夢日記Ⅱ   猫金魚屋萌萌



 七月十八日
 少し、というか結構恥ずかしい事けれど、僕は小学四年生位まで、寝ている時に小便を、つまりおねしょ、をしていた。一ヶ月に一回程の割合で。
 おねしょをしてしまう原因は寝る前にジュースを飲みすぎだ、と両親は言っていたけれど、その時の僕は夢の所為だ、と思っていた。
 と、言うのも僕がおねしょをしてしまった時に見る夢は一つの共通点があった。
 それはトイレに行く、と言う物だった。場面はそれぞれ全く違うものの、僕は必ず催し、トイレに慌てて駆け込んでいた。勿論、夢の中で。
 けれども歳の秋になった頃、全くトイレに行く夢を見なくなった。それと同時におねしょもしなくなった。だから僕は夢でトイレに行くとおねしょをする、と今も密かに信じていた。
 僕は映画館で映画を見ていた。
 何の映画だったかは思い出せなかったが、見る価値はあったようで、僕は結構集中してそれを鑑賞していた。
 多分映画が中盤に差し掛かった頃だと思う、突然僕は催してトイレに立ちたくなった。
 映画を見終わるまで僕は席を立ちたくなかったが、あと一時間は終わりそうにないし、それまで我慢出来るとは思えなかった。
 だから僕は話がひと段落ついたところで、こっそりと席を立ち、ドアを抜け、トイレに向かった。
 大抵夢を見ている時、見ている本人はそれが現実だと思ってしまっている。つまり現実を思い出す事が出来ないのだ。たとえそれがどんなに奇妙であったとしても。少なくとも僕はそうだった。
 滅多に無い事だけれど、夢を見ていると自覚する事が出来る時があり現実の記憶が戻ってくるのだ。
 夢の中に現実の自分がいる、というちょっとしたパラドックスの様な感覚を感じることが出来た。
 僕はトイレで小便を済ました後、それが夢である事に気付いてしまった。
 僕は後悔した。夢の中で小便をすると現実でもしてしまっていると思って。
 僕は映画を見に戻る事も忘れてしまい、どうしようと、悩んだ。
 勿論、夢の中から意識的に自分の身体を動かすのは不可能だし、たとえそれが出来たとしても、魔法が使えたりしない限り、十七歳の自分がおねしょをしてしまった事実は変わらない。
 だから、悩む事は無駄だった。
 少なくとも僕は他人にこの事を知られてはならないと思い、早朝の内に目覚め、何とかして、濡れた布団を乾かそうと思った。
 だけど、夢の中で起きようと思っても、現実で起きられるものではなかった。
 結局、何時もと同じ時刻に目覚めてしまい、父親に知られる事となってしまった。
 父は苦笑いしながら、他の家族に言わないと約束してくれたが、僕が大人になった時に思い出話として他人に話すかも知れなかった。

 七月三十日
 夢は僕の頭の中にある形の無い色々なものが混ざり合って見えるものだ。
 時には自分の気付いていない思想すらも夢になって出てくる。
 僕は逃げていた。
 此処は廃墟の病院。廃墟と言っても、最近放棄されたようで、外から見てもまだ営業していると言っても嘘には聞こえない。
 まあ、入り口の所に営業停止の張り紙がしてあったので、勘違いする人はいなかったけれども。
 僕とその友達は(女子が三人に男子が二人)肝試しをしようと言う事になった。
 けれども女子が墓場とか、屋根が崩れ落ちそうな廃墟などの本当に出そうで危険な所は嫌だと言う。
 それなら丁度いいところがあると男子の一人が言い(名前は分かるのだけれど、此処に書くのは少し気が引けた)この病院で肝試しをする事にしたのだ。
 それは寧ろ合コンに近い。僕と一人の女の子以外は二組ともカップルで、もし僕とその女の子がいなかったら、ダブル・デートになっていただろう。
 そもそもこの肝試しは僕の為に開催された物でもあった。
 僕はその女の子(本名を知っているけれども、Yとしよう)にいささかの好意を抱いていた。
