窃視   丘一計



 真夜中お兄ちゃん―ある狂気の記録―
 7月5日 お兄ちゃんは最近少しおかしい。目は血走ってるし、いつも何かにおびえているみたい。スキマを見つけたら、気が済むまでそこをあさっていたり。外にいる時も、と言ってももうほとんど外には出ないけど、いつも後ろを振り返って、きょろきょろして……。何がそんなに怖いのかな。
 あ、今日は久々にカメラを買った。趣味になら高いお金はかけてもいいよね!
 それにしても、お兄ちゃんッたら……。世話がやけるなあ。
 9月30日 今日、お兄ちゃんは一時間しか寝てない。信じられないよ。なかなか寝付けないみたいで、呪文みたいにぶつぶつ何かをつぶやいてる。私もさすがに何を言ってるのかわからない。父さんはお兄ちゃんがヘンになってから家に帰ってこない。母さんは病気になっちゃった。
 だから、お兄ちゃんにはもうワタシしかいないんだ。
 ……書くことがないなあ……。そうだ、来週バイト代が入ったらもっと小さくていいマイクを買おうっと。おやすみ!
 10月7日 お兄ちゃん、起きてこないなあ。死んでるんじゃないだろうか。一人で死んじゃったらやだな。
 学校でユウに相談したら、いっしょにどこかに出かけてあげなって言われた。なるほど、いい案だと思ったけど、なかなかむずかしそう。危ないからって、ワタシは親戚の家に預けられてるから……。今日できっかり2ヶ月かあ……。お兄ちゃんに会いたいなあ。
 10月8日 子どものころ、お兄ちゃんとよく遊んでたなあ。優しかったお兄ちゃんが、ワタシはダイスキだった。どこへ行くにも必ず付いていったし、やることは全部マネしてた。いつもお兄ちゃんをみてたなあ……。よし、決めた!お兄ちゃんを治してあげよう!きっとこれはワタシにしか出来ない事なんだ!!
 10月9日 ユウのアドバイスどおり、お兄ちゃんと出かけることにした。今日はその準備をしてたんだ。行った事無い場所だから不安だけど、二人なら大丈夫だよね!
 明日が楽しみだなあ……。
 観客
 それは、疲弊の濁流と言えるだろう。
 帰宅ラッシュのただなかにある駅を、滝のように流れてゆく人々は、皆一様に疲労を顔にたたえている。
 全身に浸透した疲れを、諦観をもって享受する岸田もまたその一人だった。窓外に流れる景色を、横目に見る。それらは、岸田に直接影響を及ぼす存在ではない。だが、そこからは等しく存在する人の営みが感じられる。部屋の窓からのぞく室内灯や事務机など、隔絶された対象だが自分との共通点を付与されたそれらを眺めることで、得られる安心感と背徳感は、ひそかに岸田の欲望の対象となっているのだった。
 金曜日。電車内に押し込まれ、周囲に人間の体温を感じつつ、今日も岸田は黄昏に沈む窓外を眺めていた。彼の目下を、数々の情報が瞬目のうちに流れ去る。
 停車を控え、電車がスピードを落とす。
 自然と目線は正面に向かう。
 電車が一時停止する。
 それは、突如出現した。
 岸田の目線の先にある建物の一室、その窓から、双眸を見開いた、異様な形相の男がこちらを見ていた顔面は蒼白。口はぽっかりと開かれている。
 脈絡の無い事態に呆然としていた岸田だったが、男のその形相が恐怖によるものだとすぐに察した。だが、何が出来ようか。岸田にはただその恐怖に蹂躙された表情を眺めることしか出来なかった。
   そして、約束された出来事のように、男の頭が割れた。噴出す鮮血。電車が発車する。
 すべては一瞬だった。だが岸田にとっては永劫に等しい時間だった。男の顔にうかんだ恐怖が、何より、噴出した赤黒い血が、脳裏に焼き付けられた……。
 翌日の朝、岸田は電車が通過する際に注意深くその部屋を見たが、カーテンが締め切られ、何も起きていないようだった。なんと悪意に満ちた、陰惨な見間違えだろうか、岸田は無論安堵したが、共に沸きあがったもうひとつの感情は看過した。
 だが一週間後、金曜日、同じ時間に、再び殺戮を見た。今度は女だった。同じように恐怖に顔を歪ませ、次の瞬間、息絶える……。一連の事態によって、戻るべき日常は音を立てて崩落した。
 そして、ふつふつと湧き上がる、かつて看過された感情。それは期待感だった。毎週金曜日18時30分、そこでは人が殺される。男、女、老人……。あらゆる命がそこで潰えた。気づけば岸田は殺戮遊戯の虜だった。金曜日が待ちどおしい……。岸田は未だかつて感じたことの無い楽しみに、いてもたっても居られなかった。早く金曜日にならないだろうか……。通過の一瞬、その時を見逃すまいと、岸田は目を血走らせ、車窓にへばりつくのだった。周りの人間は怪訝そうに岸田を見た。今や岸田は金曜日の奴隷だった。
 金曜日。約束された愉悦を求めて、岸田は18時30分に電車に乗り込んだ。しかし、いつもの場所で、それは行われていなかった。締め切られたカーテンは、岸田の欲望の視線を頑なに拒んでいた……。
 迷わず、岸田は次の駅で下車し、目的の建物へと向かった。
 古いビルだった。灰色の壁には、年輪代わりの亀裂が走っている。例の部屋が、建物の4階に存在することは分かっていた。階段を駆け上がる。今まで厳然と距離の置かれていた領域へ、岸田は脚を踏み入れた。

 扉の向こうは、白い部屋だった。
 ビルの外観に似合わず、真新しさを感じる。
 窓の向こうには、電車が通っている。
 自分の使っているものだ。
 ベランダに出る、岸田が幾多の死を、観客として消費してきた場所……。
 轟音。
 電車が通過する。
 自然と視線は正面に向かう。
 電車の窓から見える人々は、皆一様に、

 こちらを凝視していた。

 岸田は知りたくなかった。自分が今、どのような表情をしているか。
 背後から、何かを引きずる音と共に何かが近づいてくる。
 全ての感覚が、赤に沈んだ。
                                                                                                         終