高遠桜 狂イ咲キ 散リ気高ク   水空陽凪



 落つといえども艶やかに、桜並木に降りしきるは桃色の花弁。風に吹き散らされ、あるいは風に乗り、乱舞する桜花びら。行き交う人々の足跡を覆い隠すように、道には隙間なく花弁が敷き詰められていた。
 誰も彼もがその華やかさに目を留め、足を止め、桃源郷というものがあればこのような場所か、と思うに違いない。
 ああ、高遠の桜だ。武田まつは懐かしさに桜を仰いだ。久方振りに帰ってきたにも関わらず記憶と寸分違わぬ、慣れ親しんだ故郷の風景。
 尼装に身を包んだまつの傍ら、はらりはらりと舞い落ちるその花弁を掌におさめようと、幼子の手が伸びた。
「おやめなさい」
 たしなめた声に、童の手は中途でとまる。
「どうして? いっぱいあるのに。せんも一つ欲しい」
 千と自らの名前を舌足らずに呼んだ幼子から、疑問が投げられた。まつはその問いに微笑みとともに答える。
「一つ取れば次は二つ欲しくなります。二つ取れば次は枝を」
「おせんは欲しがりじゃない。まつ様、知ってるでしょ」
 暗に欲張りだと言われたのが不満なのか、少女は柔らかそうな頬を膨らませる。
「では、眺めるだけで良いでしょう?」
「う〜。まつ様」
 唸り声。柔らかな笑みを浮かべるまつに、言いくるめられたのが悔しいらしい。
 膨れっ面の千の頭をなでながら、まつは改めて桜並木を見る。
 本音を言えば眺めるだけでは満足出来ないという千の気持ちは、良く分かる。綺麗なものは手にしたい。欲深くなくともそう思うだろう。
 ただこの桜は、高遠の桜だけは軽々しく触れて欲しくないという想いがまつにはあった。
 今も昔も私は自分勝手だな、とまつは自嘲気味に笑った。
「まつ様、早く行こうよー。お山の上の方がもっと綺麗なんでしょ」
 まつの手が千に引かれる。遠く仰ぎ見れば高遠の山城が見える。様変わりしたが馴染み深いかつての居城に、少しく胸をつまるような思いを感じながら、まつは粉雪のように舞い散る桜の中を再び歩き始めた。
 思い出すのは、あの日の記憶。


 ――戦は嫌い。いつも、いつだって、武田松の大事なものを奪っていく。
「我等織田勢七万に対し、この城には三千もおらぬでしょう。兵数にしておよそ十倍以上。仏に仕える身として、徒に兵を捨てる愚を私はすすめませぬぞ」
「そうか、我等は勝てぬか」
「まあしかし、幸いそちらの姫君は信忠様の元許嫁。なに、降伏していただければ悪いようには致しませぬ」
 欲張りも嫌いだった。父はただ欲しがった。人を、領土を、天下を。そのためにたった一つあった女としての喜びも砕かれた。
「いやはや、貴殿は徳なことを申される。あい分かった、この書状に信盛の意をしたためた。中将殿に渡してくれ」
「…………はて私の目が悪いのでなければ、これには何も書いてありませぬが、高遠城主は気でも狂いましたかな」
「然に非ず」
 ああ、そして。
「織田畜生が言葉を分かるとは思えませぬのでな。貴殿の耳でも白紙の書状に添えれば、意志は十全に伝わりましょう」
「なっ、私に手をかければ仏罰が――」
「地獄の沙汰ならば甘んじて受ける。かく伝えよ、高遠を抜きたくば、この仁科盛信の屍を踏んでいってもらわねば困ると」
 いま、血を分けた兄までも嫌いになった。
 居並ぶ家臣が控える間で、松は織田方の使者として訪れた僧の下卑た顔が一瞬にして曇るのをはっきりと見た。
 耳を削がれる坊主への同情はほんの少しもわいてこない。戦の使者ならば安全だという甘えた思考は、ここまで人を馬鹿にした態度で求めるものではない。仏罰もまた失笑ものだ。毛坊主ごときが語る信仰など犬にでも食わせてやればいい。
 だらしのない袈裟姿。酒に明け暮れているのだろうか、女にうつつをぬかしているのか。おおかた大局が決まった、との安易な考えと織田に積まれた金に目がくらみ使者を引き受けたのだろう。
 そんな人間がいくら目に涙を浮かべ命乞いをしようと、そして今外で絶叫を響かせようと、松の心はわずかばかりも揺らがない。むしろ、早く死んでしまえとさえ願うのだ。