 まだ告白しようという位のものではなかったけれど、自分が異性として意識しているのは違いなかった。
 そこでおせっかいな、あるいは人の恋路に首を突っ込むのが好きな二人の友達によって、この肝試しが計画されたのだ。
 僕達六人は門に貼られている「立ち入り禁止」のテープの下をくぐり、敷地内に入った。
 僕が先頭を歩く。勇気があることをYに見せる為に。そしてその後ろにY、そのまた後ろに友達とその彼女がカップル同士横に並んでついて来た。
 でもいつの間にか、病院のホールに付く頃には、僕とYは並んで歩いていた。
 そこで、僕達6人は三組に分かれて、病院の中を探索する事にした。
 友達とその彼女で二組、そして僕とYが一緒に行動する事になった。
 僕達二人は三階に上がった。
 まだお互いに友達という関係だったので僕とYは手が触れ合わない微妙な間をとって(手を伸ばせば触れられるような距離だ)並んで階段を上っていった。
 今日僕はYに告白、またはそれに準ずる行為、要するにYに好きだと思う気持ちを伝えるつもりでいた。
 まだ僕はYの事を本格的に好きではなかった。
 だから気持ちがハッキリしてから告白するほうが好ましいのは分かるのだけれど、寧ろ僕はこの時期に告白したいと考えていた。
 もし今日告白して、Yが「いい友達でいようね」とか、僕と恋愛関係になりたくない様な返事が返ってきたら、僕はスッパリとYを諦める事が出来るだろう。
 だけども僕が本格的に好きになって告白した時に断わられたら、諦める事が出来るのか。いや多分出来ない気がした。
 
 七月二十八日 夢日記ではなく日記
 此処までは一昨日、つまり二十八日の現実で起きた事なのだけれど、此処から先は、昨日見た映画の記憶がまざり込んでいた。
 二十八日の現実で僕は結局、告白する事が出来なかった。いや、告白しなかったと言うべきか。
 僕はYと一緒に三階のフロアを歩き回りながら告白するタイミングを探していたのだけれど、なかなか見つからなくって、Yと話しているうちに、僕は本格的に彼女の事を好きになってしまっていた。
 だから、断わられる事が怖くなってしまい結局告白しなかった。
 その時の僕は心の中で言い訳をしていた。
 彼女が僕に好意を抱いているのが感じられたら告白しよう、と。
 書きたい事はもう少しあるけれども、これは日記ではないから、ここらでやめておく。誰に言っているのだろう。未来の僕か。
 七月三十日 夢日記
 病院内部は綺麗だったけれども、人がいない、それだけで不気味な雰囲気を醸し出していた。
 でもYはそんな事で怖がる様な性格でもなかった。元々幽霊を信じていないのだ。
 単に怖いから幽霊を信じない、というのではなく、色々な根拠から幽霊はいない、と確信している風だった。
 逆に僕の考えとしては幽霊はいるかも知れないと思っていた。だからと言ってYが僕を嫌いになるとは思えなかったし、僕も嫌いになんてならなかった。
 だから彼女は怖がって僕の後ろにピッタリくっ付いて歩く様な事はせず、普通に僕と並んで歩いた。
 その様にして僕達は持っている懐中電灯で辺りを照らして歩いていった。
 もっとも、懐中電灯を消しても、月明かりで十分見えるのだけれど、そこはまあ雰囲気を楽しむために点けていた。
 三階のフロアはほとんどは、一般の患者が使う病室だったけれども、一番端に一つだけとても豪華な病室があった。そこの部屋の扉だけ他のより一回りも大きく、重々しかった。僕とYは扉を開け、中を見たとたん、わあ、と同じタイミングで声を上げて驚いた。
 そして二人で顔を見合わせた。
 床は赤いカーペットで敷き詰められ、天井にはシャンデリア、そしてシングルサイズ以上の大きさのベッドは屋根が付き、寝る時にカーテンを掛けられる仕組みになっていた。
