想鎖    葛葉



 雨の降りしきる道をとぼとぼと歩く。のどを潤そうと覗き込んだ水たまりには、どんよりと濁った空と、泥だらけの、いかにも貧相な姿が映った。
 体中がぎしぎしと悲鳴をあげ、今にも意識がとぎれそうな時だった。
「あれ、猫だ……って、ちょっと!」
 焦ったような声を最後に、世界が完全に闇に呑まれた。

 夢を見ていた。……いや、これは過去(げんじつ)だ。
「あーあ、また汚して! ったく、小さい頃は可愛かったのにぃ」
「はぁ~……。もういいや、お前いらない」
――うるさい
「あ、野良猫じゃん。ずいぶん汚いなぁ……」
「つか、こいつ不細工じゃね? 三毛猫とかダサいし!」
――うるさいっ
「おい、猫。なんか芸やってみろよ」
「へへ、ほぅらおいで――っつ、引っ掻きやがった! このクソ猫!」
 自分を取り巻く声、声、声。それらが頭の中で反響して吐き気がする。
 ――人間なんか、人間なんかっ!

 かたり、と音がしてすぐそばに気配を感じた。
 うっすらと目を開けるとそこには見知らぬ男がいた。
「あ、気がついた?」
 驚いて飛び起き、部屋の隅へ逃げる。あちこちが痛かったけど、そんなことはどうでもいい。
(だ、だれだ? ここは⁉)
「ああ! だめだよ、体中怪我してるんだから安静にしないと」
 そういいながらそいつは手をのばしてきた。身体中の毛が逆立つ。
(近づくな!)
「ぁ痛っ!」
反射的にその手を引っ掻いてしまった。思わず身をすくめる。
(っ、殴られる……!)
 しかし、いつまで経っても衝撃はこなかった。不思議に思ってそろそろと見上げると、困ったように微笑む顔があった。
訳がわからない。どうして。人間はすぐ暴力を振るう生き物なのに。
「う~ん。警戒するのもわかるけど、僕は酷いことは何もしないよ?」
 今度はさっきよりもゆっくりと手がのびてきた。それを凝視しながら固まっていると、そっと抱き上げられた。
「あ、君の瞳ってすごく綺麗な色だね。体も今は汚れているけど、洗ったら毛並もよさそうだし……実は美人さん?」
 ……変なことをいう人間だ。綺麗だなんて、そんなわけがないじゃないか。
「名前も決めないとね。……よし、碧音(あおね)にしよう!」
 綺麗な瞳をもつ君にぴったりだ、とそいつは笑う。
「あ、僕の名前は佳乃(よしの)だよ。よーしーの」
「……にゃあ」
 やっぱり、変なやつだ。
 それからはいつも佳乃と一緒だった。佳乃は作家をしていて、いつも家にいる。佳乃が仕事をしている時は隣や膝の上で丸まって昼寝をする。仕事がない日も、佳乃が読書をする隣で毛繕いしたり、時には愚痴を聞いたりした。少し大きめな和風の屋敷。縁側からは小さな日本庭園が見える。日差しがちょうどいいくらいに柔らかく当たったそこで、一緒に日向ぼっこをしたりもした。
 でも、佳乃が外に出かける時は独りで留守番していた。佳乃は来てもいいというけれど、まだ、佳乃以外の人間に会うのはいやだった。そんなぼくに、佳乃はあるものを買ってきた。
「碧音~。はい、プレゼント」
首元でちりん、と涼やかな音が鳴る。
 それは細くて赤いベルトに小さな鈴がついた首輪だった。
「これは碧音が僕の家族っていう印になるんだ。外に出ても誰にも手出しはさせない。僕はずっと碧音と一緒にいるよ」
 〝ずっと一緒〟。それはぼくがずっと欲しかったもので、もうとっくにあきらめていたものだった。佳乃はぼくが本当に欲しいものをくれる。
「にゃあん」
 それが嬉しくて、一言鳴いて佳乃にすり寄った。
 そうすると佳乃はぼくをそっと抱き上げて、ぎゅ、としてくれるのだ。
 しっぽをゆったりと振りながら佳乃の頬をぺろりと舐める。
「ん~、やっぱり碧音は可愛いなぁ!」
 ……普段は物静かな佳乃のテンションも急上昇だ。
 これが幸せ、ってやつなのかな。心がぽかぽかして、すごくいい気持ち。

