白の愛し子   七水樹





 今思い出してもあれは奇妙な出来事だった。異常と異常とが偶然にも重なり、産まれ出でようとした命の話だ。  俺、田端 京介はその始終をもっとも近くで見ていた者として回想する。

 八木崎 昌という人物が捧げた、我が子への愛のすべてを。



 「先輩が倒れた」と聞いて、俺が病院に駆けつけた時よりもずっと前から、事は始まっていたらしい。
 俺と昌は一つ年の違う先輩後輩の関係で、俺が小学生の頃からの知人であった。先輩が大学で倒れて病院に運ばれたという情報を聞きつけて、俺は病院へ向かった。けれども、その時には既に事は大きく動いていたのだ。
 先輩は、身籠っていた。
 その表現が適切なのかどうかはわからなかった。そして、それが普通のことではないことはわかっていた。何故なら、先輩は俺と同じ男だからだ。男は妊娠しない。もしそんなことがあったら、この世の理をすべてひっくり返してしまうだろう。先輩は人間の赤ん坊ではなく、俺の知らない謎の生き物の子どもを、その腹に宿していたのだ。
 先輩には病院から個室が与えられ、俺はそこで先輩と医師から、先輩の状態について話を聞いた。しかし、あまりに衝撃的な告白だったため、話を聞くだけでは理解しきれず、その日俺は家に帰ってから謎の生き物についてインターネットで検索してみた。驚くべき事実から少し距離を置き、頭の中を整理したかったのだ。そうすることで、俺はぼんやりと先輩が直面している問題の輪郭を知った。
 先輩の中にいる生き物は、白卵子≠ニいう名の、寄生型新種生命体らしい。それについて、まだ詳しいことはほとんど解明されておらず、人体にどのような影響を与えるのかも、すべてわかってはいない。ただ一つ、白卵子に寄生された者にはある共通の症状が出ることがわかっていた。それは白い血を吐くこと≠ナあった。  厳密に言うとそれは宿主となった人間の血液を白卵子が取り込んで自らの養分として作り出したもので、人間の血液そのものではない。白卵子は人間の胃に寄生し、特殊な防御膜を作り出すことによって自らが生息する空間を確保し、そこを養分で満たす。それが白卵子の成長に不要になった時、白卵子は新たな防御膜を内側から作り出し、余分な養分を胃の中へと吐き出すのだ。体内に突然異物が排出されたことに人間の体が驚いて、初めのうちはそれを吐き出そうと拒絶反応が起き、結果的に白い血液を吐き出すことになるのである。
 急激な不快感に襲われ嘔吐した結果、吐瀉物に異常に白く濁った謎の液体が含まれていることに気づき、それに不安を抱いた先輩は病院の検診を受けたと言う。そしてそこで白卵子の存在を発見したのだ。
 養分排出による嘔吐は胃液も混じって喉を迫り上がってくるため、危険もあるが数回で体は慣れてしまう。それから先は養分を作り、不要な分は胃に排出することを繰り返して白卵子は成長していくのである。
 大学で倒れた原因は、白卵子の血液搾取による貧血だったそうだ。
 白卵子については医師の説明からも、インターネットからも大抵その程度しか情報は得られなかった。白卵子は胃に寄生して白い養分を吐く。その程度しかわからない。これを医師は「白卵子は非常に脆い存在なのです」と説明した。
 何でも白卵子は、人間の胃に寄生をしてもすぐに死んでしまうような弱い生き物らしいのだ。だからこそ、情報が得られず、未だに謎の生き物のままなのである。つまり、そこに先輩が白卵子を宿している意味が生まれてくるのだ。
 先輩の胃に寄生する白卵子は、類を見ないほど順調に成長している、と医師は語った。先輩が倒れた時には既に白卵子を発見してから、二週間が経過しており、これまで白卵子は最長でも一週間程度しか生き続けられなかったため、先輩の中にいる白卵子が最長記録を打ち立てていたのだ。医師は先輩が倒れたことによってさすがに白卵子も無事ではないだろうと予測していたが、なんと先輩の中の白卵子はまだ生きていた。そのため、ここから先は白卵子の未知の生態が表れるかもしれない、ぜひとも研究に協力してほしい、と研究者側からの依頼を受けて、先輩は病院に入院することが決まったのだ。
 謎の多い白卵子を研究するにあたって、先輩の中の白卵子は研究材料にもってこいだったのである。
 俺は先輩の一番身近な存在として、白卵子の話を聞かされた。先輩の叔父も叔母もこのことを知らないらしく、俺はそれはなぜだと先輩に問うた。
 先輩は、本当の両親ではなく、遠縁にあたる叔父の夫妻と幼い頃から暮らしていた。物腰が柔らかで、いつも穏やかな雰囲気をまとっていた夫妻のことを、俺もよく知っている。先輩と仲良くなってからは俺もしょっちゅう先輩の家に遊びに行き、世話になっていたからだ。近所に住む年の近い子どもがお互いしかいなかったために、俺たちはいつも一緒で、家族同然に過ごしていた。だからこそ、俺は先輩に叔父と叔母に相談するべきだ、と強く推した。あの二人ならば、こんな予測不能の事態であっても、受け止めて、何かしら対策を一緒に考えてくれるだろうと思ったし、俺一人よりも叔父夫妻が味方についてくれる方が圧倒的に心強いだろうと思ったからだった。
 しかし、先輩は首を縦には振らなかった。俺にだけこの事実を伝えると言う。本来ならば、俺にも気づかれないようにするつもりだったらしい。
 俺は頑なに説得に応じず、強い意志の宿る瞳をした先輩の言葉を、あの時は正確に汲み取ってやることができなかった。例え、正確に先輩の想いを読み取れていたとしても、俺には何もできなかったかもしれない。それでも、ずっと近くで生きてきた友人として、もっとあの言葉を真剣に受け入れるべきだったのだ。
「この子は、僕の子どもになったんだ。僕が育てる」
 先輩はそう言って俺から視線を外すと、まるで我が子を慈しむ母親のような表情を浮かべて自身の腹部をゆっくりと撫でた。俺はその姿を目の当たりにして、医師の言う研究とはまた違った意味合いで先輩が白卵子と向き合おうとしていることに薄々と勘付いていながら、先輩のことを止めることはできなかった。
 白卵子の話を聞いたところで、結局俺には何もできない。先輩は今実家を出て一人暮らしをしているため、病院にいることが一番安全であると言えた。俺は病院側から白卵子のことを外部に口外しないよう念を入れられ、大学にはストレスによる体調不良で療養することになったという形で伝えられた。

