落ちる瞬間、   DKLV.



 誰もが何かを欲して生きている。とトイレの便器に腰かけながら俺は考えた。それが生きる者の性であろう。たとえ何を求めずにいようとも、無意識のうちに何かを探す旅に出てしまっている、それが人の生きる道なのだ。求めようとする精神がいけないのではない。そういった向上心のような心構えは、人間の成長の上で非常に重要な考え方だ。そうでなければ現代社会における人間の発明や様々な歴史的発見などは生まれなかっただろう。人間の歴史は戦いの連続である。国家間における領地の奪い合い、ライバルとの様々な競い合い。商人はより自分の品物を売ろうとし、学者は自分の理論で論敵を負かそうとする。しかしだからこそ世の中は進歩していくのであって、もしそういうことがなくなったら文明の進歩は止まってしまう。
 しかし何かを求めようとしても、なかなかその欲するものは手に入らないものだ。それに簡単に手に入るものだけ望んでいては、人間の精神衛生上ふさわしくない気もする。……さすが「三上」と呼ばれる場だ、こんなくだらない、人生に何の役にも立たないことをまさかこんなところ、こんな状況で考えてしまうなんて。ただ物思いに耽る場としては、もってこいだ。書くものが手元にないのがいささか残念ではあるが。
 いま俺が一番欲しているのはトイレットペーパーだ。それ以外のものは何一つ望まない。先ほど書斎で書き物をしていたところふと便意を催し、慌ててトイレに駆け込み用を足したところ、あるはずのトイレットペーパーがなくなっていたというわけだ。よりによって買い置きしてある予備が切れているとは思ってもみなかった。もちろんタンクの裏や足元に敷かれているマットの裏、小窓のわきに置かれている時計の下など、何かが置かれているかもしれないところは全て探してみたのだが、おおよそ紙の代わりになるものは何一つ見つからない。まだ探していないところはないかとトイレをぐるりと見回してみるが、紙の代わりになるものなど何もない。俺の身につけているシャツとジーンズのポケットには何も入っていなかった。万事休すである。服などは汚したくない。とにかく用を足せる紙が欲しい。それ以外のものは何一つ望まない。なのに何故そんな願いがかなわないというのか。
「おーい、誰かー」
 ドアの向こうの家人に呼びかけてみても返事がない。どうやら出掛けてしまっていて、家には俺ひとりのようだ。こうなってしまっては自力でなんとかしなければならないが、この状況ではお手上げだ。誰かが戻ってくるのを気長に待つしかない。しかし俺にはやらなければならない仕事が残っているのだ。どうしたものだろうか……。
 ふと窓の外を眺めてみると、家から少し離れたところにある切り立った崖の縁にひとりの女性がいた。俺の家は海のそばに建っており、家の裏手からは一面海が広がっている。その女性は姿勢を低くして片手でしっかりと草地に手をつき身体を支え、もう片方の手を岸壁に生える何か……あれはきのこだろうか……遠くからでは何か分からないものに向かって懸命に伸ばしていた。手を伸ばしている下はもう海である。海面へは一〇メートルほどの高さであり、浅瀬は岩礁になっているため落ちたらえらいことになる。危ないなと思いながら見守っていると、強い風が吹いて窓ガラスを揺らした。すると女性がかぶっていた赤い帽子が飛ばされそうになった。彼女は身体のバランスを崩す。すかさず帽子が飛ばないように伸ばしていた手で頭を押さえた。顔がこちらを向いたので、俺は彼女の表情を見てとれた。歯を食いしばって、必死そうだ。何をそんなに頑張る必要があるというのか。そんなたかだか崖に生えたような、よく分からないもののために。人間は不思議な生き物である。
 するとまたもや強い風が吹いて窓ガラスを鳴らした。この辺りは海風と、陸から吹き下ろす寒風が後を絶たない。そして女性はというとそんな強い風の中またも歯を食いしばりながら、何かのために一生懸命手を伸ばしていた。しかし彼女の頑張りを阻むかのように風が容赦なく身体を揺らしている。バランスがとれずに大変そうだ。すると彼女のかけていた眼鏡が崖下に落ちた。あっと声を上げる俺と、驚いた顔をする女性。伸ばしていた手で眼鏡をつかもうとした瞬間、彼女も一緒に落ちていった。俺の視界から女性は消えてしまった。
 大変だ。急いで救助を呼ばなければ。しかし俺はトイレから出られる状況ではない。まず求めているのは救助よりも紙なのだ。しかし女性を助けなければ命にかかわる問題になってしまう。俺は立ち上がって窓を開け、大きな声で外に呼びかけた。
「おーい、誰かー」
 外にいる誰かに呼びかけてみても返事がない。どうやら人通りがないらしい。この辺りの治安に問題があるようだ。人がひとり崖から落ちたのに、誰も気が付かないなんて。こうなってしまっては自力でなんとかしなければならないが、この状況ではお手上げだ。誰かがやってくるのを気長に待つしかない。しかし俺にはやらなければならない作業が残っているのだ。どうしたものだろうか……。
