写真の男   丘一計



  これを読んでいる者に宛てる。
  この文が人の手に渡ったということは、私は既にこの世にはいまい。不気味な書き出しで申し訳ないが、どうか最後まで付き合っていただきたい。おそらく、私この奇妙な体験は、私以外の者にとってはなかなかに興味深く、怪奇小説のような娯楽に思えるだろう。私は、私の手記が、どこかで荒唐無稽な作り話として消費されることを切に願う。
  私はここに最低限の事実しか記せない。私が消え去るまで、もう時間が残っていないからである。
  それがいつ起こったのか。そもそも最初からそうであったのか、私にはわからないし、最早その真相を知ったところでさして意味はない。ただ、それが私の「存在」という、確固たるものに見えて実は曖昧で脆弱な概念を粉砕していった、という事実だけがここでは意味を持つ。
  ある時、私の勤めていた会社で、集合写真を撮った。たしか会社の宣伝用だった。広報担当だった私は、現像された写真を確認していた。そこで奇妙なことに気が付いた。
  私が何処にも写っていない。
  同僚に確認したところ、怪訝な顔で一人の男を指した。肌は浅黒く、見るからに壮健な男。白い歯を見せて笑っている。私はその男を全く知らなかった。同僚は若干、気味悪がりつつも、私の過労を指摘した。
  私は鏡を見た。いつもどおりに、私の顔が映っていた。再び写真を見る。自分とは全く異なる顔が、無機質な笑みを浮かべている……。写真と実際が別人のようになることは間々ある。が、これは全くの別人、といってよかった。
  自分の顔の形状は、触れただけでは判断し難い。しかし、丸顔の私と写真の男のえらの張った健康そうなそれでは、歴然とした差異が確認できるだろう。私は必死に顔面の形状を確かめた。
  それは、鏡に映る顔に由来するものでない、ごつごつした手触りだった。

  その日から、まるで質量を持ったような不安と恐怖が私を襲った。鏡に映る自分と他人から見た自分。どちらが本物なのか……。少なくとも私が私だと認識している存在の輪郭は間違いなく侵食されている……。私は今までの自分が映っている写真を全て調べた。
  あの男が写っていた。
  私は恐怖のあまり写真を全て焼き払った。

  異変が起こってからしばらく、私は鏡を見ていなかった。そのため、そこで起こっていた変化に気が付かなかった。
    その始まりは、些細だった。鏡の中の自分がまるで、微笑んでいるように見え始めたのである。その表情はまるで一切の不安から開放されたような安らかなもので、当時の私からは決して表出しないはずのものであった。それは私の心により一層の不安を注ぎ込んだ。私は、周りの全ての鏡をガムテープで覆い隠し、カーテンも締め切り、家から出なくなった。外には鏡の役割を果たすものが多すぎたからだ。
 
  しかし……。そんな生活が長く続くはずがない。私は耐えられなくなり、一連の状況が生んだ狂気から鏡の封印を解いたのだった。いや……既にその時、私の行動は我が存在を喰い尽くさんとする何者かによって支配されていたのかもしれない。
  しつこく絡みつくテープが作業を妨害した(それは私の最後の自制心の象徴だったのかもしれない)。震える手で慎重に除去していく……。それは明白な禁忌だった。
  ついに見えた鏡面は、薄暗い室内をバックに、私の顔だったモノを映し出した。
  私の顔は……まるで潰れた粘土細工のように、ぐにゃり、とねじれていた。それは昆虫の脱皮を髣髴させた。口元から変形が始まっているところを見ると、恐らくあの微笑は歪曲の兆候だったのだろう。

  繰り返すが、私はもう既にこの世にはいない。かつて私だった者が、恐らくは無機質な笑みを浮かべながら、どこかで生きているのだろう。
  どうやら間に合ったようだ。ここまで付き合ってくれたことに、心からの謝意を……。
                                             19××  三田  平二