 ふと、何かの気配を感じ、廊下のほうを見ると、僕が居る真向かいの端に、誰か黒いコートを着た人影が立っているのが目に入った。でもそれは瞬きを僕がすると同時に消えていた。
 そうしてるとYが先に部屋に入ってしまい、あわてて僕がそれに続く。人影は見間違いと思うにした。もしくは友達の誰かが驚かせようとして変装しているのかも知れない、とも考えておく事にした。
 支えをなくした扉が自身の重みによって閉じる。
 中に入ると少しひんやりとした空気が流れているのを感じる。七月末なので電気が供給されていない病院の内部は、少し暑かったが、この部屋だけは空調が効いているようだ。
 実際、電気が供給されていない、と僕達が勝手に思い込んでいるだけで、スイッチを押したら明かりは点くのかも知れなかった(そんな事したら面白くないのでやらなかったが)。
 部屋には塵一つ無い、という表現が正確に当てはまる様に、綺麗に掃除されていた。
 Yはベッドが汚れてないのを確認してから、横の部分に腰掛けた。丁度窓が目の前に来る様に。
 僕は彼女の隣に座りたかったのだけれど、少し図々しいかなと思って、しばらく部屋の中を見て回っていた。色々調べるとベッドの横には、ミニ冷蔵庫があり、しかもまだ稼動しているようだった。そうっと冷蔵庫の扉を開けてみると、人の手首や足首が……なんて事は無く、ジュース、ワイン(病院の中でアルコール摂取は許されていないのでは、とその時思った)、それに林檎や梨、バナナなどのよくお見舞いに持ってくる様な果物が入っていた。
 僕は缶ジュースを取り出し、賞味期限を調べてみた。あと一年は安心して飲める日付だった。流石に果物は手を付ける気にはなれなかった。
 彼女に好きな飲み物を聞く。丁度その銘柄があったので、それと自分の分も取り出して、彼女に手渡した。
 僕が立って飲み物を開けようとすると、彼女が座りなよ、と自分の横を軽く叩いて言うので、少し遠慮しつつ座った。
 休憩も兼ねて、二人で雑談をする。
 やがて話す事が無くなり、少しの間沈黙が訪れる。
 このタイミングだ、と僕は思った。今、告白をするべきだと。そして僕は告白をしてみた。内容はいたってシンプルで、Y、君が好きだ、と。
 まだ完全に好きになっていなかった所為もあって、どもったり、つっかえたりせずに言う事が出来た。
 彼女は無表情になり、しばらく黙っていた。けれども、突然の事に慌てている様子ではない。むしろ予測していたと思えるような反応だった。予測しているという事はそれに対する対応も考えているだろう。だからこの沈黙は、考えている訳ではなく……言いづらいからなのかと僕は考えていた。
 僕は半ば諦め、彼女の次の言葉を待った。しかし、彼女からの返事は無く、その代りに、僕の方に倒れかかって来た。一瞬、彼女が眩暈を起こしたのかと思って、慌ててその身体を受け止める。
 でも、Yの瞳は僕の瞳をしっかりと見つめていた。
 どうしたの、と聞くと、これが答えだよ、と返事が返って来た。
 OKって事? と分かっている筈なのに僕が聞くと、彼女は少し頬を膨らませてそれ以外に何があるのよ、と言った。
 僕はそっと腕を離して、彼女を自分の膝の上に乗せた。
 Yは目を閉じて、ありがとう、と言った。
 なぜお礼を言われたのかは僕には良く分からなかった。むしろ逆にこちらがお礼を言うべきではないかと思った。
 こちらこそありがとう、と返した。
 しばらく、二人とも何も言わず、動かなかった。
 先程の沈黙とは違って、二人の間は何かで繋がっていた、ように僕は思った。
 正面の窓から差し込んだ月の光が祝福するかのように僕達を照らしていた。
 此処までで眼が覚めたら、明晰夢を見れた、と僕は思っただろう。
 けれどもそれはただの夢に過ぎなくて、そして続きがあった。
 