 ふと辺りを見渡してみると、家から離れたところにある険しい崖際にひとり女性がいた。俺の家は海に面しており、トイレの窓からはその海を横目に見ることができる。その女性はうつ伏せのような状態になって上半身を崖から下ろし、片手でしっかりと身体を支え、もう片方の手を岸壁に生える何か……あれはきのこだろうか……ここからでは何か分からないものに向かって懸命に伸ばしていた。手を伸ばしている下には冷たい海が広がっている。海面へは一〇メートルほどの高さで、波が荒くおまけに岩礁になっているため落ちたらひとたまりもない。危険だと思いながら眺めていると、強い風が吹いて大地を揺らした。すると女性がかぶっていた赤い帽子が飛ばされてしまった。俺も思わず身体のバランスを崩す。女性は途端に顔をこちらに向けて、天を仰いだ。おかげで俺は彼女の表情を見てとれた。歯を食いしばって、必死そうだ。何をそんなに頑張る必要があるというのか。そんなたかだか崖に生えたような、よく分からないもののために。人間は不思議な生き物である。見ると彼女の髪形もきのこのようであった。
 するとまたもや強い風が吹いて、雲行きを悪くしていった。この辺りは海風と、陸から吹き下ろす寒風が後を絶たない。そして女性はというと、そんな強い風の中またも歯を食いしばりながら、何かのために一生懸命手を伸ばしていた。帽子を失ったいま、何としてでもその何かを手に入れるかのようだ。しかし彼女の頑張りを阻むかのように風が容赦なく吹きつける。身体のバランスがとれずに大変そうだ。すると彼女の背負っていたナップザックが崖下に落ちた。あっと声を上げる俺と、はっとする女性。伸ばしていた手でナップザックをつかもうとした瞬間、彼女もまた崖下に落ちていった。俺の視界からその女性は消えた。
 大変だ。急いで助けを呼ばなければ。しかしいまの俺が助けられるわけもなく、そればかりかトイレから出られないのだ。なので、まず求めるのは救助よりも紙である。しかし女性を助けなければ見殺しにしてしまう。取りあえず窓を開けっ放しにしすぎたため身体が冷えた俺は、窓を閉めて温かい便座に腰かけた。そしてドアの向こうに声の限り叫んだ。
「おーい、誰かー」
 ドアの向こうの家人に呼びかけてみても返事がない。そういえば先ほど買い物に出掛けていってしまい、家には俺ひとりなのだった。こうなってしまっては自力でなんとかしなければならないが、この状況ではお手上げだ。家人の誰かが戻ってくるのを気長に待つしかない。しかし俺にはやらなければならない仕事が山積みになっているのだ。どうしたものだろうか……。
 ふと窓の外を見てみると、俺の家からほんの少し歩いたところにある切り立った崖の端に、ひとりの女性がいた。俺の家は海のそばにあるので、いつでも海を眺めることが出来る。件の女性は海を真下に臨むところに座りこんで、片手でしっかりと草地に手をつき身体を支え、もう片方の手を岸壁に生える何か……あれはきのこだろうか……遠くからでは何か分からないものに向かって懸命に伸ばしていた。手を伸ばしている下はもう海である。崖から海面へは一〇メートルほどで、波が荒い浅瀬は岩礁となっているので、落ちたら助かる見込みはない。おまけに鮫だか鰐だか、とにかくわけのわからぬ魚が泳いでいるので危険極まりない。何しているんだと思いながら見ていると、窓ガラスを揺らすほどの強い風が吹いた。すると女性は顔を上げて必死に身体のバランスを保とうとした。彼女は整えられた髪形を崩さないようにと、伸ばしていた手でなびく髪の毛を押さえた。顔がこちらを向いたので、俺は彼女の表情を見ることが出来た。歯を食いしばって、必死の形相。何をそんなに頑張る必要があるというのか。そんなたかだか崖に生えたような、よく分からないもののために。人間は不思議な生き物である。見ると奇抜なヘアスタイルの彼女は、悔しさをこらえるピエロのようにも見え、少し可笑しかった。
 するとまたもや強い風が吹いて窓ガラスが揺れた。この辺りは海からの風と、陸から吹き下ろす風とでいつも風が吹いている。そして女性はというと、そんな猛烈に吹く風の中、またも歯を食いしばりながら、目指す何かのために限界まで手を伸ばしていた。しかし彼女の頑張りもむなしく、風が彼女の身体を容赦なく揺さぶる。腕が振られ、身体の自由が利かずに辛そうだ。すると彼女のかけていた赤い眼鏡が崖下へと消えた。あっと声を上げる俺と、驚きを露わにする女性。伸ばしていた手で眼鏡をつかもうとした瞬間、バランスを崩した彼女も眼鏡と共に崖下へと落ちていった。俺の視界から女性はいなくなってしまった。
 大変だ。急いで救助しなければ。この海に落ちて命が助かるかは時間によって左右される。しかし残念ながら俺はトイレから出られる状況ではない。まず求めているのは救助ではなく紙なのだ。そしてどんなときも人間は自分の身が一番かわいい。だから状況が状況ではあるが、自分をさしおいて他人をどうこうしようなんて気は起きないのだ。
 俺は立ち上がって窓を開けた。そして家の周りを見まわした。道を行く人や車の姿はなく、近くには誰もいないようだ。女性がひとり崖から落ちたことにも、俺以外の人間は気づいていないみたいである。  取りあえず俺は、
「おーい、誰かー」
 とつぶやいてみた。そして鼻から大きく息を吸い込んだ。海から運ばれてきた潮が、鼻をひりひりさせたが、どうってことはない。しばらくして息をゆっくりと口から吐いた。
 風は強く、そして海は荒れていた。
 しかし静かだ。