死にゆく者、生まれる神   赤咲穹


 男たちは憂えた。境遇よりも、自分の髪を。

男たちは望んだ。若々しい、あの頃の髪を。

男たちは創った。願いを叶える救いの神を。

眠らない首都の上空で、一つの意識が芽生えた。

 ――毛根が死んで、神が生まれた。

 

ストレス社会の極致、現代日本。中年たちは陸で生きる河童であった。学生時代の若々しく力強い茂みはいつしかヒジキの養殖場になり、荒れ地になり、やがて不毛地帯になった。

こんなはずではなかった。美人の嫁さんを貰って高給取りになってマイホームを買う夢を見ていた一人の男の頭は、実りの緑も希望の萌芽もない禿山だ。手取りは二十万も行かず、今時見合いで結婚させられた妻はお世辞にも美人とは言えず、家事もしなければパートにも行かず、文句を垂れるばかりだ。もちろんマイホームなんて買う余裕はない。

「どうすりゃいいんだ」一人泣いていた男は、しばし現実から逃げることにした。パソコンを立ち上げ、コミュニティサイトへ繋ぐ。そこでは、彼と同じような哀れな中年がたむろしており、一様に傷を舐めあっている。

 スレッドが立っては落ちるこの掲示板の中で、一つ異様に人が集まっている、ハゲの集いというものがあった。

 噴き出す不平、憤慨、悲哀。その頭に違わず不毛であった。しかし、こんな場所でも――いや、こんな場所でしか、彼らは腰を下ろせない。

 男はスレッドの最下段にある一つの書き込みに目を止めた。「せめてハゲさえ治ってくれればなぁ」とある。髪の毛が生えたところで生活は変わらんぞ、シャンプーの手間が増えるだけじゃあないか。しかし、そういえば何時から薄くなったんだか。でも、今更どうしようもない、せいぜい出来るのは――

「そんなの神頼みしかねーんじゃねぇの」

 なお、彼に育毛剤は効かなかった。

「髪の神ってか、やかましいわ」「なんかこのスレ寒くね?」「寒いのはお前の頭だろ」「うるせーハゲ」

 こんなものか。当然だな、馬鹿馬鹿しい。神なんていないし、髪なんてもう生えない。何言ってんだか、と自嘲しながら惰性でF5キーを叩き続けた。ふと、スレッドの流れの変化に気づく。神の設定が考えられていた。

 困惑する男をよそに、設定がどんどん組まれていく。暇を持て余しているのか、本気で救いを求めているのか、彼にはわからなかった。

 ただ、作っている内容が本当にくだらなく不毛に見えたので、パソコンの電源を落として布団に入った。

 

 神は人の集合意識から生まれる。多くの人間が同じことを望み、叶える存在を想像した時、それは神の創造となる。

 インターネットで芽生えた望みは、離れ離れの人間の意識にケーブルや無線LANを介して広がり、神を降ろすに相当な人数に伝播した。

 ――新たな神の誕生である。

 

 女性アナウンサーが淡々と原稿を読み上げた。一月ほど前から、薄毛の男性に突然髪が生えるという怪奇現象が発生している。一瞬口元がにやけたが、なんとか抑えた。プロである。

「不気味ですけどねぇ、いやぁ助かりましたよ。育毛剤効かなかったですもん」

 取材に冗談めかして答える新橋のサラリーマンの表情は明るい。

「どうなってるんだ」

 テレビを見ながら呟く、神降ろしのきっかけとなった男は、しかし何も知らずに当惑していた。

 当然彼も恩恵を受けていた。掲示板に書き込んだ次の日には、うっすらと毛が生えていた。一週間でベリーショートに、一月経った今では理髪店に行こうか考え始める程度になっていた。

 髪が生えたからといって、他の何かが変わったわけではない。仕事も妻もこれまで通り、彼の胃に強かにパンチを打ち込む。しかし、ストレスを受ける彼の内面は、確かに変わった。一月前と比べて明らかに前向きになり、精神的に安定した。

 髪が生えるだけでこんなに変わるんだな――口元を緩ませた男は時計を見てにわかに焦りだし、荷物をかき集めて家を飛び出した。時計を見るたびため息をついていた以前の彼の面影は、もうどこにもない。

 

 ハゲを気に病む人間に、救いを振りまいて一月。ネットで面白半分に名付けられた神――フッサーは愕然としていた。たかだか髪を生やしたくらいで、人間はこれほどまでに活力を取り戻すのかと。

