Nostalgia   沼御前法華糊



 今日の塾は午後九時ちょうどに終わった。駅前の塾を出ると空は暗く、道を歩く人も日中に比べうんと少ない。ましてや田舎の駅前なのだから喧騒などといったものとは無縁の世界であった。そこにいるのは我が物顔で座り込んでいる柄の悪い男女数人のグル―プ、それに目を合わさぬように歩く塾帰りの学生、噴水の前にあるベンチに腰掛けて談笑しているスーツを着た大人たちぐらいであった。そのような人々を尻目に私は急いで駅の構内に入る。駅といっても待合室は小さく、自動販売機が一つと中央にストーブが一つ、壁には地元の子供が描いた交通安全の絵が飾られ、改札には駅員が一人だけといった小ぢんまりとした駅だ。もちろん切符は手動で買うし、suicaなんて使えない。駅と駅の距離も短いくせに運賃はかなり高い。そうでないと鉄道自体が存続していけないのだろう。さらに電車は30分に一本しか来ない。しかしその一本にも乗客はあまりいない。それが私の使っている電車だ。そして私は今、30分に一本の電車にギリギリ乗れなかった。
 こうなると次に電車が来るまでどうにかして暇を潰さなければならない。待合室に入り鞄の中を探るも、使えそうな物は携帯電話と音楽プレーヤーだけだった。普段なら音楽を聴きながら携帯電話を弄ればいいのだが、今日はどうにも勝手が違った。どのボタンを押しても反応がなにもない。滅多に忘れないのだが、充電を忘れていたようだ。よって今私が手にしている二つの機械は、全くと言っていいほどその存在意義を成し得ておらず、ただ真っ黒い画面に私の疲れた顔を映すだけなのだった。ここ最近は家と塾の往復だけで、家に帰っても時計の針が午前二時を指すまで勉強をしている。娯楽と言っていいものはなにもやらなくなった。ごく稀に友達とご飯を食べに行くぐらいだ。それすら今の時期はしなくなった。だから疲れている。


 そうして手持無沙汰なまま十五分が経過した時、誰かが待合室に入ってきた。季節は冬だったので、入ってきた人は重ね着はもちろん、帽子とマフラーと手袋までしていた。その人は寒そうに体を縮め、一目散にストーブに向かい、手を近づけてしばらくじっとしていた。ようやく暖かくなったのか、その人は私の座っている木で出来たベンチへとやってきた。そして、私を見るなり嬉しそうに声をかけてきた。
「後藤くん、奇遇だね」
 声に聞き覚えはあったのだが、頭を帽子で、口元を赤い綺麗なマフラーで隠していたので誰だかわからなかった。思い出そうと彼女の顔を眺めていると、顔を隠している物のせいだと気づいたのか、帽子とマフラーを取ってくれた。それで思い出した。
「あぁ、佐倉」
 私の声は驚きと喜びを含んでいた。高校時代から少し変わった佐倉の顔は、今までの退屈な時間を吹き飛ばして尚、余りある高揚を私にもたらした。彼女が顔を露わにした途端に、この小さな田舎の待合室がどこか華やかな場所の空気へと変わった。それほどまでに彼女の顔は整っていた。
「電車、逃したの?」
「うん、ちょうどね」
 口から出る言葉は久しぶりに彼女に会った緊張のせいか、自分のものではないように聞こえた。手をきつく握ってみると少し汗ばみ始めているような気がした。
「隣、いいかな?」
 それを知ってか知らずか、彼女は私の横に腰を降ろした。ひと際高く心臓が跳ね上がり、冬の夜だというのに汗をかきそうな気がする。
「ねぇ、久しぶりだね」
「そうだね、卒業式以来」
「あれからどれくらい経ったのかな、9カ月?」
「もうちょっと経ってるんじゃないかな」
「そう、ホント、あっという間だね」
 実際には卒業式から十カ月経っていた。最初の内、これから目指す目標に向けての準備や、ステップアップの想像は私を意欲的にさせた。しかし毎日が勉強と共に垂れ流されていき、気がついたらいつの間にか十カ月もの時間が過ぎ去っていた。もうすぐ二度目のセンター試験を迎えることになっている、同じく佐倉も。


