ぱんど、ら   史奈φ



 君はドアを開けた。
 髪の毛をすっぽりと隠す白い帽子と、埃ひとつない白衣を身にまとったパートさんたちが、ベルトコンベアの前に整列している。君と僕はそれをしばらく眺めていた。
そのうち、商品が流れてくる。パンドラの箱だ。デザインは非常にこっている。しかしあれは人間の理性や冷静をたちどころに狂わせるように作ってあるのだと、君は解説する。
 パートさんたちは、蒼か碧の色にきらめく石のかけらを入れた。南の島を取り囲むサンゴ礁を思わせるようなそれは、箱にすばやく埋め込まれて、ベルトコンベア上を流れていく。
「あれが最後に残る『希望』なの」
 君は淡々と、指さしながら工程の説明をしてくれる。
ビニール袋に詰められた「希望」をていねいに箱に入れるパートさんたちのうち、何となく一人の女性に視線が向いた。彼女の白衣の左胸には「山田」と書いてあった。この山田さんは今、どんなことを考えているのだろう。今日の夕飯か何かだろうか。僕は自分の平凡すぎる想像力に、自分でひそかに苦笑する。
「そろそろ次に行くからね」
 僕らの存在は、誰にも気づかれないようになっている。君はドアを閉めて、十二色の色鉛筆をめちゃくちゃに組み合わせて、線を引いたような色の廊下を歩く。僕もそれに続く。常に君の案内の先にしか、道はない。

 また、君はドアを開けた。
 ある何の変哲もない、新築の一軒家のリビングに続くドアを開けた。
 奥にシステムキッチン。隣に大きなソファー。四方の壁にぴったりはりつくまぶしい白い棚たち。そのもっとも奥の部屋に、ひとつ古ぼけた茶色い棚があった。隣にいた君が、僕の手を握り歩きだす。そして汗をにじませて、頼りない足取りで近づき、一番上の引き出しを開ける。その瞬間君の手は、引き出しに添えられたままカタカタと震えはじめ、息づかいが荒くなった。しばらく経ってようやく引き出しは閉められたが、とたんに君は倒れこんでしまった。何が入っているのだろう。僕は引き出しに近づいた。
「だめ! あなたには耐えられないわ!」
 その目には先ほどまでの穏やかはなく、激しく血走っていた。君は目をあわてて伏せ、隅に転がっていた、古ぼけて綿の飛び出したクマのぬいぐるみに駆け寄り、ぎゅうと抱きついた。目の前の状況を飲みこめない僕に、浅い呼吸のまま、君が語りかける。
「あの中に入ってたのは、パンドラの箱よ」
「ああ、そういうことか」
 閉じ込めてある災厄は、すべてその箱にしまいこまれる。でもそれは、開けたくなるようなデザインをしている。
 それは当然のことだろう。だって開けたくならないパンドラの箱なんて、商品にならない。でも、何度も見ている君でさえ、あの箱を見てこうもおかしくなってしまう。だから、本来の役目は大いに果たしていることになる。
「この子は、持ち主に忘れられたのかしら?」
 ぬいぐるみから体を離し、また君は僕の隣に立つ。差し出された手は、まだうっすら冷や汗をかいていた。やがて空間がぼやけ、また色鉛筆の廊下を歩く。正直言って僕は、君が誰かさえはっきりと知らない。そして当然、ここがどこなのかも。でも、君が次のドアを開いてくれるときは、信頼の情しか抱くことができない。いや、そう思わざるをえないのである。