 その静寂を悲鳴が引き裂く。
 Yは驚き、僕の膝の上から飛び上がった。
 二人で何事かと顔を見合わせた。
 その悲鳴はふざけてあげる様な黄色い悲鳴では決してなく、これ以上ない絶望に出会ったのかの様な、そんな悲鳴だった。
 どうやら二階から聞こえてくる様だ。
 二階には友達とその彼女がいるはずだった。
 僕とYは部屋を飛び出し、側の階段から、二階へ向かう。
 悲鳴はまだ続いていた。声は友達の彼女の様だった(友達がこんな高音を出せるとは思えない)。良く聞き取れなかったが、友達の名前を呼んでいる様に聞こえた。
 二階に着くと、一階にいた二人も悲鳴を聞きつけて上がって来ていた。
 急いで二階を探す。
 まだ悲鳴は続いていたので(助けて、という様な言葉に変わっていた)、直ぐに二人がいる部屋を見つける事が出来た。そこは手術室だった。扉の上に「手術中」というランプがあり、しかも何故だか点灯していた。
 この時の僕達は友達が足を滑らせて、治療器具の上に倒れこんで、大出血でもやらかした、位にしか考えていなかった。それでも大事件な事には変わりがなかったけれども。
 だけど現実は、いや夢だから現実じゃないけれど、実際には更に酷い事態だった。
 扉に近付くと、奇妙な音がする事に気付いた。
 エンジン音と何かが高速で回っている様な音がする。勿論、扉の向こうからだ。
 何だろう、と一瞬思ったが悲鳴がまだ続いていたので(こないで、と言っている)扉を開け、手術室に足を踏み入れる。
 手術室には二人いた。
 まず部屋の真ん中に立っている一人が目に付いた。けれどもその人は、友達でも、その彼女でも無かった。
 そいつは黒いフードつきコートを頭からすっぽりと被っていた。性別は分からなかったが、体つきから見て男の様だった。
 僕達の方に背を向けている。そしてその向こうに友達の彼女が壁にへばりつく様にして座っていた。
 彼女は僕達が入ってきた事に気付いて、助けて、と叫んだ。悲鳴をずっと上げていた所為か、声が掠れている。
 そして彼女と一緒にいるはずの友達(Xとしよう)は姿が見えなかった。
 理由は分からないけれど、彼女は黒コートの男に襲われている。そして追い詰められている。
 その状況を理解した僕達はともかく彼女を助けようとした。
 まず友達(一階にいた方だ、こっちをZとする)が最初に男に向かって駆け出そうとする。けれど、何かに躓いて転びそうになる。
 僕はZの腕を慌てて掴む。そして下を見て、衝撃を覚えた。
 他の三人も見つけた様で、Zの彼女は悲鳴を上げた
 Zがつまずいた物、それはXの胴体部分だった。胴体ではなく、胴体部分のみだった。
 Xの首と胴体と下半身は切り離されていた。勿論、息はあるはずも無い。
 夢だからだろう、切り口の部分は霧が掛かった様に見えなかった。
 どうやったら、こんなに風に人を斬る事が出来るのか。その疑問は男を見たとたん、直ぐに氷解した。
 男は主に大木を切る時に使う工具、チェーンソーを持っていた。
 扉の前で聞いた二つの音はそのチェーンソーから聞こえていた。
 男が僕達の方に少し顔を向ける。仮面とかマスクは何も付けていない。だけれど顔があるべき部分は暗闇になっていて、見えない。
 
 ところで僕が昨日見たのはホッケーマスクを被った殺人鬼が出てくる映画じゃない。
 そもそも、その殺人鬼はチェーンソーで人を殺してない。主に鉈を使っていた(この映画は半年前に見た)。
 僕が昨夜見たのはチェーンソーで人を殺した男が、その殺した人の顔の皮を被って、殺人を繰り返す映画だ。
 多分それが今回見た夢に影響を及ぼしているんだと思う。
 
 僕は男に見られた途端(目が合った訳では無いけれど、そう感じた)身体が金縛りにあった様に動けなくなった。