 他人へ抱くこの思いが、決して清らかなものでないのは知っている。人を呪わば穴二つ。松自身も徳人ではなく目の前の坊主と変わらぬ俗物だ。
 それでも、憎まずにはいられない。戦に関わるおよそ全てに憎悪を向けずにはいられない。
 松は、毛坊主が部屋から引っ張り出されるのを見送ってから、軽蔑の視線を上座へとやった。
「兄上は高遠が嫌いでございますか?」
「何故だ、松?」
 兄、仁科盛信は坊主に対していた時の慇懃な様子を崩さず松の方へと視線だけ寄越した。
「皆殺しにされます。兄上のせいで高遠の者は皆殺しにされるのですよ」
「武士の務めとは、暴虐な侵略者から、家と領民を守ることだ。私はそう心得ている」
「戦でなくとも能いましょう。頭を下げ、民を守る道も兄上ならば取れる筈です」
 織田に下れ、という意味を松は言外に込めた。男達はまだ武田が勝てる、と信じているようだが、松には最早武田の敗北は避けられぬように感じていた。
 長篠合戦での大敗より十年、時間は武田を利する方向には働かなかった。領地こそ拡大したものの資金源であった銀山の枯渇、周辺諸国との外交関係は悪化の一途を辿る、と状況は芳しくない。唯一の同盟国である上杉も謙信亡き後の内乱で著しく疲弊し助力は期待出来ない。
 そんな折、織田との国境にある要衝、木曽が寝返る。この機に乗ぜよとばかりに岐阜からは織田の大軍、浜松からは徳川、そして小田原からも北条勢。三方よりの進軍。前代未聞の大軍に豪族達は雪崩を打つように降伏していった。伝え聞く話では義兄である穴山梅雪が恥知らずにも裏切ったと聞く。
 勝てぬ戦。故に名を重んじる武士ならば武田の名跡を残すことをまず第一にせねばなるまい。だというのに、
「それを四郎勝頼も出来るならば、私もそうしよう」
 仁科盛信はあくまで当主であり、兄である武田勝頼の盾であり続けようとする。それが松にはたまらなく悔しく、そして悲しかった。
「兄上は優しすぎます」
「愚かなだけだ」
 そう言った盛信の声は、ただ静かだった。
「ならば私が止めます。質として織田に身を投じれば武田と織田の戦も止められるかもしれません」
 耐えきれず松はそう叫んだ。織田の次期当主である信忠はかつての許嫁だ。停戦の使者としての条件を松は備えていた。だが使者の耳を削いだ今、それがまるで意味のないことは自明であった。それでも松は何かしなければ、と叫ばすにはいられなかった。結局、その声は場に虚しくにしか響かなかった。ようやく松は気付く。家臣達も含め、みな分かっているのだと。
「……分かりませぬ」
 何故そうまでして戦うのか、と言外に込めて松は言った。
「下がれ、松。みなの士気を削ぐ」
 家臣の小山田大学が松の手を取り立たせようとしたが、松はその手をはねのけた。
「分かりませぬ」
 きっ、と盛信を睨みつけ松はもう一度言う。盛信は何も言わなかった。



「ま〜つ〜さ〜ま?。まだ歩くの? 少し休憩しようよ」
 山を登り始めて、先程までは元気だった千が弱音を吐き始めていた。
「さっきは、まだまだ歩ける! と千は言っていましたよ」
 意地悪だなと思いながら千が遅れるまつに言った言葉を教えてやる。
「ち、違うもん。せんはまだ元気だもん。せんはまつ様が疲れたと思ったから休もうって言ったんだよ」
 意地っ張り。慌てる様子を微笑ましく見ながら、まつは休める所がないかとあたりを見回した。
「ありがとう、千。では少し休みましょうか」
 手頃な大きさの木の根を指差すと、元気な筈の千がまつよりも早く腰を下ろした。
「元気なのではなかったのですか?」
「せんは元気だけど、まつ様が休みやすいように先に休んであげたの」
 物は言いようか。可愛い屁理屈に呆れながら木の根に腰掛けたまつは、肩から下げた荷駄袋の中から竹筒を取り出し千に渡す。
「ありがとう」
 千は竹筒を受け取ると、一口二口と中身の水を美味しそうに飲む。
 彼女が住んでいる八王子もまた山が多く山道には慣れている筈だが、獣道にも近いこの山道はきついようだった。
