水泡と永久の玉   葛葉



「さっちゃあん!」
 自分の名前を叫ぶ声に振り向くと予想した通り、文彦が走ってきた。ものすっごい笑顔で。
「どしたん? というか、今日はおじさんの手伝いがあるっち言いよらんかったっけ?」
 文彦の家は村で唯一の織物屋だ。みんなの普段着も、お偉いさんたちの綺麗な着物も、なんでも作れるって自慢してた。
「本当は本州の商団がきて忙しくなるはずやったんやけど、遅れとうらしい。まぁ、俺としては手伝いなくなるけん嬉しいけどね」
「ふうん」
「それより、高塔山に遊びに行かん? いま桜が満開やけ、っち志信が」
 高塔山と言えば、地元で有名な桜の名所である。この時期には酒瓶を片手に訪れる者も多い。
 それから、僕らの秘密基地がある場所でもある。
「行く! あそこに行くんやろ?」
「決まっとうやん! あそこで見る桜は格別ばい。だって俺ら以外に誰も居らんしね」
 歩きながら道端に生えていたぺんぺん草を引っこ抜き、葉っぱを絶妙な力加減で裂いていく。
 ぺり、と裂かれた葉っぱは薄皮一枚でぶら下がっている。
「あーもう! また千切れたし」
 横を見れば文彦も同じことをしていた。葉っぱの数が異常に減っているそれを捨てて新しく引っこ抜く。
 ぺり、とすべての葉っぱが綺麗に裂けた自分のぺんぺん草を見て、優越感に浸る。
「そういえば、志信は? 迎えに行くん?」
 くるっ、くるっ、とぺんぺん草を回せばからからと音が鳴った。
「いいや。先に行っとうよ」
 俯いたままの文彦が答える。
 あ、また切れた。
「っち、もういいや」
 むしゃくしゃした文彦がまだしっかりとくっついている葉っぱが残るそれを投げ捨てた。
「……これいる?」
 にやにやしてぺんぺん草を差し出せば、思いっきり頭を叩かれた。
「いらんし!」
 秘密基地に着くと、志信が茣蓙(ござ)の上で仰向けに寝っ転がっていた。
「志信ー、さっちゃんも連れてきたばい」
「おー。つか、遅いっちゃ!」
「ごめんごめん」
 へらぁ、と笑いながら文彦が謝る。遅くなったのはぺんぺん草に(文彦が)熱中しすぎたせいだけど。
「いやあ、最初さっちゃんがぐずっちゃ……いて!」
 無言で頭を叩いておいた。まぁ、志信が真に受けるわけないけど。
「どうせ寄り道でもしよったんやろ、文彦が」
 さすが、わかっていらっしゃる。
「それより、見てん。なんかわかるか?」
 そう言って志信が掲げたのは酒瓶。
「酒瓶やん。……え、酒⁉」
「うっわー、どうしたんそれ」
 文彦も知らなかったようだ。
「家からくすねてきた」
 あ、そっか。志信ん家は酒屋だから。
「なぁるほどねー」
「いやいやいや、納得すんなよ文彦! 僕らまだ飲めんやろ」
 僕らは十二。成人までまだまだだ。
「何事も経験ばい、さち」
「そうっちゃ。お酒も飲まんと大人になれんとよー、さっちゃん」
 そんなわけないし。……でも。
「あーあ、さちはいらんのか。そっかそっか」
「…………いる」
「よっしゃあ! ではでは、三人で花見酒と洒落込みましょうや」
 そのあと慣れない乾杯をして酒を飲んだけど。一口飲んだ瞬間、なんとも言えない苦い味がして杯から口を離して無言になってしまった。
ちらっと横を見れば、文彦も微妙な顔をしていたが、なんでもない風を装って飲み続けている。志信はといえば、全然僕らのような様子は見受けられない。やっぱり、さすが志信。

綺麗に咲き誇っていた桜は散って、村と高塔山は緑に覆われた。もうすぐ、雨の季節がやってくる。
ぱしゃん、
「ふぅ。やっぱ水ん中は気持ちいいばい」
 手足の指の間にある水掻きに、腕と脚についたヒレ。本や絵巻で見るような皿はないけど、この姿は正真正銘、河童のものである。
「あ、約束の時間やん。急がな!」
 高塔山の秘密基地。登山口からはちょっと外れたけもの道を上がって、ぽっかりと開けたところにある。板や藁で木々の間に屋根と囲いを造って茣蓙を敷いた、簡単な小屋もある。自分たちで材料を集めて完成させた力作である。
 約束の場所にたどり着いたときにはやっぱり二人ともすでに集まっていた。小屋の中で思い思いにくつろいでいる。
「ごめーん、遅れた!」