 俺は入院に必要な日用品を届けたり、先輩が一人の間に退屈しないように暇つぶしになる漫画や雑誌などを持っていったりしながら、ほとんど毎日のように病院へ通っていた。大学での話をする俺に、にこにこと笑顔で先輩は相槌を打っていた。その間は、小学生の頃からずっと一緒に過ごしてきた優しい先輩であるのに、俺の話が終わると先輩は必ず白卵子の話を始めた。今日はね、養分を吐き出す瞬間が少しだけわかったんだ、この子ったら僕に遠慮して少ししか出さなかったんだよ、と先輩は嬉しそうに、興奮気味に語る。俺はそっか、と笑って返していたが内心はかなり複雑だった。一つのものに心を囚われて恍惚の表情を浮かべる先輩を、俺は知らなかったからだ。白卵子とともにある先輩は俺の知る先輩ではないように思えた。
 それでも先輩が幸せそうで、叔父夫妻の元を離れてから陰りがちだった表情も明るくなったので、俺は男が子を孕むという当初の戸惑いを少しずつ薄れさせ始めていた。幸い、先輩の入院生活が始まり、一週間以上過ぎても先輩も白卵子も健康体のままで、特にこれといって問題は発生していなかった。このまま何事もないまま、平穏無事に事が解決すればいいと、俺は願っていたのだ。
 しかし、すべてがそう上手くいくはずがなかった。
「白卵子の成長が予想以上に早く、さらにその体が肥大化しています」
 先輩の入院生活二週間目が過ぎた頃だった。定期健診で医師が気難しい顔をしながら先輩にそう告げた。白卵子は米粒ほどの大きさからビー玉ほどまでに、急速に大きくなっていた。さらにここ数日の白卵子の活動が活発的で成長速度がさらに速くなるかもしれない、と医師は危惧していた。
「白卵子が体内で成長し、成熟すると子孫を生み、体外へ出そうとするか、もしくは成熟した白卵子そのものが宿主の体内から出てこようとするかどうかわかりません。しかし、後者だった場合は」
 これ以上大きくなれば人体に大きく影響します、と医師は言った。俺は立ち上がって医師に問い詰めた。影響とは何なのか、先輩はどうなるのか、どうすればいいのか、と矢継ぎ早に質問する俺とは違い、先輩は青い顔をして、この子はどうなるんですか、と小さな声でたった一つだけ医師に問うた。
「これ以上は安全を保障できません。……白卵子を、除去しましょう」
 白卵子の研究は、当初予定ではここまで白卵子が成長するまで観察する予定ではなかったし、そもそも白卵子が成熟するなど、誰にも予想できないことだった。順調すぎる成長を望んだのは、恐らく先輩ただ一人だっただろう。
 まもなく、先輩の体内にいる白卵子を殺すことが決まった。それ自体は容易いことだ。胃の中に造り上げた特殊な防御膜を破りさえすれば、胃液によって白卵子は死滅する。白卵子は消化され、やがて尿や便とともに体外へ排出されてしまうだろう。しかし問題は、先輩自身の答えだった。
 先輩は白卵子の除去に酷く抵抗した。半ば、パニックを起こしているようだった。悲痛なまでに白卵子は自分の子どもなのだと訴え、このまま育て続けると先輩は主張した。
「この子だって、生きているんです、親である僕が、僕が育てないと」
 どうして殺さなくちゃいけないんですか、見捨てなきゃいけないんですか、と先輩は高い声で泣き叫んだ。俺には、先輩のその白卵子に対する愛情が異常に思えたし、胃に寄生する謎の生命体を我が子とまで言ってのける先輩に恐怖を感じた。思わず、かける言葉を失い、先輩の荒れ狂う姿に圧倒された。俺は、八木崎さん、落ち着いてくださいね、と看護師二人がかりで押さえつけられている先輩を前にして、ただ立ち尽くすだけであった。