 なのに、佳乃が、死んだ。病死だった。
 目の前には布団に横たわった佳乃の身体がある。いつも優しく自分を撫でてくれた手は冷たく、ぴくりとも動かない。
「にゃあん……」
 すり、と手に頭を押しつけて佳乃、と鳴いてみる。
 呼びかけに応える声はない。外で騒いでいる蝉の声が遠くに聞こえ、佳乃と自分がいるこの薄暗い和室だけが、まるで世界から切り取られたみたいだ。
(ずっと一緒、っていったのに……!)
 佳乃が、いない。
「にゃおん」
 ぽた、と瞳から落ちた雫が佳乃の目縁をたどって流れた。
 だんだんと身体が日の光に溶け込むように透けていき、落ちた赤い首輪がちりん、と鳴った。
『やっぱり、人間は信用できない』
 そう昏(くら)くつぶやいた碧音の背中で、しっぽが二本、ゆらりと揺れた。


 碧音は山の中腹にある大木の上で昼寝をしていた。
 生い茂る枝葉によって影がつくられ、柔らかな風がそよぐお気に入りの場所だ。
 気持ちよく惰眠を貪っていた碧音の耳がぴくりと動いた。
『……なにか用か、クロ』
 邪魔しおって、と内心毒づきながら目を開けると、思った通りの姿があった。
 漆黒の髪と瞳に、大きな翼。俗にいう烏天狗、というやつだ。時々こうやってふらりと碧音のもとを訪れてはまたいなくなる、謎な存在だ。
『おいおい、久々に会う友に向かってそのいい方はないだろうよ』
 傷つく、といいながらこいつはにやにやしている。
『ふん、お前が勝手につきまとっているだけだろうが』
『そういいながら、構ってくれる存在に飢えてるくせに』
『戯言を……。烏天狗様は余程時間を持て余していらっしゃるようにお見受けするが』
『くく、そうおっしゃる猫又様はお昼寝にお忙しいようで……』
 厭味と厭味の応酬。クロは至極楽しそうだが、面倒くさいことこの上ない。
『茶番はそのくらいにして。お前、また山神様からの拝命を断ったそうだな』
 まったく、一体どこからその話を……。
 妖(あやかし)になると、それまでの名を捨てて神族に新たに名を授かるのが通例である。そうすることで妖として神族の庇護を受け、在ることができる。要は、身分証明のようなものだ。
 しかし、碧音はずっとそれを拒み続けている。
『まだその名が捨てられないのか。人間に嫌気が差したのだろう? そういってずっとこの山に引き籠っているじゃないか』
『そのことは関係ない!』
『嘘だな。その名は妖になる前に人間からもらったものだろ。人間が嫌いというのなら、そいつのことはもう忘れるんだな』
 淡々と正論を述べるクロに反論ができない。
『お前はすでに妖としての生を歩んでいるんだ。理に従え』
 クロはそういい残すと飛び立って行った。
 本当はわかっているはずなのだ。自分がなぜ、拝命を断わり続けているのか。だからこそ、クロの言葉は胸に深く突き刺さった。
『……佳乃が死んでから、もうすぐ一五〇年か』
 もうあの嘘つきな裏切り者のことなんか考えたくもないはずなのに、その姿が、声が、脳裏に焼きついて離れない。
 ため息を吐いて気分転換に散歩でもしようと枝から飛び降りた。
 落ち葉を踏みしめながら木々の間を歩く。ふっくらと豊かな土壌は常に水分を含み、山の植物は青々と茂る。木々がのばした枝葉の隙間から差し込む太陽の温かな光は、何本もの輝く柱のようだ。山神の庇護を受けるここは神気が満ちあふれていて、清らかな雰囲気をまとう光景はどこか別世界に迷い込んだような錯覚を覚えさせる。
 しばらく歩くと泉に行き着いた。
 青く澄んだ水は冷たく、それでいて飲む者を優しく癒す力を持っている。
『……人間は嫌いだ。でも、名を捨ててしまうのも、やっぱりいやなんだ』
 嫌いなら完全に繋がりを絶ってしまえばいい。それに妖になったからには、そうすべきなのだ。自分でも何度そう思ったことか。でもその度に心の中の何かが、引き留める。
 気分転換のつもりが、つい鬱々と考え込んでしまう。
 じっと俯いて物思いに沈む碧音の耳に、がさがさと植物をかき分ける音が聞こえてきた。
「あ! 綺麗な泉はっけ~んっ」
 生い茂る緑の中から姿を現したのは、人間の少年だった。
『な、なぜ人間がここに……』
 呆然と固まる碧音。ふと、少年が碧音の方を見た。
「あ。猫だ! ……こんな山奥に?」
『⁉』
 ありえない! この姿はもう人間に見えることはないというのに。
「あれ、しっぽが二本ある……」
 近づいてこようとしていた少年が、普通の猫ではありえない碧音の姿に気づいて立ち止まる。その表情に恐怖や嫌悪といった感情が見えないことに、碧音はほっとする。
(……なぜ?)
 自分の感情がわからなくて考え込む碧音の前に、いつの間にか少年がいた。
 はっとして警戒する。
『お前、何者だ。ただの人間ではないだろう』
「えーと、俺は普通に人間だけど。……君は猫又ってやつ? すごい、初めて本物見たよ!」
 碧音の問いに少年は一瞬きょとん、とした後、きらきらと興奮した目で碧音を凝視する。
 その視線を居心地悪く感じながら反論する。二本のしっぽが丸まり気味なのはご愛嬌だ。
『徒人に妖が見えるものか!』
「といわれても、普通に見えてるし。俺は霊感? が強いらしくて、よくあるんだよね」
 まぁ、見えるだけだけどね、と少年は笑う。
「ねぇねぇ、君の名前は? 俺は悠真(ゆうま)っていうんだ」
 そういいながら少年――悠真は手を伸ばしてくる。
 その光景が、いつかのそれとダブる。
『……っ、ぼくは人間なんかとは馴れ合わない!』
 そういい捨てると、碧音は悠真に背を向けて走り去った。