「やっときたばい。志信ー、さっちゃんきた」
入り口近くで転がっていた文彦が身体を起こしながら志信を呼ぶ。志信は奥の物置でなにやらごそごそしていた。
「わかっとう。よし、始めるか」
「始める、ってなんを?」
 小屋の真ん中に座って話す。屋根で陽が遮られるから涼しくて快適だ。
「ふふん。今日はね、特別なまじないをするんばい! 志信が主導でね」
「お前が威張んなっちゃ」
 胸を張って活動内容を告げる文彦に志信が突っ込む。
「いいやん、それくらい。で、具体的になんすると?」
「知らんで言いよったん……」
「あー、進めるぞ」
 なかなか先に行かない話が志信の二度目の号令によって進む。
「まじない、っち言うか、願掛けみたいなんやけど。これ」
 そう志信が円座の中心に置いたのは三つの透明な玉。それらが光を反射して茣蓙の上に不思議な模様が織りなされる。
「すっげぇー綺麗」
 ほう、と文彦が玉を覗き込む。玉には周りの風景が逆さまになって映っている。
「どしたん、それ」
「こないだ、たまたま小さい水源見つけたんよ。その水が出よるとこにこれがあったんちゃ」
「へぇー」
 でも、高塔山にそんな水源あったっけ。他の山かな。
「これ絶対神様の落しもんばい」
 断言する志信に文彦が素っ頓狂な声を上げる。
「かみさまぁ⁉」
「ここらの産土神(うぶすながみ)のやないかと俺は思っとる」
 志信は真面目な顔で続けるけど、文彦ならまだしも、志信がこんなこと言うなんて珍しいな。
「てか、神様のやったら勝手に取ったらいけんやろ」
 普通。罰当たりなこと、じゃないのか。
「はっ、そーっちゃ! 祟られるんやないと?」
 じっと玉に魅入っていた文彦が青ざめた顔で慌てる。
「大丈夫やろ。村の産土神やけん、村人の俺らが落としもん拾ったくらい、許してくれるっちゃ」
「ま、まぁ、確かに」
 そんなものか。もし怒ってたらこっそり謝りに行こう。たかが河童の願いを神様が聞いてくれるかはわからないけど。
「じゃ、これ一個ずつな」
 志信がひとつ手に取って巾着袋に入れた。
「よっしゃあ、あんがとー志信!」
「ありがと」
 自分もひとつ取って、小屋の外を玉越しに透かし見てから懐の巾着袋にしまった。
「これはお守りやけんね。あと、ここを含め秘密を共有する俺らの友情の証っちゃ」
宝物を手に入れたみたいに、どきどきとした不思議な高揚感のような優越感のようなものに満たされた。
いや、宝物なんだ。なんたって、神様の落としもん、なんだから。それで、僕らの証。

最近、頻繁に身体が水を求めるようになってきた。気温が高くなっているせいもあるが、雨の気配がますます強くなってきているからだろう。
高塔山の普段は人気のない池。昔人工的に造られたらしいが、いま利用している人はいない。しかも貯水池なのだろうか、嬉しいことに自由に泳ぎ回れるほど広いのだ。
随分前にいなくなった母さんがダメ、と口を酸っぱくして言ってたから、こうやってこっそり水に潜るのだ。
近くの岩場に脱いだ着物を置く。
ばっしゃん
一番池に近い岩から飛び込むと、衝撃で飛び散った水の球がきらきらと舞った。
濡れたときに自然と出てきた水掻きで水を蹴る。まっすぐ泳いだり、底すれすれで泳いだり。仰向けになって上を見れば光と影の不思議な模様が揺らめいていて、こぽ、と自分の吐いた気泡がぷるぷると震えて形を変えながら光の中に溶け込んでいった。
ひとしきり水中を駆け回ってから水面へ向かう。勢いそのままに出れば、ぱしゃん、という音とともに煌めいた強い光が目を射した。
「ふぅー」
さすがにエラ呼吸なんて芸当はできないから、思いっきり息を吸い込む。
すー、と移動して飛び込んだ岩場に手を掛けた。上がろうと力を込めたとき、がらがらと車を引くような音が聞こえ、とっさに池に戻る。岩陰にいれば向こうからは見えない。
そっと覗けば、二十人くらいの人と、五頭の馬と、それに引かれる荷台があった。
「文彦が言っとった商団ばい。やっときたんか」
 でも、タイミングが悪すぎる。よりによって泳いでるときにここを通るとか。しかも、結構近い。どうしよう。
「ん? おい止まれ。あそこに着物があるぞ」
 気づかれた!
