にえぶら   五十畑 啓太



 迎えの車の中で、結露した窓ガラスをぼんやり眺めていた。
 後部座席で半分眠りに落ちながら、私はカーラジオから流れる退屈なニュースを聞くでもなく聞いている。こんな、ありふれた事件など一時間もしないうちにすっかり忘れてしまうだろうなと思う。もうすぐ今年も終わりだ。
 途中でコンビニに立ち寄った。運転席の彼女は、車から降りしなに私に声を掛けた。
「待ってる?」
私は無言で頷いた。
「寒いからエンジン掛けとくよ」
 ふと、私はきっと幸せなんだろうなと感じた。フェイクファーのマフラーを首に巻いた、彼女の背中が凛としていた。
 この寂しい田舎町のコンビニは店舗に対して駐車場が極端に広い。一〇tトラックでも余裕で駐車できるほどの面積はある。店の周囲には田畑が延々と広がっていて、いつもなら遠くの人家の明かりがここから点々と見える。だが、それも今日は深い霧に包まれて全く見えない。
 妙に息苦しさを感じて窓を開けた。県道を挟んで向かい側の少し奥まった場所にある、舗装されていない老人ホームの駐車場で、砂利の上に林立する街路灯の明かりがやわらかく煙っている。揺らめく蝋燭の炎に照らされる教会の祭壇のような、それでいて、川崎あたりの工業地帯で真夜に煙を吐く製鉄所の光の群れのような光景に、私は眠気も忘れて見入ってしまった。

 アパートに着いて、少し遅めの夕食を済ませた後、風呂に入った。湯船に浸かりながら、あの眩惑的な光景をぼんやりと思い浮かべた。朝までにはきっと、跡形もなく消えてしまうだろう。夜が明け、霧が晴れれば失われてしまうその儚さに心惹かれる。だが、失われていくのを知りながら、そのまま何もせずに見過ごすことはどうしてもできそうにない。
 風呂から上がり、テレビを眺めながら着替える。彼女がシャワーを浴びる音が浴室から聞こえてくる。私はパジャマの上からガウンを羽織り、カメラを抱えて外に出た。

 老人ホームの駐車場までは自転車で一〇分ほど。今度は遠くから見ているだけでは飽き足らず、その場に足を踏み入れた。駐車中の車は一台もない。しなやかに湾曲したポールの先から放たれる赤橙色の妖しい煌めきに魅入られ、私は夢中になってシャッターを切った。気が済むまで写真を撮ってから、光と霧が織りなす光景をじっくりと眺めた。
 だが、何の気なしに街路灯に近寄って直に触れた瞬間、印象は一変した。
急に、罠に嵌められたのかもしれないという不安に駆られた。霧に濡れているせいか、それが何らかの意思を持った生命体であるかの如く感じられる異様な迫力がある。栄養を求めて棘の鋭い根を触手のように縦横無尽に這い回らせ、光沢感のある禍々しい色の葉を繁らせる、動植物がごちゃ混ぜになったような奇怪な生物を連想した。
「お前はいったい何を吸い尽くして、そんなに大きくなったんだ?」
 自分の思い付きに呆れながら、ほんのシャレのつもりで声をかける。ふいに、何かが蠢くような感触を覚えた。足元にはクリーム色の破片が散らばっていた。
 突然、携帯が鳴った。彼女からの着信だった。
「もしもし、今どこにいるの?」
「あ、ごめん」
 責めるような調子の声にたじろいで、いきなり謝ってしまった。
「何も言わずに勝手に出ていくのやめてよ。鍵も開けっ放しだし」
「……すみません」
「本当に何やってるの?」
 もうすぐ帰ると伝えて、慌てて電話を切る。迎えに来てくれるらしい。だが、自転車はどうするのだろうか。ため息が白い。携帯もびっしょり汗をかいたように濡れていた。
 駐車場の奥の柵にもたれ、霧に包まれた遠くの集落の方を眺める。街路灯に宿った生気とは対照的に、暗澹たる光景が広がっている。あるはずの人家の気配が全く感じられない。ただ、足がすくむほどの深い闇を湛えた何かが口を開けてそこに横たわっている。
 もしかしたら、この先にあるのは養分を吸い尽くされて腑抜けのようになった集落の残骸かもしれないな、と思った。背後の街路灯はむせ返るような生気を放ちながら、風で軋んでいる。
 向かいのコンビニの青い看板は、あらゆる光が霧で行き場を失っているせいか、仄暗く不穏な気配に包まれている。自転車がなくなっていた。彼女のマフラーが街路灯に結えつけられていた。