『はぁ~。憂鬱だ……』
 あの人間に会ってから、ずっと胸にしこりが残っている。最近、それに呼応するかのように昔の夢を見るのだ。自分の中の何かを呼び覚まそうとするように、何度も、何度も。
『死ぬことはなくとも、妖だって不眠はキツイわ……』
 目の前をつがいの小鳥が飛んで行く。自分がどんな状態であろうとも、世界は変わらず夏の陽差しを浴びて輝いている。
『はあぁ~……』
 またまた特大級のため息が出る。例の迷信が事実なら、自分は今間違いなく不幸のどん底にいることだろう。
『あら? こんなところに陰気な子猫が』
 不意にバカにしたような声が聞こえてきた。……ため息云々のアレ、当たっているのかもしれない。
 うんざりと声の主の方へ目を向ければ、艶やかな黒毛をもつ猫がいた。しっぽは、三本。その後ろには何匹もの取り巻きを従えている。
『いやだねぇ~。こんなにいい天気だっていうのに、ここだけ空気が重いじゃないか』
『おっしゃる通りでございます』
『のの様、あやつめはまたも山神様からのご拝命を拒んだらしいですよ!』
『なんと図々しい』
 のの様、と呼ばれる黒猫に同調するように後ろの猫たちも騒ぐ。その中の一匹が暴露した碧音の所業に、ののがすごい形相で牙をむいた。
『あんた、何を考えているんだい⁉ 貧相な三毛猫ごときが生意気な! 拝命は私たちの掟。理に従わないやつは山から出て行きな!』  ののはいつも厭味しかいわないが、今回ばかりは的を射ている。神族から拝命を受けないのは根なし草のように特定の場所に居座らない妖か、烏天狗や九尾狐を筆頭とする神族に準ずる妖だけだ。本来ならば、碧音はとっくに山を追い出されている存在。そうされないのは山神様の心が寛大なのと、さりげなく護ってくれるクロのおかげだ。本人は絶対口に出さないが、本心から碧音のことを心配してくれているのだ。
『落ち着いてください、のの様』
『そうですよ。あの者ごときにのの様がお心を乱すことはありません』
『早く出て行けばいいのに』
『とはいっても、神族の庇護がない場所にはいられないだろうが』
 くすくす、といやな笑い声が響く。
 山に来る前、傍を通っただけで怯え威嚇してきた犬や猫を思い出す。一五〇年前のあの日から、碧音は普通の猫としては生きられなくなった。しかし、それを嘆いたことはない。人間界から離れたい碧音にとって、その必要がなくなったことは願ってもないことだったのだ。
さて、どうしたものか。これ以上ののたちの厭味を聞き続けるのは願い下げだ。どこか別の場所へ行こうと木から飛び降りる。
『どこへ行くんだい』
『別に』
『のの様、あの負け猫のことなど放っておきましょう』
自分が去ってからも後ろから聞こえてくる声に辟易する。落ち着く場所がいいと思考をめぐらせ、ふと、あの泉に行きたいと思った。あの日以来、一度もその場所へは近寄らなかったのに……。