「ほんまや。誰かそこ居るんか?」
 商団の用心棒らしき、がたいのいい男が岩の上に置いておいた着物を手に取った。その拍子に巾着袋が落ちて、中から透明な玉が転がり出た。
「ガキのやな。ん、なんか落ちたか?」
「へぇ、こりゃ綺麗な玉やな。上質の水晶かいな? 見たことあらへんくらい澄んどるわ」
「だがこんな着物着るようなガキがそんな上等な玉を持ってるとか、おかしくないか?」
「確かにねぇ。どっから盗ってきたのやら」
「持ってくか」
「ええのかい? 君こそ盗人になるんやないよ」
 ああ、行ってしまう!
 もどかしさから身動ぎしたとき、水面がぱしゃ、と波打った。
 ぶるるるる、がたんっ!
「おいおい、どうしたんだ。いきなり馬が暴れ出したぞ」
「さっきからなにやら怯えていたようやし、一体なにが隠れておるんやろうねぇ、ここは」
「っち、くそが。おいそこにいるんだろう。出てこい!」
 やばいやばいやばいっ、こっちくる!
 ざっ、と間近で足音がしたと思ったら、腕を掴まれた。
「ここにいた……お、おい! こいつ河童だ!」
 そのまま引きずり上げられる。乱暴に地面に叩きつけられた。
「いたっ」
 ざわり、
 河童だ、河童だ
 なんでこんなところに
 狙いはなんだ
 尻子玉か? 馬か?
 どちらにせよ、忌々しい
 殺せ、今ならまだ間に合う
 そうだ
 そうだ
 逃がせばつけ上がるに決まってる!
 殺してしまえ!
「落ち着け! まだガキだとしても物の怪だぞ。俺らで殺せるものか」
「そうやろうねぇ。村まで連れて行くのはどうや。この地方は皿倉山とかに山伏がおる、て聞いとるし、その手のもん頼むには困らんやろう」
「そうだったな。それなら問題ない。おい、空いてる樽に閉じ込めとけ」
 大男二人に抱え上げられる。
「やだ! なんもしとらんやろ! なんで連れてかれないけんのっちゃ‼」
「うるさいっ。なんを言っても無駄じゃ! 物の怪なんぞに惑わされるような柔なやつはここには居らん」
 子ども一人くらいは簡単に入れる樽のなかに落とされた。上から着物と巾着袋が降ってくる。
「玉も返すぞ。物の怪など、得体が知れない奴のものはごめんだ」
 最後に玉が投げ入れられて、蓋が閉められた。
 ほどなくして、がたりと動き出したのがわかった。
 玉を握り締めながら着物を着、膝を抱えてぎゅっと目を瞑った。
 これが悪い夢だったらいいのに……

 自分を囲う注連縄に榊。夕闇で揺らめく松明。それに合わせて動く影。目の前の怖い顔をした山伏。遠巻きに見守る村の人たち。……目が合って気まずそうに走り去って行った文彦と志信。
 それが、僕の世界が終わる瞬間に見たすべてだった。


『郷土若松には、郷土作家火野葦平筆「石と釘」により、全国にあまねく知れ渡っている、心楽しい河童の伝説があります。

 昔、それはいつの頃かわからない、ず~っと昔のことです。
 若松の修多羅と島郷のかっぱ群は、常に縄張り争いのいざこざが絶えず、しばしば両河童群は手に手に葦の葉をひらめかして、高塔の空高く舞い上がり、ひょうひょうと飛び交い、打ち合いの戦いを繰り広げ、撃ち落とされては田畑に青みどろに流れ淀んで、農作物の被害はおびただしく、百姓の嘆きは大きいものでした。