 他の三人も同じく金縛りになった様で、誰も動かない。
 
 金縛りってのは一種の夢なのかもしれない。授業中机の上に突っ伏して寝ているとたまになる。
 眼が覚めているはずなのに、全く身体が動かせない。教師の話が耳に入っているのに、ノートを取る事もできない。もっとも、起きていても取らないから寝ているのだけれど。
 僕に限った事かもしれないけれど、人はやれる時はやらないのに、それが突然出来なくなると、無性にそれがやりたくなる。
 だから、金縛りにあっている時は、ノートを取る為に必死に起き上がろうとする。
 金縛りには一部の脳が動いていないからとか諸説あるけれど、まだ原因はハッキリとは分かってないみたいだ。
 
 男はXの彼女に向き直り、ゆっくりと近付いていった。
 止めろ、と声を出そうとしたけれど、出せない。まるで喉が声を作り出す事を忘れてしまったみたいに。
 元彼女は、もう悲鳴を上げる事もせず、あるいは上げる事が出来ずに、ただ男を見上げていた。声を出してはいる様で、チェーンソーの音で僕には聞こえなかったけれど、口の動きからして「あ……ああ……」と言っているのが分かる。
 男は彼女の前で止まると、腰を屈め、チェーンソーを腰の横に構える。
 そして躊躇いもなく元彼女の胸に向けて突き刺した。
 もし突き刺したのが刀だったならば、元彼女は直ぐに絶命する事が出来たかもしれない。
 だけどチェーンソーなので胸に刺さりはしたものの、心臓まで直ぐには届かなかった。
 ゆっくりと、彼女の胸の肉と骨を削っていく。血が噴水の様に辺りに飛び散る。もし日の光がそこに差し込んだら、綺麗な虹が出来そうだった。
 斬られている部分はまた靄が掛かっていて見えなかったけれど。
 彼女の顔は天井上を向き白目を剥いていた。身体がチェーンソーの振動に合わせて揺れている。生きているか、死んでいるかは分からない。だけど、刺された時のショックで死んでいる事を願った。
 チェーンソーの刃が心臓に達し、突き破り、背骨を破壊するまでそんなに時間は掛からない。たぶん二十秒も無い。
 でも僕にはそれがとても長く感じられた。
 人が眼の前で殺されているのに、何もする事が出来ないのはとても辛い。
 まるで自分の精神までもが殺されている様だった。
 これがもし現実だったら、その後生きていたとしても、その事を思い出し、自殺しているかもしれなかった。
 元彼女の身体を貫いたのだろう、肉と骨が削れる音から、タイルの壁を削る音に変わる。
 でも男はチェーンソーを抜かず、そのままゆっくりと下腹部の方へ下ろし始めた。
 再び血、そして肉が飛び散る。
 もう金縛りは解けていた。だけど、誰も男に向かって飛び掛ろうとはしなかった。無駄だったからだ。
 元彼女は四人の誰の目から見ても既に絶命していた。もしこれで生きていたら、もはやそれはそれで化け物だろう。死の概念を超えた。
 男はまだ屍となった元彼女を斬り続けていた。真っ二つにするつもりなのだろう。
 男は殺人鬼だと、この場で生きている皆がそう感じた、はずだ。
 もし、Xと彼女の二人に恨みがあったとしても、こんな猟奇的な殺し方はしないだろう。ましてや既に死んでいる人を斬り続けるなど、精神が破綻しているとしか思えない。
 どちらにせよ、彼は殺している現場を見られたのだから、口封じの為に傍観者である僕達を殺しに掛かるだろう。
 まず最初に、Zが男に背を向けて、唯一の出口である扉へむかって走り出す。
 それにつられる様にZの彼女も逃げ出す。僕もその後ろに続こうとして、Yがまだ男を見ていたので、慌てて腕を引っ張り、引きずる様に連れ出した。
 扉を抜け、前の二人について走る。
 廊下には窓から月明かりが差し込んでいたけれど、もはやそれは闇という恐怖を演出するだけの物になっていた。