泉は相変わらず青く澄んだ水を湛えていた。夏の陽射しを反射して眩しいほどに輝く泉のまわりは、その水のおかげか涼しい。ぐるりと周囲を見渡せば、居心地のよさそうな木陰がいくつかできていた。
(誰もいないな……)
 ほっ、と息を吐いた後、慌てて我に返る。
今、自分は何を考えた? 無意識に、あの人間がいないか確認していた。ここは麓からは結構距離のある山奥だ。そうそう人間が入り込んでくるような場所ではない。なのに、なぜ。
『ぐぁー、やめやめ! 寝よう。睡眠不足だから変に考え込むんだ』
 手頃な木陰を選んで横になる。たまに吹く柔らかな風が枝葉をさわさわと揺らす。優しい音に包まれながら、碧音は訪れた睡魔にそっと身をゆだねた。

 ふわり。誰かが優しく身体を撫でている。すごく温かくて、優しい手だ。
――この感覚、ぼく、知ってる
 さわり、また手が触れた。
――すごく気持ちいい。この手は、
『佳乃……?』
 碧音はそっと目を開けた。きらきらとした光が眩しい。何度か瞬きをすれば、視界に青い泉が入ってきた。
寝惚けてて状況が掴めない。ののが来て、うるさいから泉に逃げて、それで……。
「起きた? おはよう」
 突然隣から声が聞こえて飛び上がる。急いで振り返ると、そこにはいつかの人間がいた。
『お、まえ……』
 言葉を失う碧音に悠真は笑いかける。
「また会えたね。君と会うのは二回目だよね、あまりここには来ないの?」
 悠真の言葉に碧音は眉をひそめた。こいつはあれから何度も来てるのか?
『……別に。気分次第だ』
「ふぅん。……あ、あと名前教えてよ。君だけ知ってるなんて不公平でしょ」
『碧音だ。様をつけて呼びやがれ』
 馬鹿正直に答えてから内心頭を抱える。
(なに人間なんかに名乗ってんだ……)
「へぇ~。いい名前だね。瞳の色にぴったりじゃん」 『っ⁉』
 今、この人間はなんといったか。
 ――君の瞳ってすごく綺麗な色だね
「碧音って三毛猫だよね。本人前にしていうことじゃないけど、僕、好きなんだ~」
 そういいつつ首のあたりを撫でてくる。温かい、手。夢じゃなかった。
(なん、で、こいつは……)
 あまりにあの人を思い起こさせる悠真が、怖い、と思った。
 固まってじっとしている碧音を、それに気づいた悠真が覗き込む。
「どうかした?」
『な、なんでもない。……帰る』
「え、もう?」
 驚く悠真を無視して、碧音は泉を去った。
どこかで歯車が動き出した音が聞こえた気がした。

