昇心旅行   軟太郎



 トリップという言葉がある。感覚的に言うと、向精神薬で頭がすっきりして、脳の大事な部分から普段はあまり出ない大事な成分があふれ出てきて、脳みそをぐちゃぐちゃにしたあげく、全能感を感じるようになって精神の大事なタガが外れる状態の事である。他にはイクとかイキッパとか言うらしい。バッドトリップとか言うたちが悪いイキ方もあるらしい。
 今の私に必要なのはそのトリップがもたらす感覚だ。別にならないと死ぬとか言う話ではないが、薬がないと重くてしかたがない。サガってサガって、気力をなくして、自己卑下が止まらなくなってしまう。
 昨日の朝飲んだ薬の効きが良くなくて、案の定夜は眠れず、気づけば涙を流していた。しかも、別段理由も無く泣き始める自分が情けなくて、さらに涙が止まらないという悪循環だ。
 リタリンが欲しい。ルーランは駄目だ、あれは使っている感じがしない。効きはするけれど。
 病院の先生がくれる分だけでも私の精神にとっては適量ではあるが、基本ダウナー系が入っている私が少量だけ薬を服用したところで、劇的な向精神効果は期待できない。
 でも、ちょっと多めに薬を使う、それだけで、私はトリップする事ができる。そして、トリップは私に強さをくれる。自分の足で立ち上がり、人と関わろうとする勇気を与えてくれる。
 もし薬が無ければ、私は無気力で、何も出来ない人間でいるしかない。
「黒田さん、どうしたの? 体調悪そうだけど」と、突然隣の席の鎌田君が話しかけてきた。彼はなんか明るくて爽やかな好青年ぽい人だ。彼の声で、私はまだ自分が学校にいる事を思い出した。
「なんか、ひどい顔してる」と、鎌田君は顔を向けてくる。彼の目を直視できなくて、窓へと視線をそらした。
「別に、平気だから」と、手を振ってあしらう。正直かまって欲しくなかった。今の状態で他人と会話するのは、辛い。まるで会話によって相手の正常さと自分の不出来具合を比べられているような気がして、腹が立っていくからだ。薬が欲しい。薬さえあれば、アメリカのホームコメディばりの皮肉のきいた台詞を言える気がする。おいおい鎌田、ひどいのはお前のそのフジツボが根を張ったようなニキビ面だって同じだろ? なんか違うな。
「本当に? 保健室行ったほうがいいんじゃない? なんなら俺委員だから連れて行くけど」なぜか、鎌田君は食い下がってくる。
「黙れよ」
「え、なに?」
「なんでもないから」席を立つ。「早退するから、先生に言っておいて」と言い残して、カバンの紐を手に取った。
 しかし、カバンが空いていたのか、片方の紐だけ吊り上げられたバックは横に傾き、中身が零れ落ちていく。中から出てきたのは、乱雑につめこまれていた薬の数々。まるで雨が降るみたいに、ばらばらと床に降り注いでいった。クラスメイトの何人かが振り返り、床に散らばった薬を見て、怪訝な顔を見せる。なんであんなに薬もってるんだコイツ、という表情だ。
 私が呆然としていると、鎌田君が薬を拾い始めた。
「あ、ごめん」と私も慌てて加わる。
「いいよ」という鎌田君の言葉に対して、ありがとう、と返せる余裕もなかった。私の頭の中には、もし、今落ちた薬がどんなものでどんな症状の人に渡されるものなのか、それをクラスメイトに知られた時の恐怖がぐるぐると渦巻いていた。いままでのような無関心だったらまだマシだ。好意はないが、悪意も抱かれはしない。
 だげど、一度でも異常者のレッテルを貼られてしまえば、私を見る視線の質が変わってしまえば、もう私は正気を保てないだろう。
 私の病気は、精神の振れ幅が大きくなりすぎてしまうものだ。たとえ、相手が何も考えていなくても、その時々の精神状態によって私は相手から向けられる感情を全力で拡大解釈してしまう。それが譫妄だとわかっていても、私は止まらなくなる。
「大丈夫だよ」と、すぐそばで鎌田君の声がした。
「え、何が?」ふとわれに返る。
「フルニトラゼパムとか、ルーランとか普通、知らないから」と、鎌田君は囁くようにいった。
 私は驚いて鎌田君の顔をまじまじと見つめる。ニキビ面が目に付く。彼の体を上から下まで眺める。腕もボツボツとしていた。同類、という言葉が頭に浮かぶ。

 鎌田君は空き教室に私を連れてきた。彼は適当な椅子に座ると、ゆらゆらと体を揺らして会話を始める。
「同じやつ使ってるから、すぐにわかったよ」と、笑いかけてきた。「俺も薬もらってるけど、あんまり使わないようにしてるんだよね。怖いからさ」
「怖い?」
「薬を使うとさ、今までの自分はどこかにいっちまって、新しい自分が生まれてくる感覚がするんだよね。もちろん気のせいなんだろうけど、それを何度も続けているうちに、古い、元の自分は消えてしまうんじゃないかって思うんだ。治療だなんだと薬を使って、結局元の自分が残らないなら、そんなの意味ないだろ」そう言って、薬を私に差し出す。「使いなよ」