 階段を転がる様に駆け下りて、玄関ロビーまで一目散に駆けていった。 
 その時、僕達はある音を聞き逃していた。もし、その音に気付く事が出来れば、二人の犠牲者だけで、この病院から逃げ出す事が出来たのかもしれなかった。
 先頭を走っていたZが玄関ロビーに到着し、息を切らしながら扉に手をかける。
 けれども、開かない。引いても無理だった。
 ぼくとZで体当たりをしても扉は全く動じる様子を見せず、まるで自らを壁と言っている様だった。
 ふと、Yが「機械の音がしない?」と言った。
 僕達は体当たりをするのをやめ、耳を澄ませる。
 確かに音がする。Yの言う通りそれは機械音で何かが降りる音に聞こえた。
 僕はある考えに至り、窓のある廊下へ目を向ける。
 窓からは月の光がまだ差し込んでいた。だけどその光は小さくなっている。
 窓の方へ駆け寄る。だけれど、もう遅かった。
 機械音の正体はシャッターが閉まる音だった。
 僕が窓の正面まで来たときに既にシャッターが窓の四分の三を覆っていた。
 慌てて窓を開け、それを止めようとする。だけど、窓自体は開いたものの、網戸が固定されていた。ぶち破ろうと殴りつけてみたけれど、よほど丈夫な素材で出来ているのか、拳では破れそうに無かった。
 そうしている内に、シャッターが完全に閉まった。
 自然の光が消え、何も見えなくなる。
 シャッターが降りた事により、電気はまだ通っているのが分かったが、非常灯は点灯しなかった。
 僕達は一つずつ懐中電灯を持っていたので、全員それを点ける。
 いそいで玄関ロビーから離れる。扉が開かない以上此処にいても意味が無いし、殺人鬼の男が僕達を追ってくる可能性があるからだ。
 廊下を曲がり、辺り一帯を照らしながら進む。
 非常口に辿り着く。緑色のカバーを取り外して、鍵を開ける。ドアノブはちゃんと動く。どうやらこの扉はちゃんと機能するようだった。
 僕達は喜び、扉を開けて外に出ようとする。
 だけどその扉から脱出する事は不可能だった。
 扉が開いている途中で止まったのだ。いくら力を込めてもそれ以上開く事は出来なかった。
 どうやら外に何か車のような重い物がおいてあり、それが扉をふさいでいるらしい。
 四人掛りで扉を押しても無理なのだから、それは相当重い物なのだろう。
 その隙間はやっとYやZの彼女が腕を出せるほどの隙間しかなく、無論通り抜ける事はできない。
 そうしていると、後ろでチェーンソーの駆動音がする。
 振り向くと二十メートルほど離れたところに男が立っていた。
 男がこちらに一歩踏み出すと同時に、僕達は再び逃げ出した。
 どうやって逃げたかは覚えていない。
 気付くと僕はYと二人で、三階にいた。
 三階はシャッターが降りていなかった。でも、窓から外に飛び出すのは無謀に近い。
 この病院は天井が高く、三階で十メートルはありそうだった。
 しかも地面はコンクリートなので運が悪ければ死ぬ事だってありえた。少なくとも何処かの骨が折れるだろう。
 それでも男に殺されるよりはましなように見えるけれど、もし男が追ってきたら、そんな重傷で逃げ切れる自信無かった。
 むしろ怪我の所為でゆっくりと嬲り殺される可能性だってあった。
 だけど、それ以外に脱出する道は無さそうだった。ちなみに、火事の時に使ったりするすべり台のような非難器具は壊されていて使う事が出来なかった。壊れ方から見るに男の仕業に見えた。
 僕が覚悟を決めようとしていると、Yが横から話しかけて来た。
 ねえ、あいつを撃退出来ないかしら、と。
 それはとんでもない提案だった。けれど、ほんの少しの勝機はたしかにあった。
 僕はYから男の撃退方法を聞いて、その賭けに乗ってみる事にした。外に飛び出すよりはいくぶんかましに思えたからだ。