「ねぇ後藤くん、どうにかして去年に戻れないかな」
 唐突に彼女はそんなことを口にした。
「えっと……どうして?」
「あのね、私が一番楽しかった時期が去年なんだ、文化祭、覚えてる?」
「うん、覚えてる」
 去年、高校三年生の文化祭、その頃の思い出を彼女は話し始めた。ストーブの上に乗っている蒸発皿が立てる音が私の耳から消え、彼女の声しか聞こえなくなっていった。
「私ね、文化祭の準備期間がとても楽しかったの、授業が短くなるのもあるんだけど、学校の空気がお祭りみたいになって、廊下に出れば誰かが大きな紙を広げて何かの作業をしてるの。みんないつもより声が大きくって、生き生きとしてた。そんな中にいられるのがとっても楽しかった。そういえば、いつだったか雨が降って展示物が濡れちゃう騒ぎがあったよね。覚えてる?」
 覚えている。文化祭前日の放課後に降り出した雨はあっという間に勢いを増し、気づけば校庭に大きな水たまりをもたらした。誰かが気づいた時には私達のクラスで作った展示物は水に濡れ、作り直さなければならなくなってしまった。そして、
「それでみんなで学校に泊まって作り直したんだよな、先生に無理言ってお願いして。」
 どうしても帰らなくてはならない数人を除いて、クラスのほとんどが学校に泊まり、展示物を一心不乱に作った。誰一人として文句を言う者はおらず、互いに励ましあいながら完成を目指した。雨はその一晩中降り続け、ザァザァという音が学校を他の世界から隔離したような気にさせた。学校全体に私達四十人だけという、あの奇妙で素敵な夜は、あの空間にいた者全員の記憶に深く刻まれたことだろう。朝を迎える少し前に展示物は完成し、感激の声を上げ、全員で教室に倒れ込んだ。
「同じジュース買いすぎて自動販売機が売り切れになっちゃたんだよね」
「先生が差し入れ持ってきてくれて、みんなで食べたよな」
「すっごい楽しかったなぁ」
「文化祭も大成功だったよな」
「うん、できるなら戻りたいな」
 そう呟いて彼女は息を吐いた。懐かしい記憶が吐息に混じって微かにその場に留まる。もう戻れない、頭の中にしかない、おぼろげになるのを待っている記憶。彼女の話が引き金になり、私の過去はその煌めきを取り戻し、どうしようもない懐旧の念を芽吹かせた。そうなるともう止まらなかった。今まで気づかなかっただけだったが、私は彼女と同じく過去に戻りたかったのだ。それは現在からの逃避だとわかっていたけれど、喉元までせり上がった気持ちは行き場を無くし、白い息になって空中に消えるだけで精一杯だった。
「本当、懐かしい」
「私ね、こうやって誰かと電車を待つ時間、久しぶりだから楽しい」
「高校の時は当たり前だったもんな、電車を待つ間はいつも誰かと一緒だった。それで待ちながらいろんな話をした。隣のクラスの誰々が可愛いだとか、彼女にするなら誰がいいとか」
「そんな話してたんだ、ねぇ、誰が人気あったの?」
「え、あぁ、そうだな、2組の伊藤とか6組の大橋とかかな。」
「へぇー、夕里ちゃん人気あったんだね」
「そういえば佐倉と伊藤、仲良かったよな」
「うん、部活動が一緒だったし気が合ったから。夕里ちゃんがホルンで私がサックス、毎日一緒に練習したの」
「吹奏楽部の練習、よく聞こえたよ」
「本当? 下手に聞こえてなかったかな」
「ううん、綺麗に澄んだサクソフォンの音だった」
「ありがとう」と笑顔で彼女は言った。 
 彼女にするなら誰がいい、こんな子供じみた話題が出るたびに私は佐倉の名前を挙げていた。それは本当にもしもの話で、現実に起こるはずのない淡い幻想なのだ。だからこそ今、私の昔の思いは微かな期待と共に静かに脈動を始めていた。