 黙って受け取る。だって、使わないのだから、いいのだろう。思わぬところで手に入れた薬を目の前に、私の期待感は高まるばかりだ。「飲んでいい?」と、つい口に出してしまう。
「もちろん」と、鎌田君は笑顔で言った。
 私も微笑を返し、水も使わずに薬を飲み込んだ。
「でも、しばらくは薬の効き目が出ないから、それまで辛いや」私はそう言って鎌田君の顔を見た。
 鎌田君の顔に一瞬だけ喜色がよぎる。「じゃあ、それまでの間に、使えるいいものがあるんだけど」
 そらきた、と思った。彼の腕をもう一度見る。鎌田君の腕には、血管のラインに沿ったように薄く注射痕が見えていた。よく見ないとぼつぼつと見間違えるような代物だ。鎌田君は麻薬常用者に違いない。
 鎌田君は持ってきていた鞄から、注射器と袋に入った白い粉を取り出した。まさに、これから麻薬使うぜ、みたいな一式だ。
「鎌田君、薬は使わないんじゃ」
「これは覚醒剤さ。薬なんかとは違う。こいつを使っている時、俺は新しく生まれ変わるんだ。もう一段高いところに導かれて、それまでの自分を見下ろす事ができる。くだらない劣等感なんかもう目に入らないんだ。」
 私には彼の言っている事が理解できない。きっと彼は麻薬を使うことを正当化するために、そんな事を思いついたのだろう。
「黒田さんは、今までこういうのしたことある?」
「ない」
「カプセルに入った薬なんかと違って、これは注射で流し込むから、効きの速さが全然違うんだ。もうほんと段違いだよ。あ、でも黒田さんは初めてだから今度はコカインとかでもいいかもね」
「ふうん」
 鎌田君はさらに新しい粉末状のものを出す。だんだんと彼の目が怪しい光を帯びていく。
「学校で、するの?」
「少しだけさ。支障ないよ。黒田さんもやりなよ」と、彼は腕を縛るゴムを取りだし、自分と私の腕に取り付けた。注射も渡される。鎌田君は、私が拒否する場合をまったく想定していないようだ。
「じゃあ、いっせいのでしようよ。あと、やってる時の顔見られたくないから、目をつぶってもらえる?」私は条件を加えた。
「わかった」
 鎌田君が肌に針を当ててから、目をつぶる。私も、注射を構える。
「じゃあ、いくよ」
「うん」
 いっせえの、の声と共に鎌田君の注射が針を進め、薬を押し出していった。彼の唇はこれから始まる悦楽を期待してだらしなく緩んでいる。
 私はそれを見届けてから、自分の手にある注射を鎌田君に突き立てた。
え、と鎌田君は目を開け、間抜けな声を出す。目の前の光景が理解できなかったみたいで、え、なにやってんの、黒田さん、と困惑したようにかすれた声を漏らした。
「動かないで」と、私は囁きかける。そしてゆっくりと中のものを押し出していく。「針が刺さって危ないから」と、笑顔も忘れない。「覚醒剤とかってさ、一度に過剰に取るとヤバイっていうよね。鎌田君がどうなるか、すごい楽しみ」
「何考えてんだよお前、絶対頭おかしいだろ」  鎌田君の目は恐怖と不安で見開かれて、カマキリみたいだ。「あ、やばい、これはもう悪いほうだ」とえずき始める。椅子から崩れ落ち、何かから逃れように体を折り曲げて悶え始めた。
「バッドトリップ? きたの?」
「お前が変に煽るからだよ。最悪だ」
 見るからに鎌田君の顔は青ざめ、動悸が荒くなっていく。犬みたいに、舌が口の中心でぐったりとしていた。しきりに瞼が開閉して、充血した目が今にも飛びだそうとするかのように、膨らんでいる。そして彼はすがる様な目線をよこしたかと思うと、奇妙にのどを膨らませ、黄土色のものを吐き出した。てらてらと光った吐瀉物は、口を伝い糸を引き、床に零れ落ちる。彼を高いところに引っ張ってくるはずのものによって、彼は地に這わせられて、胃の中身を撒き散らして醜態を晒している。
「ねえ、どうしてこんな事をしたかわかる?」私は問いかけるが、答える声はない。
 どうやら、昨日飲んだ薬がようやく効き始めてきたようだ。自分でも声が上ずっているのがわかる。
「私ね、思うんだけど、心って宇宙なんだよね。目に付くのは例えば星のような明るい所だけど、本当は、そのほとんどが闇なんだ。でも一見、黒くて不要のものに見えるんだけど、それがなければ宇宙という広大な空間は完成されない。心も同じで、濁って腐って直視できない部分でも、それを無視してたら心は満ちることがない。わかるかな? つまり、鎌田君は薬の使い方間違えてるんだよね。薬は快楽のための道具じゃない。救いなんだよ。心を強くしてくれるの。新しい自分なんて生み出せない。薬はただ、普段の私じゃ到底出来そうに無い事を肩代わりしてくれるんだ。トリップってそういうものだよ」
 鎌田君は目をつぶっている。もしかしたら、気絶しているのかもしれない。
 教室から出る。ドアが閉まる間際、最後に見えたのは、杭みたいに鎌田君の腕に刺さったままの注射器だった。