 下草が茂り歩くのには難儀し、蜘蛛の巣が行く先を阻む。敢えて選ぶような道では決してない。
「でもまつ様、この道で合ってるの? あっちのお城がある山の方が登りやすそう」
 千も違和感を感じているらしく、まつに聞く。
「大丈夫よ。てっぺんにはこの道が近道なの。それに私達じゃお城に登ったら怒られてしまうわ」
 まつが武田の姫であった時ならば、直接城に登ることも出来たろうが、今はもう高遠城は徳川氏の城となっている。
 最後にこの場所を通ったのは高遠城が落ちる日の夕刻だった。僅かな供回りだけを従えて、まつは高遠から落ち延びた。夕暮れ、茜色に染まる高遠城を城下にひしめく織田の兵が囲んでいた光景は今も瞼に焼き付いている。
 何れ戻るとは決めていたが、それがまさか自身の私塾の教え子と一緒に来るとは思わなかった。
「ん、せんの顔になにかついてるの?」
 まつの視線に気付いた千が首をかしげる。それに対してなんでもない、と返して、千は、変なまつ様、と笑って言う。
 平和になったのだなと改めて思う。関ヶ原での合戦後天下の実権は徳川が握った。未だ徳川家と豊臣家の間に昵懇は残るが、関東から信州まで幼子を連れて歩ける程に世は平らかになっている。
 それ故にまつは一人では決してこの場所には来れなかっただろう。一人でいたならば泰平を喜ぶ気持ちよりも生き残ってしまったという悔恨が胸に強く残ったに違いない。
 千。彼女の天真爛漫な笑顔にいくらか救われていた。武田滅亡後まつは北条家に保護された。北条氏照の支援もあり、八王子に物書きを教える手習所を作った。千はその教え子の一人であった。
 高遠まで連れてきた理由をまつは上手く説明出来そうにない。ただ彼女が来たいと言って、断る理由もなかったからだ。
「そろそろ行こう」
「もう大丈夫なのですか」
「最初からせんは疲れてないもん」
 意地っ張り。あるいはかつてのまつに似たこの少女に高遠を見せたかったのかもしれない。
 しばらくすれば頂上だ。兄が守ったこの桜は、今まつの目にはどんな風に写るのだろうか。



 物見櫓の上。西からの風にきな臭さが混ざり始めたのを小山田大学は感じていた。
「数は七万もないな。多くて五万か」
 傍らで大学と同じように、織田の陣営を覗く盛信が言う。
「勢いに任せて攻めると思いましたが、中々に分別がある大将のようで」
 聞けば敵大将の織田信忠は、齢二十六。ここまで抵抗らしい抵抗もなかった筈だ。若ければ、このまま押すということを選びそうなものだが。
「残念だな。慌てて攻めてくるならまだやりようはあった」
 口ではそういうものの盛信の表情にははっきりとした安堵があった。松姫を始めとした女達を先程甲府へと逃がしたばかりだ。開戦すれば姫達が戦に巻き込まれるやもしれない、という心配も当然のことと思えた。
「地の理はあります。夜襲というのは如何ですか」
「五万の軍だ、よほど上手くやらねば揉み潰される」
 遠目から見ても陣容が整っているのが伺えた。あれを相手に上手くやれ、とは九朗義経か坂東太郎でもなければ無理だろう。
「残念だな、大学。明日にはこの城は落ちるぞ」
 連戦連勝の規律正しい軍が休息を取り、攻めてくる。その数は味方の十倍以上。
「……打つ手なし。いっそ逃げては如何です」
「大学は逃げないのか?」
「考えませんでした」
「今からでも遅くない」
「盛信様が逃げるというならあるいは」
「そうか、ならば今生の別れは済ませておけ」
 こともなげに盛信は言い切った。幼少の頃より見てきたが、盛信のこの小気味良さが大学は好きだった。
「退かれぬのはやはり大殿のためで?」
「兄のため、というのもあるにはある。館とは孤独なものだとつくづく此度のことで身に沁みた。忠誠等とは口だけだ。故に私だけは、武田に殉じたいと思う」
 忠誠を誓った筈の者達の離反が相次いでいた。だがそれが戦国の習いだ。強きものになびくのが当たり前。むしろ裏切られる方が悪いと言っても良いかもしれない。忠義だてする盛信の方がよほど珍しい。
「だが、もう一つ欲がある」