 神は人間に想像された性質だけを持って生まれる。名前と能力、他の神との関係などの設定。この神で言えば、フッサーという名前と髪を生やす能力は、当然にあるものとして生まれた。

 なお、悲しいかな、フッサーは遊び半分で創られた存在なので、フサフサ世界の王子で、薄毛に悩む他の世界の住人を救う旅に出ているとか、その王様である父と仲が悪くて半ば家出のような形で旅に出たとか、そういう蛇足がたくさんついてしまっている。

 だがやはり、嬉しいものである。髪を生やすことが、確かに誰かの救いになっている。もっと救ってやろうと、新たなハゲを求めるフッサーを咎める声が響いた。

 壮年の男が立っていた。髭と髪が接地するほど長い。

「愚か者ッ」

よく響く重低音で、壮年の男がフッサーを一喝した。フッサーは無性に腹が立って、反射的に反発の声を張り上げていた。

 神は人間に想像された性質を持って生まれる。名前、能力、設定は全て、想像されたとおりになる。その際、今まで存在しなかったものが含まれていた場合、神とともに創造される。――フサフサ世界と住人、そして不仲の父親も生まれてしまったのだ。

「無闇に髪を生やすことが、どんな悲劇を招くのかお前にわかっているのか」

「薄毛に悩む人々を救うのは、私達にしかできない! 他に誰ができると言うんだ!」

「少なくともこの世界にはできる。育毛剤というものがあるそうではないか」

「効かない人間だってたくさんいたんだぞッ」

 主張は平行線。厳かに息子を窘める父と、血気盛んに反駁する息子。やがて局面は動く。

「だいたい、髪を生やすことが一体どんな悲劇を生むんだ! その悲劇とやらは何なんだ!」

「お前には想像できぬのか? 大切な物を失う苦しみを。髪を失ったものの悲哀がわからぬか!」

「わかるとも! だから生やしているんだろう!」

「生やすだけではまた失うだけだッ!」

 鈍器で殴られたような重い衝撃に、フッサーは唸った。眉間が波打つ。歯ぎしりをし、頭を掻き毟るが、反撃の手は浮かばない。

 恨めしげな視線を送る息子に、父は幾分語調を和らげて語った。フッサーがかつて巡り、救いを与えた世界が、再びハゲだらけの世界に戻ってしまったことを。「もう一度失うくらいなら、髪なんていらなかった」涙とともに零れた言葉を、父は忘れられないと。

「今は耐えられるかもしれん。だが、髪があることに慣れきってしまった後に、ハゲはまた訪れよう」

 フッサーは俯いていたが、顔を上げて父を見た。

「諦めたくない」

 決然とした面持ちに、父は頬を緩めた。――いい顔をするようになった。

「僕達には髪を生やすことしかできない。だったら、それで何とかするしかない。どんなストレスにも負けない、鋼鉄の強さを持った髪を作る術を手に入れてやるッ」

「その意気だ。それでこそ、我が息子よ」

 父が手を虚空にかざすと、真っ黒な渦が口を開けた。ワープホールである。「帰るぞ」父は翻って渦の中に入った。息子もそれに続く。フッサーは生まれ故郷を後にして、生まれ故郷へと帰って行った。

 

 帰郷したフッサーは研究室に篭った。髪を生やす術だけでなく、今まで気にしてこなかった髪そのものの研究を重ねた。より強い髪を生やすにはどうしたらよいか。強い髪を生やすには術の力が足りず、新しい物を一から組んだ。舐めてかかったわけでは決してない。しかし、想像以上に研究は難航した。母が病に伏しても構わず、父が老いて王座を退いても、弟に王位を譲って研究を重ね、遂に完成を見た。

 どんなストレスにも負けない至高の髪を最初に生やす地に選んだのは、生まれ故郷の日本だった。

 日本に到着したフッサーは目を疑った。ハゲがいないのだ。日本全国どこを見渡しても、どこにもいない。

 今まで費やした時間は何だったのか。母の死を顧みず、王位も捨てたのに。フッサーは崩れ落ち、声を上げて泣いた。

 

 半ば引きこもり生活を送っていたフッサーは知る由もなかったが、日本の技術者は、そして男たちは、いつかは抜けてしまう地毛を生やすという選択肢を捨てていた。彼らが到達した答えは、DNAを利用したオーダーメイド。

 ――日本人はかつらを使っていた。