いつもの場所で日向ぼっこをしていると、クロが訪ねて来た。
『クロか、なんだ』
『お前……、最近人間と会っているそうだな』
 真剣な顔で、いきなり本題を切り出したクロに焦る。実はあれ以来、碧音はちょくちょく泉に出かけるようになっていた。悠真は家庭の事情で、都会から祖父が住む麓の村に引っ越してきたそうだ。悠真もまた、頻繁に泉を訪れていた。あの人の影と重なる悠真が怖いという気持ちはまだあった。でも、悠真が泉に来ているかもしれないと思うと、そわそわして落ち着かないのだ。
 答えに窮している碧音に、クロが重たそうに口を開く。
『もうそいつには会うな』
『っ、なぜ、』
 弾かれたようにクロを見る。会うな、といわれてとっさにいやだ、と思った。
『お前のためだ』
『なぜそんなことがいえる』
 引き下がろうとしない碧音に、クロは困ったように目を逸らす。
『なにを知っている? 話せ』
 ふ、と息を吐いた後、クロは決心したように碧音を真っ直ぐに捉えた。
『……そいつは、あの人間の生まれ変わりだ』
〝あの人間〟。まさか、まさか、そんなことが……?
『よし、の』
 きしり、と胸が悲鳴を上げた。

 やっぱり、人間なんかと関わったのが間違いだったのだ。山神様に非礼を詫びて拝命すればそれで終わる。それがいい。それですべて解決する。……いや、一度だけ。あと一度だけでいい。あの場所へ、行きたい。
 湧き上がる衝動のままに泉へ向かった。今度は、決別のために。
『……相変わらず、ここは綺麗だな』
 青い泉を覗き込めば、思ったよりも深い色をした水面に自分の姿が映る。白地に、黒と茶の水たまりができたような模様。お世辞にも綺麗とはいえない。真正面へ視線を向ければ碧い瞳と目があった。佳乃と悠真が綺麗だといった瞳だ。じっと睨めっこをしていれば風で飛ばされた葉が波紋をつくった。
ぽつり。
波紋がふえた。
ぽつり、ぽつり。
水鏡は色彩をぐちゃぐちゃに掻き混ぜられてなにも映さなくなった。
青い水面が橙色の光を反射し出す頃、静けさが戻ってきた。そういえば、今日はあの人間の子が来なかった。だがこれで終わりだ。すでに妖である自分の生が、あの者のそれと交叉したのは常ならばありえないこと。元の正しい道に戻っただけだ。失うものなどなにもない。これで、いい。

薄暗くなった小道をとぼとぼと歩く。空気が生温かく湿っているのが重く沈む気持ちを助長させる。
ひひひ
どろりとした不気味な笑い声が聞こえた。 ならず者はどこの世界にもいる。やつらは秩序を厭(いと)い、欲望のままに生きる。だから一般的に名も、姿も、その形を固定してしまうものをもたないし、必要としないとされている。実際、その存在を視覚で捉えた者はいない。いたとしてもすでに生きてはいないだろう。
ひひひひひ
……本当に不快な笑い方をするやつらだ。神経をざらりとしたもので逆撫でられるような感覚。大人しく闇に潜んでればいいものを、一体なにに興奮しているんだか。
いるらしいぞ
ああ、いるらしい
麓の里に美味い人間が
そいつを喰えば力が手に入る
喰おうぞ
しかし、山神がいる
煩わしい
見つからなければいい
どうやって
今宵は雨天
天照も月読もおらぬゆえ、なにも見えまい
我等の勝ちじゃ
 〝力が手に入る〟だと? 麓の里には霊力でももった人間がいるのか。難儀なことだ。たったそれだけで恰好の餌になるんだからな。――いやまて、霊力をもつ人間って、
『悠真……』