「欲、ですか」
 欲、とは仁科盛信には似つかわしくない、と大学は眉を寄せて聞き返す。
「そうだ。私はどうやらこの地に惚れているらしい」
「高遠にですか」
「そうだ。織田なんぞに渡してたまるか、という欲の深さが出ている。約束をしたのだ、松と。来年もこの場所で桜を見ようと」
「下っても見えるのでは」
「そうだな。だがつまらぬだろうな。桜を見る度に兄勝頼の顔を思い出すだろう。不粋、ではないか。だから戦おうと決めた」
 笑った。この殿が欲などと言う言葉を使うのが、あまりに似合わなかったからだ。だが、領土に固執する様は武士らしいとも思う。
「成る程。では、なおさらに守らねばなりませんな。大殿のためにも、松様のためにも」
 勝つか、負けるか、ということは既に大学の頭から消えていた。
「大学、すまぬな。付き合ってもらうぞ」
 また笑った。気にするようなことではなかったから笑い飛ばした。盛信もつられたように笑い始めた。

 翌朝未明。
 織田方のけたたましい陣太鼓と喚声を大学は西の方より聞いた。
 五万の軍が動くのを始めて見たが、のっそりと獣のように寄ってくるのだと思っていた。しかし迫り来る織田軍は、まるで堰を切った水が低地に流れ込むように迅速であった。
 始まったか、とのんびりと思う間もなく軍勢は裾野に向かって駆けている。
 必敗の戦。三千いた兵は昨夜の内に逃散し、今や千にも満たない。
 他のものに続いて何故自分は逃げないのか。自らに問うことすらしなかった疑問。答えがあまりに自明であったからだ。
「みな、付き合ってもらうぞ。生を惜しむな、名を惜しめ!」
 仁科盛信の声が、高遠の地に響く。身体中に流れる血が徐々に熱くなっているのを大学は感じていた。



 ――桜がみたい。来年もまたこの高遠の桜を兄様と共に。
 怒号と悲鳴が作る喧噪の中、仁科盛信の頭の中にあったのは一つの約束。
 戦が始まり二時余りは経っただろうか。腕は鉛のように、刀は血油で鈍く赤黒い光を反射する。何人斬り伏せたか。味方は何人斬られたのか。二の丸は既に落ちている。盛信が守る虎口はまだ破られていない。だが、背後の本丸では火の手が見える。搦め手から押されたか。多くの者が織田に降ったのだ、この城の構造など既に敵の知る所だろう。じきここも破られよう。
 体が重い。自分はまだ生きているのか。彼か我のかも分からぬおびただしい体液は体に重くまとわりつき、盛信の体力を奪い続ける。
 臓腑と漏れ出す内容物の悪臭に鼻は既にして利かず、耳は聾し、視界も霞み始めている。
 それでも、なお、確と思い出せる約束。愛する妹と桜吹雪の中交わした約束。
 次の春もまたこの場所で、と。最早叶うまい。意識が遠くなるなかで悲しいことに、それだけははっきりと分かる。
 未練も後悔もない。
 そう言い切れたならば、どれだけ幸せだっただろうか。残していくものが、自分のせいで散っていた命が、あまりに多過ぎる。
 眼前の兵の一人を斬った。首に喰らいついた刀は、中途で止まった。引き抜くにしても、力が入らない。  仕方なく落ちていた槍を拾い、新手に向かい槍を突き出した。
 勝てもしない戦。無数にわいてくる敵を前にしてあらためて感じる。無謀、ただ武田の誇りのためだけに貫き通した。
「……すまない」
 今更になってそんな言葉が口から漏れた。松の言葉が、降伏が最善だったとは思わない。兄勝頼を裏切ってまで守りたいと思うものはなかったから。
 だが、叶うならば、守り抜きたかった。この高遠の地も。兄と高遠、秤にかけるのではなく両方選べたならばどれだけ幸せだっただろうか。
「武田の猛者達よ、怯むな立ち向かえ!」
 大学が激を飛ばす。右手に矢を受けそれでも残る片手で太刀を握り奮戦する大学の姿が、残り僅かな将兵達を鼓舞する。
 終わり、か。人が見れば愚かだと言われかねない戦だ。ただ意地を張り通し、そして死ぬのだから。
 だが、この戦いに決して意味がなかったとは思わない。松はきっと理解してくれないだろうが、武田の武を示して逝けるのだ。これ以上の喜びはない。
