モノクロームの行進   みゆき



 今日も、平凡な一日だったなあと私は思う。風呂上がりの体温を維持したまま飛び込んだ布団はすぐに暖かくなって、私をうつらうつらした世界に誘ってくれる。意識が肉体と現実から引き剥がされるこの時間は、間違いなく世界で一番幸せだ。
 そんな世界一くだらない確信のもとで私は考える。幸せとは関係ないような、平凡な一日のことを。いやさ、もちろん平凡なのが幸せじゃないなんて言うつもりはないよ。だって私がこうしてのほほん、と平和ボケしきって暮らしている世界の裏では、デッドオアアライブなんて言葉の通りの生活をしている人たちがいることだってちゃんと知ってる。ただそんなこと知っていたって、私の一日が平凡であることにはなにも変わらない。
 朝トーストを食べて、制服に着替えて、スーツだらけの中央線に揺られて学校へ。この時期はスカートだと寒くて嫌になる。昼間は適当に授業を聞き流して、終わったらみんなと寄り道したりしてから帰宅。夕ご飯とお風呂を済ませておやすみなさい。ああ、なんて平凡。
 明日は平凡から抜け出せるといいなあ、なんて。他力本願もいいところな願い事をしながら、私の意識は明日へ向かって消えた。


 気がついたら目の前には鏡に映った、歯磨き中の自分がいた。両サイドの髪は鹿の角みたいに跳ねていて、口の端からはだらだらと歯磨き汁が垂れている。だらしないなあ朝の私は。
 シャコシャコといい音を立てるブラシは弱っちい歯茎を傷めつけて、口の中には鉄の味が広まっている。毎朝の恒例だった。
 口をすすいでから、着替えるべく部屋に戻る途中、リビングでは母が私のブラウスにアイロンをかけてくれている。
「おはよ」
「挨拶くらいしっかりしなさいよ、みっともない」
 叱りつつも母のアイロンをかける手は休まない。ものぐさな私は絶対に自分でアイロンなんてかけないから、もしこの先一人暮らしなんてしようものなら毎日皺くちゃの服を着るんだろうなあ。母の後ろの窓から差す朝日は、仏様の背景によく見る後光みたいだ。
「はいブラウス、さっさと着ちゃいなさいね」
 手渡されたブラウスに袖を通しながら、こんな会話ももう何度したんだろうと考えてしまう。毎朝歯磨きをして歯茎から出血して、ブラウスを受け取って、そのあとにその日の昼食代をもらう。RPGでよくある、死んだあとのやり直し地点に私は毎朝立ち返っているようなものじゃないか。僅かばかりの装備と旅立ち資金を渡されて、いってらっしゃい。ひどい話だと思う。
「あとこれ、お昼代の千円ね」
「足りないよねえ、こんなんじゃさ」
 つい軽くなった口から出た言葉は即座に母の顔を曇らせて、差し出された千円は元いた財布へとんぼ返りしてしまった。さようなら千円、母の機嫌が直ればまた明日会えるよ。
「足りないなら自分でバイトでも援交でもすれば?   女子高生なんて引く手数多だろうし」
「いやあ、それはちょっと……」
 親から援交を勧められるなんて、たぶんこの近所では私だけかもしれない。更年期障害なのかとんでもなく目の吊り上った母に、私は口角を吊り上げて笑みを返す。女の敵は歳だ。
「あんた世の中舐めてるんじゃない? 私だって若いころはそうやってお金稼いだわよ」
 知りたくなかった、とても父には教えられないような情報を開示されて耳を塞ぎたくなる。だいたいだってってなんだ、私の周りではそんな非凡が日常的に起こっているのか。
 私の言葉づかいなんかよりも、あんた自身の方がよっぽど不味いよお母様。なんてことは到底言えるわけもなくて、私はぐれた娘みたいにドスドス足音を響かせながら自室に退却した。後々のことを考えたら下手なことを言うよりもこうすべきなはず。戦略的撤退、いい言葉だよね。
 帰ってきた自室は部屋の主という熱源を失って久しかったようで随分ひんやりとしていた。足の裏から伝わる冷たさは一番身近にある冬の象徴だ。
 年中秋の初めくらいの気温ならいいのになあと、学校指定の黒無地タイツを履きながら思う。でもそうなったら今よりも平凡な日々になるのか。
「いってくるー」
 怒られたけど、もう私はなんともないですよーってアピールをして私は家を出た。ささやかな抵抗。
 寒い寒い駅までの道中で寄ったコンビニのレジ店員には、私より少し年上くらいの女の子と、できる人って感じの大人の女性がいた。こんな早朝から働いてくれる人のおかげで、私は今日の昼も購買に行かなくて済むんだ。ありがたいけれど、でも働く側には回りたくない。
 スーツだらけの列に並んで、パン二つとミルクティーを買って店を出る。出る直前で、出入り口の脇にあった求人誌をこっそりとビニール袋に入れた。気分は革命前夜だ。