 これを聞き及んだ山伏堂丸総学は、この農民の難を救わんと、高塔山頂の地蔵堂に篭り、河童封じの祈祷をはじめました。
これに驚いた河童群は、和を結び力を合わせて祈祷の妨害、誘惑に力を尽くしましたが、総学はこの苦難に耐え、やがて一念は成就して、豆腐のようにやわらかくなった地蔵の背に鉄の釘を打ち込み、河童を封じこめましたが、山伏もまた力尽きて倒れました。
願いは叶って郷土若松に再び平和がよみがえったということです。
(「高塔山火まつり行事由来記」若松まつり行事協賛会)』
「はいっ、皆さんお疲れ様です。高塔山の頂上に着きました。班ごとに昼食を食べてください。食後は時間まで自由行動です。遠くまで行かないように! それから、せっかく高塔山にきたのだから河童地蔵を見ておくことをおすすめします。……他の先生方からはなにかありませんか? ……いいですね。じゃ、解散」
 教師の号令でクラスごとに並んでいた小学生たちが一斉に動き出す。
「俺らここ取ったぁ!」
「えー? うちらもそこにしようかと思っとったのに」
「そんなん早いもん勝ちやし。急がな他のいいとこもなくなるばい」
「もー……行こうや」
 みんな思い思いの場所にシートを敷いて弁当を広げる。
 桜や紫陽花の時期には花見客が、そうでない時期にも市内の幼稚園や小学校の遠足が。もちろん家族連れも。高塔山にはいろんな人が訪れる。
「知っとった? 高塔山には昔河童が居って、いまも封印されとんよ」
 やんちゃそうな少年が得意げに話す。
「知っとうし。てか遠足の前に総合の時間で先生が言いよったやん」
「そうやったっけ?」
「寝とったけん覚えとらんのやろ」
 毎年同じような光景が何度も繰り返さる。そして大きくなった子どもたちが再び訪れて、今日のことを語る。これもまた、何度も繰り返される。
「ふふっ。何十年か前、あん子たちにそっくりな子たちが全く同じことを言いよったよね? 白さん、覚えてる?」
 隣の枝に座る人に同意を求める。
「覚えとるよ。たぶん、あそこの二人は何十年か前の二人の息子やろうね」
「やっぱりかぁ」
 けれど、彼らの着る洋服、弁当の中身は確かに時代の流れを感じさせる。
「はんばーぐ、っちどんな味なんやろ」
「さぁね」
「けど絶対美味しいんばい! だって弁当にあれ入れとる子、いっぱい居るもん」
「そうやねぇ」
 単調な返事しかしてくれない人に何度目かの質問をする。
「ねぇ、白さん」
「なにかな?」
「ずっと昔、なんか落としもん、せんかった?」
 そして彼も何度目かの同じ返事。
「さぁね」
「ほんとに覚えてないん? なんか、透明で、綺麗な、小さい玉」
「さぁね」
 このやり取りのとき、彼はいつも笑みを湛えていて。今度も、ほら、やっぱり。
「ほんとは覚えとるんやろ? ねぇー」
 何十年、何百年、繰り返さる会話。べつに寂しくないし、悲しくもない。それに、秘密のあの場所にほんとに小さなお墓と池が造られていたんだ。誰が、なんて考えるまでもない。いまも誰にも見つかっていないその場所。小さな池の底には宝物が三つ沈んでいる。もうわからないくらいずっと前に交わされた約束の証が。