 君はドアを開けた。
 そこはどこかのさびれた居酒屋の、一番奥の宴会場だった。今日はここで、パンドラの箱を作る会社の慰労会があるという。僕らが着いたときはちょうど、ビンゴ大会が行われていた。
「さあ、一等は最新モデル電動自転車、二等は最新スチームオーブンが、三等は有名デパート商品券一万円分が当たる超豪華ビンゴ大会、さあ最初のビンゴは誰になるんでしょーか!」
 司会らしき人がひとりテンション高く叫んでいる場所から、だんだん後ろに下がっていく。すると僕は、カードの中央一列に穴をあけた女性の姿を見つけた。おっ、この人はリーチだなと思い、そっと近づいていくと、それはあの山田さんだった。まさか再び会えるとは思わなかった。
「パートさんもこういう宴会に来るものなんですね」
「だって、あまり大きな規模の会社じゃないの」
 君は山田さんの背後に立って答える。僕はそれほど遠くにない記憶に映る、仕事中の山田さんを思い出す。小柄で、よく見れば美人な気もするけど、失礼ながら苦労の方がやや多かったんじゃないかというような人生を送ってきた、そういう印象を抱いた彼女。だが、カードを見るに彼女にもようやく幸運がめぐってきそうだ。僕はひそかに、司会が次の番号を読み上げるのを心待ちにした。
「続いては……Cの9番が出ました。そろそろビンゴの方出ますかねー?」
 山田さんが黙って、細い親指でぷきっ、とカードに穴を開けた。中央一列が、あとひとつを残してきれいにそろう。しかし、彼女は穴のあいた列を隠すようにして、テーブルをはさんで右隣にいた同僚らしき若い女性に話しかけにいった。
「安岡さんどうです、当たりました?」
「全然だめ、リーチすらかかんないし! 山田さんこそ、そろそろどうなの」
「わたしも全然……」
 相手の安岡さんという女性は、君の解説によれば新婚らしい。
「そして、山田さんはまだ独身」
「なんでそんなことを知っているの」
 君に聞き返す前に、目の前の会話は山田さんの後ろの、失礼ながら工場働きには似合わないような、整った顔の容姿をした若い女性にまで波及していた。
「中原さん、リーチ何個目?」
「あー……もうわかんないっす。これマジなんの無理ゲーですか、やっぱりただでいいものなんてもらえない、ってことなんですかね?」
「さあ……」
 山田さんは、とまどったように彼女にほほ笑みかけた。
「あの中原さんは、昔ある女性誌でモデルをしていたの」
「なあ、何でそんなどうでもいい彼女たちの個人情報をいちいち教えるんだ」
「あとになればわかるから。全部」
 結局何ひとつわからないうちに、商品を用意したと思われる社長が最初のビンゴを宣言し、電動自転車をかっさらう、という展開になった。山田さんはそれを見て拍手している。ああ、なんと欲のない人だ。僕はため息をついた。
 その後、結局スチームオーブンを元読者モデルだったという中原さんが、商品券一万円分を結婚したての安岡さんがもらい、あとは見覚えのない人が次々に何かしらの賞品を受け取ったところで一本締めの音が響き、宴会はお開きとなった。ほんのり頬を赤らめた、お酒に飲まれ気味な様子で会場を出る山田さんの姿が、わずかに見えた。
「あーあ、世の中ってうまくいかないものだなあ」
 僕はひとりごとのように、しかし君にだけ確実に聞こえるように言った。そして君は、つとめて冷静な口調で答える。
「そうでもないの」
「でも、やっぱりそうだと思う」
「じゃあ確かめにいこう」
「……確かめる? 何をどこへ?」
「バランスはこうやって保たれているのにね、ってこと」
 君と手をつなぐ。また景色が消え、もはや見なれた感のあるカラフルのほとばしる廊下を歩く。ここに戻って来るたび、謎は増えるばかりだ。だんだんと疲れを感じてきた。それは謎のせいもあるだろうが、不安を抱いていることが、やはり大きい。僕は何ひとつとして、予想などできないのだから。