 白卵子の除去は明日行われることになり、混乱で体力を消耗した先輩は眠っていた。夕刻になり、空は暗くなっていたが病室の電気はつけないままで、俺は先輩の眠るベッドの傍らに座っていた。眠っているというのに、先輩の眉間にはうっすらと皺がよっているように見えた。その悲しげな表情に、俺は先輩が白卵子に拘る理由が何なのか、想像からの推論にすぎなかったが、それが核心に近づいているような気がしていた。
 先輩は、本当の両親が育児を放棄し、児童擁護施設に保護されたことがある。期間で言えば短いもので、すぐに叔父と叔母によって引き取られることが決まったが、それが先輩に大きな影響を与えたことは間違いなかった。それが、先輩が白卵子に拘る理由。いや、白卵子でなくとも良かったのかもしれない。先輩が拘っているのは、親と子という関係性だ。先輩が白卵子を我が子とするのは、自分の姿を白卵子に重ねているからなのだろう。親は我が子を何に代えても大切にするもの。両親に、大切にされたかったという先輩の想いが、自分の中に宿った命を愛するという形で現れているのだ。
 先輩自身も、明確な因果関係があって今の状態になっているのだとは、深く意識していないかもしれない。叔父と叔母との生活に、満たされていなかったわけではないだろう。俺が知る先輩は、いつも幸せそうで、よく笑っていた。けれど心のどこかで、やはり本当の両親を望んでいたのだ。
 愛する理由を察すれば、俺も先輩の中に巣食うものに、単純ではない想いを抱く。病室で一人、俺は眉根を寄せた。明日は、先輩にとって忘れられない一日になるだろう。そばにいようと思った。これまでと同じで、何もできないかもしれないが、こうしてともに悲しみに似た感情を抱くことはできる。何か、寄り添うことで共有できるものがあるのではないかと思った。
 それぐらい俺と先輩は今まで近い存在としてともにあり、こんなに先輩を遠くに感じたことは一度もなかったのだ。
 俺は眠っている先輩に小さく挨拶をし、その日は病室を後にした。