 二階の手術室に行く。Xとその彼女が殺された手術室だ。
 他の手術室でも良かったのだけれど、目当ての物が置いてあるかどうか分からなかったからだ。
 Xはさっきと同じようにバラバラに転がっていた。
 Xの彼女は胸からまたの部分まで綺麗に二等分されていた。
 僕は死体となった二人を壁の端に並ぶ様に寝かせ、二人の手を握らせてあげ、その上から白い布を掛ける。そしてその前で手を合わせ、少しのお祈りをする。
 そうしている内にYが目当てのものを見つけ出し、プラグをコンセントに差込み、電源を入れていた。
 それは患者が手術中に心肺停止した時に胸に当て、電気ショックを加え、生き返らせる機械だった。心肺蘇生器とでも言うのだろうか。ともかくそれを使って男を撃退、いやもしかしたら倒す事が出来るのかもしれない。
 まず僕が手術室から外にでて、男を捜す。あまり手術室から離れない様に気を付けながら二回ほど曲がり角を曲がった時、コートの男を見つけた。十メートル程離れた位置にいる。僕にはまだ気付いてない様で反対の方を向いていた。
 彼を気付かせる為にライトの光を男に向ける。男は気付き、ゆっくりと僕の方を向き、歩いてきた。僕は男が五メートル程に近付いて来た時、背を向けて逃げ出す。
 心臓が酷く音を立てているのが分かる。もし男が走ってきたら逃げ切れる自信は無かった。
 一つ目の角を曲がって少し走ったところでは背後を確認し、男が自分の事を見失っていないか確認する。男は角の壁をチェーンソーの刃で削りながら追ってくる。刃が当たっている所からは削られた壁の白い粉が噴出し、煙になって充満していた。
 恐らく、男は僕をじわじわと追い詰めているつもりなのだ。だからこそ、走らずに歩いて追ってくるのだろう。
 二つ目の角を曲がり、その廊下の一番奥に位置する手術室に入る。扉をバン、とわざと音が出る様に閉め、鍵を掛ける。
 チェーンソーの駆動音で男がこの部屋に近付いてきているのが分かる。
 そして、扉の前で男は立ち止まる。ガン、と扉を叩く音がする。鍵が掛かっているので扉はもちろん開かない。
 ほんの少しの間を空けた後、扉の隙間からチェーンソーの刃が飛び出してくる。刃はゆっくりと下がっていく。そして鍵の部分を削りだした。その音は鉄を削っているのと手術室の壁に反射して、爆音と化していた。例えるなら工事現場の中心にいる感じだった。
 鍵の部分を削り終わるとチェーンソーは引き抜かれた。そして、ものすごい勢いで扉が蹴り飛ばされ開く。鍵の削られた部分が僕の真横の壁にぶつかり、音を立てて落ちる。
 扉は上の蝶番が外れかかってしまい、もう閉まる事は無さそうだった。
 そして男は手術室の中に入ってくる。真正面に立っている僕を認識し、もう逃げ場は無いぞ、と言う風に刃を一瞬回転させる。確かに僕に逃げ場は無かった。でも、だからこそよかったのだ。今、男は完全に油断している。恐らく、この部屋に彼女が隠れているとは思いもよらないはずだ。ひょっとしたら、僕が最後の一人と勘違いしている可能性もある。
 僕は下に落ちていた鉄パイプを拾い上げて男に向け、最後の抵抗をする様子を見せる。その時、男が一瞬笑った様に見えた。顔は相変わらず見えなかったのだけれど、そんな風に感じたのだ。
 男は右手をチェーンソーから放し、手招きした。かかってこい、と言う風に。
 僕は男の行動に一瞬戸惑ったが、このままためらって男に彼女の存在を気付かれるのはまずいと考え、下唇をギュッと噛み、死を覚悟した表情で(実際出来ているか分からない)ゆっくりと男に近付く。彼女は出てきていない。タイミングを窺っているようだ。
 男は動かない。僕が攻撃してくるのを待っているようだ。でも、僕はどう攻撃すればいいか決めかねていた。近付きすぎるとチェーンソーの餌食になってしまうし、かといって、遠くの位置から恐る恐る攻撃したら怪しまれてしまいそうだ。