「明美ってバイトしてるんだっけ?」
 コンビニで買ったコーンマヨパンを頬張りながら明美に訊ねた。
「してるっちゃしてるし、してないっちゃしてないかな」
「なにそれ」
 明美はおいしそうにサラダパスタを食べながら返事をしてくれた。要領は得ないけれど、バイトはしているそうでえらいなあと思う。
「まあ私のはいいじゃん。なに、杏里バイト探してんの?」
「探してるっちゃ探してるし、探してないっちゃ探してないかな」
「なにそれ」
 あほらしい会話が楽しくて二人して笑った。明美は髪は明るくしているしメイクもばっちりって子だけど、なぜか私とウマが合う。たぶん傍から見たらなんで一緒にいるんだろうってくらい、私は彼女と対照的に見えるだろう。もしかしたら運命とかなのかもしれない。私の性別、男でもよかったなあ。
「求人誌見たんだけどさ、どれもきつそうだし高校生の待遇悪いしなんかなあって」
 別に大してお金を使わない私からしたら、働くにしても週に一日で十分事足りてしまう。それなのに社会はそれを許してはくれないようで、しかも高校生は時給を安くされるだなんて。募集欄を眺めているだけで、高校生は働かなくていいんだと肯定されているような嬉しい気持ちになってしまった。社会は冷たくも優しい。
「バイトさ、探してるならいいのがあるよ」
 教えて、と言おうとしたところで先生が教室に入ってくる。いつチャイムが鳴ったんだろう、タイミング悪いなあ。
 明美は後でね、というような目配せをして席に戻っていった。ただちょっと表情を変えただけなのに様になるのは正直羨ましいけれど、目配せの意味を理解できるのはクラス内で私だけだと思うとなんだか満足した。午後の授業も寝ないで乗り切れるくらい。食べかけだったパンを口に突っ込む。コーンが一粒、床に転がった。


 なんだって七限なんてコマを学校は作るんだろう。特に冬なんて日が落ちるのは早いし、暗くなる前に帰らせるのだって教育の一環だと私は思う。電車も混むし。
「帰らないの?」
 肌寒い駅のベンチで私と明美はぼんやりしていた。もう二本くらい電車を見送って、けれど明美は動こうとも話そうともしない。バイトの話を教えてもらう手前先に帰ることもできないし、けれどなんだかもう面倒なので帰ってしまいたいなあと思いつつも言い出せない。明美と私は同じような状況だ。
「今日はこのあと用事があるから、反対の電車なんだ」
 そうなんだ、と生返事。用事があるなら早く話してくれればいいのに。寒さとじれったさでもぞもぞ、トイレに行きたいわけではないですよみなさん。
「バイトさ、興味あるなら私についてこない?」
「いや、さすがにいきなり紹介はちょっと」
「大丈夫、少し相手するだけだから。ね?」
 なんとなく、私は察してしまう。風はむかつくくらい冷たく頬を撫でて、でもそれがちょうどよかった。
 もしかしたら、私より母の方が女子高生をやるには向いているのかもしれない。
「ごめん。それは無理」
 そう言って見た明美の顔は腹痛でピークが来ているときの私みたいで、なんだかとても申し訳なくなる顔だった。でもそれは無理だわ、引くわ。罪悪感あるなら誘わないでよ。心の中で散々に言ってやらないと気が済まない。ちょうどホームに飛び込んできた電車に飛び乗る。振り返って見た明美は誰かと電話をしていて、ひどい顔色だというのに、きっと猫撫で声で対応しているんだと思う。それが無性にムカついて誰も座っていない優先席に座ってやると、なぜか視界がぼやけた。
 バイトの話を振らなければ、母に適当なことを言わなければ、平凡だとか考えなかったら、今日の一日だってなにも変わらないはずだったんだ。馬鹿だなあ私は。
 スーツ姿のサラリーマンたちからの視線が鬱陶しい。平凡に嘲笑われているように感じてしまう。ナチュラルボーンサラリーマンでしかないくせに、私に平凡な視線を向けるなよ。ちくしょう。
 ようやくついた最寄駅で逃げるように電車を降りる。わらわらとどの扉からも湧き出てくるスーツたちを見たくなくて、全力で改札までを駆け抜けた。
 駅前の商店街は普段となに一つ変わることはなくて、きっと私も表面的にはなにも変わってやしないんだ。急に走ってびっくりした心臓と呼吸と、いろんなものを落ち着けるためゆっくり歩いた。
 朝のコンビニが目に入る。レジにはまだ、少し年上の女の子が入っていて、客の醜いおじさんになにかを謝っているようだった。私は鞄から求人誌を取り出して、コンビニ前の燃えるごみに叩き込んだ。