 白卵子の除去は、俺が病院についてから行われることになっていた。午前中は大学で講義を受け、午後は三限のみ授業を受けた後に病院に向かう予定だった。
 昼休憩には自分のことではないというのに、先輩のことが気になってあまり食が進まなかった。早く講義を終えて先輩の元に向かわねば、とそわそわする俺に病院から連絡が入った。スマートフォンの画面に病院の名前が表示され、俺はさっと体温が下がるのを感じながら急いで電話を取った。先輩の身に何かあったことは間違いなく、俺は開口一番に、どうしたんですか、と切羽詰った声をあげてしまった。それが杞憂に終われば良かったのだが、病院側から告げられたのは「先輩が失踪した」という、信じがたい情報であった。

 俺は連絡を受けてからすぐに大学を飛び出した。白卵子の急速な成長の影響で先輩はずっと貧血気味だった。一人ではそう遠くまで行けないだろうし、そもそも行く当てもないだろう。ただひたすらさ迷い歩き、人気のない場所でふらりと倒れてしまうんじゃないだろうかと不安になって俺は必死で病院周辺を走った。荷物は何ももっていないはずだと聞いていたので、公共交通を利用することはないだろうと考えていたが、丁度地下鉄の乗り場前を通りかかった時、線路に飛び込んで白卵子とともに死のうとする先輩の姿を一瞬でも想像してしまって俺は額を押さえた。先輩の昨日の取り乱し様から、あらぬ妄想を完全に拭い去ることができなかったのだ。
 俺は勝手な思考に邪魔されないように、直走りに先輩を探して回った。先輩が行く当てがなければ、こちらも探す当てがない。人と物とが氾濫する街中で、俺はたった一人を求めて走る。立ち止まらない人々の多い街中では座って休むような場所も限られてくるので、俺は重点的に体を休めることができそうな場所を探した。
 一時間ほど先輩を捜索して、俺はようやくそれらしき人影を見つけ出した。病院から、二キロほど離れた住宅街の、小さな公園のベンチに座っている見慣れた後ろ姿に、俺は声をかけた。先輩は振り返ることなく、俺が近づくとすっくと立ち上がり、病院には戻らない、と俺が言葉を発する前に鋭い声で告げた。先輩は今まで感じたことのないような近寄りがたい雰囲気を持っていて、思わず俺は先輩の数歩手前で足を止めてしまった。先輩を探すことに必死になっていたため、見つけ出した後に、なんと声をかければいいのかまでは考えが及んでいなかったのだ。
 俺が何も言わないでいると、先輩はよろつきながら歩き始めた。俺は思考を上手くまとめられないまま、公園の出口へと向かっていく先輩の後を追う。先輩が、自身の姿を白卵子に重ね、そして自分を両親と対比しているのだと思うと、安易な言葉を選ぶことはできなかった。だがしかし、引き止めなければ先輩の体に危険が及ぶかもしれない。先輩のことをわかっているからこそ、先輩とずっとともにあった自分こそが、誰よりもはっきりと真実を伝えてやらねばならない、と俺は苦しげに背を丸めてでも歩き続ける先輩を見て、そう感じた。そして、その思いのままに「白卵子は、先輩の子どもじゃない」と静かに言い放った。先輩は、ぴたりと足を止めた。
 今まで生きてきた中で、あれほど悲しくて、憎しみのこもった熱い眼差しを俺は見たことがなかった。先輩が俺を振り返って、睨みつけたのだ。先輩に睨まれたことなんてこれまで一度もなくて、俺は胸の奥が凍えるのを感じながら、それでもまっすぐ先輩の視線に応えた。先輩は違う、と低い声で俺に反論した。
「この子は、僕の子どもなんだよ。僕がいなきゃ駄目なんだ。僕が育ててあげないと、死んでしまうんだよ」
 俺は首を横に振った。
「確かにそいつは先輩がいないと生きていけない。でも、先輩の子どもじゃないだろ。それはあくまで先輩に寄生してるだけの生き物だ」
 先輩も、本当はわかっているのだ。それでも一度与えた愛情をなかったことにはできなくて、白卵子のためにもがき苦しんでいる。先輩は唇を噛んで、視線をさ迷わせていた。俺は極めつけの言葉を言う。
「先輩は、そいつの親≠カゃないんだよ。そいつが死んでも先輩が見捨てたことにはならない。先輩は、酷い親にはならない」
 先輩は俺のその言葉に目を見開いていた。俺が思う以上に、それは先輩の抱える問題の核心をついていたらしく、先輩はぎゅっと顔をしかめて泣きそうに瞳を揺らすと、くるりと踵を返して走り出した。先輩、と叫んで俺は先輩を追う。疲労しきっている先輩が力をふりしぼって走っても、俺を振り切るだけの速度はなくて、距離は開かず縮んでいった。住宅街から、車通りのある大通りへ出る曲がり角の手前、手を伸ばせば届く距離に先輩がいて、俺は先輩の腕を掴もうとしていた。先輩は、角を曲がろうとして、突然ぐっと体を強張らせた。足を止めたので、俺は先輩の腕を掴んで引き寄せる。バランスを崩した先輩は俺の方へ倒れこんできた。