 鉄パイプの端の部分を持ち、槍の様に突けるように持ち方を変える。これならば、チェーンソーの範囲内に入らずに攻撃する事が出来そうだ。
 恐らく、どこを攻撃したとしても弾かれてしまいそうだ。なので弾かれる事を想定して手首目掛けて突く。手首ならばチェーンソーは視界に入っているので反撃に来られても対処しやすい、と思ったからだった。
 ギャリ、と鉄パイプとチェーンソーの刃がぶつかって音を立てる。そしてそのまま弾かれる。
 少しよろけたが、直ぐに体勢を立て直し、男の反撃に備えた。
 だが、反撃は来ない。男は動かず、また手招きする。
 まだ彼女は現れない。
 弾かれた衝撃で手が痺れている。このまま続けたら鉄パイプが持てなくなりそうだ。
 だけど攻撃しない訳にはいかなかった。僕は一瞬足を狙うというフェイントを掛けてから再び手首を狙った。
 けれどもやはり無駄だった。しかも今度は上方向に弾かれてしまい、手から鉄パイプが離れて天井にぶつかり、男の目の前に落ちる。
 僕は焦って、自分の周りを見回す。けれども武器になりそうな物は見当たらない。医療用のメスが二、三本落ちていたが、これでは明らかにリーチが足りなかった。
 と、そのとき視界の端に彼女がちらと見えた。両手には心配蘇生機を持っているのが分かる。音を立てずに気配を消してゆっくりと男の背後に近付いている様だ。男に彼女の存在を知られないよう、僕は彼女の方へ目線を向けないようにする。
 落ちているメスを二本拾い、男の方へ向き直る。
 男はそんな僕の尚も抵抗しようとする振りを見て、少し喜んでいる風だった。彼女の存在には全く気付いていない。
 僕はメスの一本を右手に持ち、投げる準備をした。狙いを定めつつ、彼女が男の背後に完全に近付くのを待った。
 僕は男目掛けてメスを投げる。それとほぼ同時に彼女が出力最大の心配蘇生機を思い切り男の背に押し付けた。
 十万ボルトの電流が男の身体に流れる。男は悲鳴とも奇声ともつかない声を上げた。確かに効いている様だ。でもすぐには倒れず、背後へ向かって思い切りチェーンソーを振り回した。彼女は咄嗟に後ろに飛びのいて避ける。
 それが最後の攻撃で、男は膝を突き、前のめりに倒れた。ガン、とチェーンソーが離れ、床に転がる。僕は急いでチェーンソーを拾い、スイッチを切る。男は痙攣していたが、気絶しているようでしばらくの間は起きてくる気配は無さそうだった。
 彼女が僕の名前を呼んだ。振り向くと、彼女は床に座っていた。横には心肺蘇生機が転がっている。僕は彼女が腰が抜けて座り込んでしまったと思った。でも、そうではなかった。
 僕は彼女の元にしゃがみ込む。すると彼女が左手で首を押さえているのが分かる。良く見ると左手の下からは相当な量の血が流れていて、服の右半分が真紅に染まっている。どうやら男の最後の一撃をかわし切れなかったようだった。運悪い事に、首の頚動脈まで切れているようだった。僕は急いで止血する為の医療器具を探そうと立ち上がる。でも、彼女がそれを止める。
「もういいの」と彼女は言った。死を覚悟しているようだ。
「でも」と言った僕の言葉を遮り、「側にいて欲しいの」と彼女は頼む。
 僕は再び彼女の元にしゃがみ込む。それを見て彼女は「ありがとう」と言って薄く笑う。
 十秒ほどの沈黙の後、彼女が再び声を出す。その声は辛く、苦しそうだった。
 「ねえ、キスしてよ」そういった彼女の目からはあと少しで生気が失われそうだった。
 僕は迷う事無く、彼女を優しく抱き寄せる。
 と言うところで現実に引き戻されてしまった。
 こんなに長く日記を書いてしまった所為で、学校に遅刻する。
 既に一時間目が終わりそうな時間だ。
 追記 あとで調べたら心肺蘇生機ではなく除細動器と言うらしい。