 君はドアを開けた。と同時に頭をぶつけた。どうやら、天井裏のようなところにたどりついたみたい、と君は言う。
 ふと、下から声がする。耳をすませても、絶えることなくいつまでも続く、争いのような声。僕は、そんな会話に、どこでと言われても困るが覚えがあった。
 すがりついては失う女と、幻滅しては捨てる男が水をかけあって成り立つ会話。中身はどうでもよくて、肩書きと自慢のタネだけがほしいだけのところがよく似ている、そんな男女の会話。いつの間にか君は板の一部を外し、押し入れまで下りる道を見つけていた。ふすまの一部には穴があき、ちょうど口論する男女の姿形がよく見えた。意外にも二人とも美形と思うがいなや、僕はその女性の方の顔に、ふと既視感を覚えた。
「やめて……そんな物投げないで! 顔に傷がついたらどうしてくれんのよ」
「あ? お前もうモデルでも何でもねーのに、思いあがってんじゃねえよ。てか、とっとと俺の目の前から失せて」
「……ふざけないでよっ!」
 一瞬、目の前を何かの影が通過した。そして、彼氏の頭を経由して、その後ろにどさっと落ちた。箱には「スチームオーブン」の文字と、絵があった。蛍光灯はくっきりと真新しい箱の全体像を映しだす。まだ開封されていないことを示す、貼られたテープが光っていた。
 沈黙が訪れる。僕らと、女の息づかいだけが聞こえる。しばらくして男は起き上がり、無言で頭を押さえて、部屋を出た。入れ替わるように、か細い嗚咽交じりの泣き声が響く。
「もう十分でしょう。行こう」
「はい」
 ゆっくりとうなずいて、君はドアを閉めた。
   君はドアを開けた。
 そこはどこかの小さな団地の一室。脚が傾いたテーブルの上には、ぼろぼろになったノート。おそらく家計簿だ。そのかたわらには、赤いペンを持って厳しい顔をした、ぼさぼさの髪の女性。かたわらには、ごっそり中身を抜かれた「商品券」の文字がある封筒。隣には、札の一枚もない財布。そんなテーブルの下には、壊れかけのゴミ箱。中には外れた競馬の券がちらほら、そして飲みほした発泡酒の缶。
 ふとテレビの上に視線を合わせると、二人の、結婚式の記念写真。
 僕らはやはり、その女性に見覚えがあった。
 そっと、ドアを閉めた。
  
 いつのまにか、廊下の色が淡くなってきた。色鉛筆から、だんだんそれより淡い、パステルカラーといえるよう色合いになってきた。ずっと歩いている。これまでよりも格段に長い距離を進んでいるようだ。
「あの人たちは、パンドラの箱を持てないの」
 疲れを覚えてきたところで、ふいに君がつぶやいた。
「彼女たちのことか。どうして。だって社員だろう?」
「あんな人生で誰もが通る程度の災厄なら、箱で収めるまでもないもの」
「だから、買う人間は限られてるの。あの工場にだって、たったひとりきりよ」
 ついに廊下の壁は白になった。漂白された骨のように、何も語らない不気味な白。しかしまだドアにはたどりつかない。僕はだんだん、不安に耐えることさえやめたくなった。僕はただ、好奇心で依頼したのだ。別に帰ってもいい。つらくなって、思わずしゃがみこんでしまった。
「どうしたの」
「なあ……どこに行こうとしてるんだ。そもそもここはどこなんだ。それさえ教えてくれたら、もう帰りたい。悪い予感しか見えないんだ」
「悪い予感ねえ。それは当たってるかもしれない」
 君は笑みを浮かべた。すべてを知っている者独特の、何とも嫌味で、それでいて絵になる顔。こんな顔ができるのは、物語の重要人物だけだ。そして僕は、少なくともこのパンドラの箱の行方の旅においては、いくらでも差し替えのできる人間だ。最初からわかりきっていた。
「でも、目をそらさないで。次で最後、だからそこまでついてきて。あとは必ず何とかする」
「うん、わかった」
「それとね、ここがどこかは知らなくていい。電車の路線名が不明でも、その電車が目的地に行くことかわかれば、もう十分でしょ。そんな感じ」
「ん? えーとつまり……」
「……もういいよ」
 うまく頭が回らない。体はくたびれている。でも、僕は信じた。次でわかるという言葉を、疲れた体に任せて信じた。ぼくは病的に白い床から目を離す。やがて、壁から銀に光るドアノブを見る。君はそれを力強くひねり、ドアを開けた。