 まさに、その瞬間だった。

 白い物が、目の前を横切った。タイヤの擦れる音と、ガラスの割れる音。そして、横から殴りかかるような、強い風が吹いた。
 一瞬の出来事で、俺にも先輩にも何が起こったのか理解できなかった。だが、はっとすれば目の前に窓ガラスは割れ、ガードレールをへし折り、車体がめちゃくちゃになっている無残な姿のトラックが横たわっていた。  それは飲酒と、信号無視による交通事故であった。俺たちが向かった大通りのすぐ手前の交差点でトラックと一般車両がぶつかったのだ。飲酒と信号無視をしたのはどちらもトラックの運転手の方で、ぶつかったこと自体はそれほど大きな事故ではなかったのだが、はっきりとしない意識の中でぶつかったことに驚き、アクセルとブレーキを踏み間違え、交差点脇の歩道に乗り上げ、ガードレールを折り曲げながらカーブミラーに激突してしまったらしいのだ。
 幸いその事故に巻き込まれた歩行者はいなかったが、俺たちはトラックがぶつかったカーブミラーの、斜め手前にいたのだ。もしあの時、先輩が立ち止まらずにそのまま通りへ飛び出していたら間違いなくこの事故に巻き込まれていただろう。先輩だけでなく、すぐに先輩を追って俺も飛び出していたら、想像もしたくない未来が訪れていたかもしれない。
 俺たちは身を寄せ合ったまま、事故の有様を呆然と眺めていたが先輩が口元を抑えて蹲ったことで俺は我に返った。先輩は蹲って、腹部を押さえながら唸って、そして吐いた。どろりとした白濁の液体を先輩は吐き、生理的な涙を目尻に浮かべていた。事故で辺りが騒然とする中、俺は病院に連絡を入れた。先輩のことと、事故のことの両方を告げるとまもなく救急車が到着し、先輩と俺はトラックの運転手とともに病院へと運ばれた。

