いだったのかも。そう信じてしまいたいほどだったけれど、飛び降りていく姿は嫌になるほど鮮明に覚えていた。
波は岸壁に繰り返し打ち付けて、生み出された飛沫は毎回違う形でありながらたいして変わったようには見えない。海の底がわずかながら暗くなっているところがあって――ああ、あれが出口なんだろうな。
「それじゃ、いっちょ行ってみますか――ちょっと怖いけどね」
彼女は僕の手を強く握った。
「行かなくてもいいんじゃないか」
「え?」
握られた手を、さらに強く握り返す。僕は彼女と離れたくはなかったのだ。
「だって、あそこから出られるんだよ? 確かに、それがほんとかどうか、説明できるわけじゃないけどさ、なんて言ったらいいのかな」
周囲には霧が、ほとんどすべてを覆い隠していた。わずかに見えているのは崖の先と、後戻りできる道の、それもわずか数歩分だけだった。後ろを振り返っても、もう森は見えなかった。
「いいじゃないか。出れないとしたって」
「良くないよ。ここには何もないじゃない」
「そんなことはないだろ。遊園地なんだ。ずっと遊んでいたってかまわない」
「でも君、ジェットコースター苦手なんでしょ?」
「ジェットコースターだって、もう何度か乗れば平気になるかもしれないじゃないか」
彼女とならば。ずっとここに残り続けるのも悪くはないと思えた。ここには僕と彼女、二人だけしかいなかったけれど、それに何の不満があるだろうか。
「いくら好きって言ったって、あたしはずっとジェットコースターに乗り続けるのはちょっとなぁ――」
子どもをあやす母親のように、彼女は困ったように笑って僕の手を引いた。
「――ね、行こう?」
他でもない彼女が望んでいることをどうして否定できようか。
改めて彼女の手を握る。僕たちの番だった。握った手が少しだけ震えていた。この震えは彼女のものなんだろうか。
「じゃあ、せーの、で」
「わかった」
恐怖感がないわけじゃない。しかしまあ、彼女と一緒であれば多少のことは我慢できる。
崖際に立って下を見下ろすと、
「手、離さないでね」
僕は無言でうなずいた。言われるまでもないことだった。
「せーのっ」
そして僕たちは一歩を踏み出した。落ちていく。こんな時に場違いかもしれないけれど、頬に当たる風が気持ちよかった。一度だけ彼女と目が合って、少し笑った。
ゆっくりと瞼を開ける。深い青色をした空の中心に、強烈な光を放つ太陽があった。僕は地面に横たわっていた。首をめぐらせて彼女の姿を探す。どうして隣に誰もいないんだ? まだ少しぼんやりとした頭でそんなことを考える。
強い風が吹いて砂埃を巻き上げた。僕は顔をしかめると立ち上がった。口の中に入ってしまった砂を吐き出す。汗で張り付いたシャツが気持ち悪かった。脱水症状気味なのかもしれない。内側から叩かれるように頭が痛かった。
彼女を探さなくちゃいけないな。
名残惜し気に握られたままの左手を開く。腕時計はきちんと機能しているようだった。僕は一人で、そして失っていたすべてを取り戻していた。失われていたのは彼女だけだった。
|