「あれ、ここ……」
 そこは、あの新築の家のリビングだった。あのゆったりした空間と、パンドラの箱が封印された部屋のある、曰くつきの場所。でもひとつ違うのは、そこに人の姿を見たことだ。ソファーにスウェット姿で寝転ぶ女性が、そこにいた。
「あぁあぁ」
 姿をとらえたとたん、その女性はけだるそうに起き上がる。あちこちはねた髪を振り乱してリビングを出て、家の奥へと向かう。目は開ききっていない。化粧もしていない。が、やはりその人もどこかに覚えがある。いったい誰なんだ。考えながら、その背中をつけていく。
 彼女は、引き戸を開けて部屋に入った。そこは、あのパンドラの箱のおいてある部屋だった。しかも部屋に入ってすぐ、なんのためらいもなく彼女は棚を開け、あの箱を取り出した。
「待って!」
 そう叫んだが、声は当然届かない。君が何も言わないまま、ちょっとだけ手を握る力を強めてくれる。彼女は、箱を両手で持ちながら、ぼそぼそと何事か言いはじめた。
「こんなもん、どうせインチキよね。何が不幸を吸い取るおまじない、よ」
 まるで、この世に生きることすべてにやる気がなさそうな表情。そして異様にか細い声。僕は身震いがした。それで間違いはない、と確信した。しかし同時に、それは明らかに別人だった。ただそれが、工場や飲み会で見たときとは違う別の顔、というだけのことだった。
 彼女は箱を荒れた埃まみれの床に置き、その場にうつぶせになり、ちりばめられた宝石をさわる。時折右人さし指で鍵のあたりをいじる。開けてはいけない。開けませんように。僕の背筋が縮みあがっていく。
「だいたい何なのさ、中原のやつ。『あたしちょっとズルすわ。二等で黙って手挙げればわかんないでしょ。彼氏に手料理食べさせたいからオーブン欲しいし。あ、山田さんはなんでもないフリよろしく』って。安岡のやつもさ、『あたしも……三等のとき、その手でいくから。だって旦那と買い物行くときとか、使っちゃいたいし。山田さんは、頼むから大人しくしててね』じゃねえよ!」
 だんだん声は大きくなり、荒い吐息が交じる。言葉を区切るヒマもないほど、彼女の持つ不満は限界に達していた。それは正しくない。ただの勝手で、ついでに言えば何重もの虚飾のうえにあることを知っている。それでも彼女がしれを知る日は、きっとやって来ない。
「ちくしょ、こんなもの!」
 彼女はやにわに立ち上がり、何もない、漆喰のむき出しになった壁に向かって箱をたたきつけた。その衝撃で箱の鍵はこわれ、あっけなく気に開いた。
 晴れた空のはるか彼方にあるような、碧の色。小さいが、あふれんばかりの光の粒をふりまく石のかけらが鎮座する。それはまさしく「希望」だった。その言葉にふさわしい、ていねいな仕上がりの、でも二度と目に触れてはいけない存在であった――。
 開きっぱなしの箱からやがて、じわじわと音が聞こえはじめた。その音は間もなく、言葉の羅列となって、部屋中に響いていく。
「どいつもこいつもしあわせそうにしやがって、わたしのしってるところでもしらないところでも、みんなしあわせそうにしやがって、わたしはまったくばか、ばかがつみかさなっていく、なんでこんなになっちゃったの――」
 まるで輝く「希望」が語りかけているかのように、箱から漏れ出る、不幸にまみれた念仏。その声もまた、ただか細く、淡々としていた。
 僕はただ、呆然とする彼女を見つめて、おびえながら同情する。きっと彼女は、この世で最も救いのない不幸を背負うタイプの人間である。そして、これから先もその荷を下ろすことはできない運命にあった。だからこそ彼女は、パンドラの箱を買えたのだ。しかし不幸を閉じ込めていた箱を開けた代償は大きかった。だからこそ、こうして封印が解かれたあとのことは、たとえ自分のことでなくとも、あまりにもおぞましい。声はまだ、止まなかった。
「こどくからのがれられないおりのなかで、きぼうとはなにか、きぼうをまいにちさがしてるけどみつからない、どこにいけばいいの、わたしどこにいけばいい? わかんない、わかんない、わたしはほんとうにばか! さっさとでていけみんな!」
 耳をふさいで、彼女はどたばたと身をよじらせながら、狂おしそうに部屋中を走る。クマのぬいぐるみは蹴られて倒れる。部屋中の埃が舞い、その上に降り積もっていく。君は、開きっぱなしになってしまった箱の中に、「希望」を戻し、また引き出しにしまった。そして、あの笑みを浮かべたまま、僕に向かって手を差し伸べる。 「さあ、帰りましょう」
 気付くと僕は家の前に立っていた。
それ以後二度と君と会うことはなかった。僕は今も、この一連の出来事を誰かに話すべきか、秘密にするべきかあるか迷っている。それは主に、ひとつの疑問がまだ解決していないことに、納得がいかないことに原因がある。だがそれは、君の正体でもなければ、箱から呪文が流れる仕組みでもなかった。

「どうして彼女は、パンドラの箱を作る仕事に就いたんだろう?」