 どうして。もう、もう二度と関わらないと決めたのに。
 小雨が降り出した山を駆ける。濡れそぼった毛が張りつく。跳ねた泥で汚れた自分を思い浮かべるのは鏡を見ずとも容易い。そういえば、佳乃に拾われたときもこんな姿だった。
『クロ、クロ!』
 走りながら友人の名を呼ぶ。
『……どうした。随分とみすぼらしい姿だな』
 やはり、来てくれた。彼は憎まれ口を叩きながらも、いつも味方でいてくれる。
『クロ、悠真を助けたい』
 時間がないので直球でいえばクロの眉がぴくり、と上がった。
『なんの話だ』
『〝名無し〟に狙われてる』
 クロがわずかに目を瞠ったのがわかった。
『……もう関わるなといったろ』
 そう。自分でもそう決めたつもりだった。でも、
『やっぱり、ぼくには無理みたい』
 初めて、心の奥深くにわだかまっていた本音を吐露した。また傷つくのが怖くて無視し続けていた、本当の自分。
『そうか』
 クロはそっと目を閉じた。
『また、辛い思いをするぞ』
 それでもいいのか、と。やはり、この友人はどこまでも優しいのだ。
『うん』
『そうか』
 もう一度頷いて、クロは目を開けた。碧音を真っ直ぐに見ながらいった。
『〝名無し〟は俺がなんとかする。お前は、悠真を』
 すでに迷いはなくなっていた。

 悠真を助ける方法。これから妖に狙われることもなく、普通に生きてゆけるように。
『悠真』
 見慣れた背中に呼びかければ、悠真が驚いたように振り返った。
「碧音? どうしてこんなところに。山からって出れたんだ?」
『悠真、お前を襲いにきた』
 問いかけには答えず、要件だけをいう。
「襲うって、僕を、碧音が?」
 わけがわからない、と悠真は怪訝そうに尋ねる。
『その霊力をよこせ』
「は」
 思い切り跳躍して悠真ののど元に喰らいつく。悠真はなにが起こっているのかわからないまま倒れ込み、気を失った。そのまま霊力を奪っていけば、悠真の顔色がだんだんと青白くなっていく。
あと少し、あと少しで終わるから。
奪いつくしたあとは、最後に首の傷を舐めて治癒する。噛みつかれたせいで血を流していたそれは、跡形もなくなった。気を失って横たわったままの悠真を見下ろす。
『悠真』
 名を呟いてすり、と手に頭を押しつけた。ばさ、ばさ、と羽音が近づいてきた。
『碧音。終わったんだな』
 クロは碧音の背後を見やりながらいった。そこには、しっぽが、四本。
『ぼく、この名は捨てない』
 決心したんだ。佳乃とも、悠真とも、もう会うことはないけど、彼がくれた、彼らが好きだといったこの名は、とてもとても大切だから。それでたとえ山を出て行くことになってもかまわない。
『そうか』
 クロはただ一言、そう頷いた。


「悠真。こら、起きなさい」
 揺さぶられて重い瞼を上げる。いつの間に寝たのか、外は暗くなっている。
「昼寝をするなら部屋の中でしなさい。風邪をひく」
 じいちゃんにいわれて気づく。どうやら縁側で寝ていたらしい。よほどの風が吹かないかぎり雨が降り込むことはないが、だいぶ身体が冷えていた。
「さ、ご飯にするから用意しなさい」
「うん、わかった」
 茶の間へ向かおうと立ち上がったとき、ふとなにかが頭を過った。だがそれは一瞬のことで、思い出そうとしてもなにもわからなかった。気のせいだということにして家族のもとへ行った。


 麓の里が一望できる木の上で一匹の三毛猫が寝ている。他の動物の声や枝葉がこすれる音に耳が反応してぴくぴくと動く。一際強い風が吹いたとき、うっすらと目が開かれて碧い瞳が覗いた。猫はごろんと寝返りをうつと再び微睡み始める。ゆったりと、四本のしっぽが揺れた。