「あ、そろそろ時間だね」
 壁に掛けられた時計を見ると、もう電車が来る時間になっていた。私達は立ち上がり、暖かい待合室を後にしてホームへ向かった。外に出ると凛とした冷たさが体を包み、視界も思考も透き通るようだった。そうして思った。もっと佐倉と話したいし、もっと話を聞きたい、お互いの離れていた時間を埋めたかった。だからホームへ向かう途中、意を決して言ってみた。
「なあ佐倉、連絡取れるようにアドレス交換しとかないか。」
 佐倉と私は互いのアドレスを知っていなかった。佐倉は仲が良い男子があまりいなかったようだし、私にアドレスを聞く勇気はなかった。新年度にアドレスを聞くタイミングを逃して、そのまま卒業まで経ってしまったのだ。
「……あ、そうだ……」
 携帯電話を取り出して気づく。そうだった、私の携帯の充電は切れていた。なんて間抜けなのだろう。今日に限って充電を忘れるなんてタイミングが悪すぎる。それに自分のアドレスなんて覚えていない。
「ごめん佐倉、俺の携帯、今充電切れてる」
「そうなの、じゃあ連絡どうしよっか……」
 うーん……、と眉間にしわを寄せて真剣に考えてくれた。可愛い。
「えっと、俺、明日もこの時間にここにいるよ、だからもしよかったら、来てくれれば嬉しい」
「うん、なんか面白いねそれ、じゃあそうする」
 ホームから見上げた空はとても綺麗で、そう思ったのは隣に佐倉がいるからなのだろう。電車がホームに入ってきた、しんしんと雪が静かに降っている。少しだけ積もっているそれを足で払うと下の地面が見えた。明日、彼女が来る保証はどこにもない。そう考えると目線が下の方を向いてしまうので、彼女はきっと来てくれる、そう願って降って来る雪を見つめた。
 電車は速度をほぼゼロにし、薄暗いホームを照らした。電車の灯りに照らし出された佐倉は驚くほどに鮮やかで、鮮烈なほど綺麗だった。風に揺れる絹のように綺麗な髪の毛と、例えるなら桜を連想させる肌は貴く感じられ、同時に世界に一人だけ残されているような儚さを含んでいた。


 車内で佐倉と私は向き合うように座り、先ほどの話の続きをした。私達が乗った車両に乗客は誰もおらず、広い空間に二人だけだった。英語の先生の独特の喋りを真似ると彼女は笑った。佐倉は私が知らなかった購買のメニューについて話してくれた。こうして話してみると、私達は共通の思い出とそうではない思い出を半分ずつくらい持っていることが分かった。今日一日だけで随分と佐倉について詳しくなった気がする。彼女の人間的な部分、ふとした拍子にする仕草や表情の豊かさ、睫毛の長さや頬の膨らみや、そういったものが以前よりも分かって、彼女を身近に感じることができた。そうしていくつかの駅を過ぎた時、ふと佐倉は私を見てこう言った。
「後藤君、また会おうよ。駅の待合室で、今度は暖かい飲み物を買って。一人で昔を思い出すと寂しいけど、二人なら楽しいよ」
 そう言った彼女は本当にこの時間が楽しかったらしい、可愛らしく笑いながら、きらきらとした素敵な目をした。それがどんなに嬉しかったか、先ほどまでの不安は消え失せて、つい顔がほころんでしまった。明日は自動販売機で暖かい飲み物を買って待っていよう、そう思った。
「なぁ佐倉、去年に戻れたら何したい?」
 そして、気になっていたことを聞いた。
「なにもしないよ、ただもう一度あの空気を感じたいだけ。後藤君は?」
 答えは私が考えていた物と同じだった。ただ何もしないであの頃の教室に帰れたならそれでいいのだ。そこには欲しいもの全てがあったから。
「うん、俺も一緒だ」  がたんがたんと電車が揺れる。こんな酷い揺れ方、きっとこの鉄道だけだ。
 真っ暗闇の中を電車は一定のスピードで走り続ける、季節に逆らうように私達を乗せて。佐倉が窓の外を見ていたので、私も窓の外を見てみた。建物の灯りは遠くに少ししかないから、地面を走っている感覚は薄く、電車は海か空を走っているように思え、まるで童話の世界にいるようだった。本当にそうなら、今はもっと遠くへ運んでほしい。
 この電車を降りたらまた一人で日常を迎えなくてはならないなら、券売機の一番端の駅のもっと向こう、誰も知らない場所に運んでほしい。そう思って向かい側に座っている彼女を見つめた。