 一般車両の運転手は無傷、トラックの運転手も骨折を複数個所負っていたが、命に及ぶ損傷はなかったらしい。
 先輩は、あの後救急車の中でもひたすら嘔吐を繰り返していた。あまり食事を取っていなかったらしく、すぐに吐くものがなくなって、うぐ、と喉を鳴らしても少量の唾液しか零れないという苦しい状況に陥っていたが、それでも定期的に白い液体を先輩は吐いていた。
 嘔吐を繰り返す合間に、先輩は、いやだ、と泣いた。この子まで一緒に吐いちゃうかもしれない、この子が死んじゃうかもしれない、もういやだ、この子が、出てきちゃう、とぼろぼろと大粒の涙を流しながら先輩は必死に子どもにしがみつくように腹部を抱えていた。俺はその背中をさすってやる。病院までは十五分ほどで到着し、先輩が病室へたどり着く頃になって、ようやく先輩は落ち着きを取り戻し始めていた。
 突然の体の異変に、もう少し安静にしてからという医師の判断を押し切って、先輩の強い要望によってすぐに白卵子の検診が行われた。いつもと同じ検診で、内視鏡を使って胃の中を検査する。もともと、今日行われる予定だった白卵子の除去の際に使用するつもりだったものらしく、それで嘔吐するにも胃の中のものが少なかったわけだ、と俺は納得した。内視鏡を使用する場合、前日から食事を控えるのだ。
 内視鏡の映像がモニターに映し出される。白卵子の姿は、どこにもなかった。胃の中に作り出した防御膜ごと白卵子は姿を消していた。
 検診を終えた先輩はやっぱりあの時吐き出しちゃったんだ、と両手で顔を覆った。僕が殺してしまった、と先輩は嘆いていたがビー玉ほどの大きさになった白卵子を吐き出したとしたら本人が気づかないということはないだろう、と医師は判断していた。嘔吐の前に、防御膜が破れて胃液に混じってしまった可能性の方が高いと言う。
 医師の話を聞いて、俺には思い当たることが一つあった。あの曲がり角の時、先輩が一度体を強張らせたのを俺は覚えていた。あの一瞬に先輩が立ち止まったから、俺は先輩の腕を掴んで引いたのだ。そしてそれが結果的に俺たち二人の命を救ったことになる。
 俺はそのことを先輩に覚えているか、と問うた。先輩は曲がり角を曲がろうとした時、急激に気分が悪くなったと答えた。嘔吐をする直前の、喉元に何かが競りあがってくるような感覚が押し寄せ、それで足を止めてしまったのだと。
 恐らくそれが、白卵子の死の瞬間だったのだ。医師もそれに同意していた。白卵子は脆い存在であり、宿主の状態にも大きく左右される。病院から抜け出した先輩にはかなりの負担がかかっていた。そして、俺のもとから逃げ出そうと先輩は無理をして走った。たったそれだけだが、白卵子には負荷がかかってしまったのだ。
 白卵子は死に絶え、そしてそのおかげで俺と先輩は救われた。
 もとを辿れば白卵子がいなければ先輩がこんなに大変な思いをすることはなかったのだ。俺も先輩のことを思って不安に駆られることもなかった。
 しかし、白卵子がいなければ先輩の心の奥底で縮こまっていた幼い子どもの頃からの想いが、時の中で殺されてそのまま消えていたかもしれない。
 白卵子が消えたことによって、先輩には精神安定剤が処方された。体内に白卵子がいると薬の影響を受けてしまうので、今までは薬はおろか、点滴さえ行うことができなかったのである。極度の緊張状態から開放された先輩は、ほろりほろりと涙を流し続けながらもゆっくりと眠りについていった。
 俺はまたベッドで眠る先輩の傍らに座り、涙の跡を残した頬を拭ってやった後、少し穏やかになった寝顔を見つめていた。
 先輩が目覚めて、気持ちが落ち着いた様子であれば、墓を作りに行こうと俺は考えていた。
 俺にはただの異物でしかなくても、この一月ほどは確かにあの白卵子は先輩の子どもであったのだから。
 そして先輩だけでなく、俺の命まで奇跡的に救ってくれたのだから。



 今思い出してもあれは奇妙な出来事だった。異常と異常とが偶然にも重なり、産まれ出でようとした命の話だ。
 俺、田端 京介は八木崎 昌とともに作った墓の前で手を合わせて回想する。

 白卵子が宿主に返した、愛のすべてを。