「大学、供をしろ」
「何処まで行きましょうか」
「黄泉路まで、だ」
 駆けた。命を燃やしている、そんな気の発し方だった。そして敵中で我武者羅に武器を振るった。  大学が槍に突かれ倒れていくのを見た。足は止めなかった。
「手前ども、ご観覧あれ! これが高遠の桜に候!」
 高遠の桜が如く狂い咲き、散るに際してなお気高く。そう後世に伝えられるよう、盛信は吼えた。

 その日鮮やかな赤い桜が、高遠の城で散った。



「……着いた。着いたよ、せんがてっぺん一番乗り」
 頂上から千の声が聞こえる。後少し、と言うとまつを残して駆け出してしまったのだ。千の声に急かされながら、まつは一歩一歩を踏みしめる。自分も年か、と痛み始めた腰をおさえながら痛感する。
 しばらくしてやかましい位騒いでいた声が途絶える。何かあったのか、とまつは訝しんだが、頂上に着いて千を見つけるとすぐに得心が言った。
 眼下に海のように広がる桃色の桜。高遠の街並みは波の間から時々顔を覗かせる、どうやらそれに圧倒されているようだった。
「どう? ここはね、私の家族しか知らない秘密の場所なの」
 まつが語りかけるが、千は眼にこの光景を焼き付けるように言葉もなく麓の桜に見入っていた。
 本当に自分に似ている。まつも初めてこの場所に連れて来られた時は同じ反応をしたものだ。
「ねえ、まつ様」
「なあに」
「すごいね」
 ようやく口を開いた千が言ったのはそれだけだった。それ以外に言葉が見つからないという風でもあった。
 確かにすごいのだ、高遠の桜は。魔なるものがあるとまつは思う。
 高遠城落城の前年に兄と交わした約束は叶わなかった。この場所に来れば兄がひょっこりと顔を出すのではと甘い考えもあったのだが、やはりあの日高遠で兄は死んだのだとまつは改めて痛感する。
 誇りというものがまつにはよく分からなかった。戦をするのに必要なもの、統治をするのに必要なもの。兄を殺したもの。
「ここも昔、戦があったの」
 やる方ない、憤りとも悲しみともつかない感情をまつが持て余している中で、千がふと疑問を口にした。 「どうしてそう思うの」
「せんの住んでる八王子はきれいでしょ」
「ええ、素敵な場所ね」
「八王子も昔、戦いがあったんだって。せんの産まれる前。ここはもっと綺麗な場所だから、そんな気がしたの」
 上手く言い表せないようで千は困ったように首を傾げている。何故戦が起きるのか、そんなものはまつにも分からない。だがまつは、その千の疑問に、何か自身が抱える疑問を解きほどく糸口があるような気がして問いかけた。
「千は戦は嫌い?」
「よくわかんない。でもここで戦った人がいるからあの桜があるんでしょ」
「どうしてそう思うのです」
「だってせんが欲しがったように、みんなあの桜を欲しがるでしょ。そしたら誰かが守らなきゃ、なくなっちゃうから」
 しばし固まり、そしてまつは笑った。人がいるから、争いはおこる。だが人がいるからこそ、この桜の花も咲き誇れるのかもしれない。
 戦が正しいとはまつは決して思わない。だが、あの日織田に降伏していたならば、まつの目にこの桜は桃源郷もかくやと鮮やかには映らなかっただろう。
 仁科盛信が誇りを貫き通したからこそ、高遠の桜は気高く咲き誇っている。
 ようやくになって悟る、もしあの時降伏していたならば、仁科盛信と共に桜を見ることは出来ただろう。だが、出来なかったのだ、仁科盛信は、武田勝頼を裏切ることを。そして、仮に降伏したならばまつはそんな仁科盛信と桜を見ることは肯んぜない。
 これが最も良かった道だったのだろう。かくあったからこそまつは仁科盛信を慕っていたのだ。
「まつ様、哀しいの?」
 目元に手をあて濡れていることに気付く。知らずのうちに涙が流れていたようだ。
「違うのです、悲しくなくとも涙が出る時があるのですよ」
 せんはきょとんと首を傾げた。
「いつか、せんにも分かる日がきます」
 戦は嫌い。それは今も昔も変わらない。
 それでも、兄が守ろうとしたこの桜は言いようもなく美しかった。