眩しい夜   冬月由貴



 縁がないのかもしれないね、と声が聞こえた気がした。唇の端を下げて首を少し傾げている様子を想像するのは容易い。ひょっとすれば、ちょっと近くにいなかっただけで、いくらか待っていれば返ってくるかも知れない。だけど僕は瞼の重さに負けて、ブルーライトを避けるように寝返りをうった。先ほどまでの高揚にかかった雲が暗鬱とした色を見せ、拒むように、負けるように、目を閉じた。


「昨日はごめんね、なんだったの?」
 翌日に講義室で顔を合わせた彼女はさすがに寝ちゃってたよ、と笑った。今朝になっても連絡を入れなかったのはたいしたことではないとわかっていたからだろうに、少しの申し訳なさが口元で寂しそうに陰を作っている。彼女の唇は目や言葉よりも雄弁で、満足げな折に見せる口角を上げたほのかな隆線を僕は好んでいた。
「いや、特に何ってわけじゃないよ。気にしないで」
 僕は少し酔心地で、月がサファイアのように目映くて、梟の声が物哀しげだった、それだけのことだ。だから、訝しげな彼女にそれ以上の説明を与えることはできないのである。ただ少し、この話をしたことで、胸の内に残っていた重さが二日酔いの症状かどうかを判じることが難しくなったのは確かだが、それを伝える理由もない。
「そう? だったらいいんだけど」
 あっさりとそう言って彼女はランチの店の話を始めた。西新宿にある喫茶店で、パスタがたまらなく美味しいのだという。そこに行こうと同意すると、僕の好きなあの、椿の花弁のように柔らかな笑みを浮かべて彼女は頷いた。そのことが嬉しくて、胸中の雲など忘れて僕もまた微笑んでいた。本当は彼女を好ましく思うとき、僕は同時に少しの哀しさも覚えていた。一度高く昇った月が雲隠れするような、それだけでは得難い心は、かえって物哀しい思いを強くするのである。だけど、そうと知っても夜空を見上げずにはいられないように、僕は彼女の笑顔を見たいと思ってしまうのだ。
 食事の間は、とても楽しかった。カルボナーラも紅茶も本当に美味しくて、彼女も僕もよく話した。紅茶のにおやかな甘い香りが僕らを一段と饒舌にしたようで、そのまま五、六時間と他愛もないことで話し込み、気づけばすっかり外が暗くなってしまっていた。どちらともなくそのことに気が付いて、また僕たちは小さく笑い合った。
「もう、帰ろっか」
 そう言ってマフラーを巻く彼女を惜しい気持ちで眺める。断る理由とタイミングが知れず、曖昧な音が喉から出て返事をした。隠れてしまった口元からは表情を伺い知ることが難しく、目線に促されるままに店を出た。


 徒歩で帰宅する彼女と別れ、電車に揺れながら憂鬱の存在を思い出す。一人になるとこの雲は現れて、笑いながら雨を降らせてくる。普段はそれほど強くない雨脚が冬のせいだろうか、今日は質量を持って薄く積もり始めていた。きっとこの心寒さは、繋がるからこそ生まれるものなのだ。手紙であれば、時間差が持つもどかしさこそあれど哀しみは生まれない筈だろうに。いつ届いたかがわからなければ待つのは必然であり、それはやり取りの時間に集約される。いつでも届くから、届けられるからこそ、想いはすれ違い得る。だから些細なことを哀しい、と思ってしまうのだろう。すぐに返事のないことが疎ましいのではない。そんなことを求めるほど子供ではないつもりだ。だけど、何がなくとも理屈の外で求めてしまうときだってある。それがたまたま昨日で、叶わなかっただけのこと。見つめているしかないのだ、二、三日のうちに溶けてしまうことが解っている、淡雪のような冷たさを。
 駅から家まで続くなだらかで、けれども長い坂道はもう慣れたもので、呼気の白さは冷えた空気だけのせいだ。胸の内から凍えているせいか、いやに寒さが気にかかる。上着のポケットに突っ込んでいる手も感覚が鈍るほどに冷たく、自棄になって外気に晒してみてもさして体感温度が下がったようには思えなかった。手を自由にすると、癖になっているようでつい連絡の有無を確認しにパスコードを打ちこんでしまう。事務連絡や無駄話を縦に流すことさえままならない指の震えに苛立って、そんなつまらないことに腹を立てる自分に呆れずにはいられない。それでも数分がかりでようやく数時間分の履歴を流し読みしたが、返事は帰宅してからがいいだろう。今はまともに返すのは骨が折れるに違いない。
小さく欠伸をした途端、画面の色が変わった。同時に震動して一つの名前を告げる唐突のコールに、反射的に指が動いた。かじかんで動かなかった数秒前が嘘のような速さで親指が一文字を書くと、震えが僕の手だけのものになる。そのまま耳に宛がうと、冷えていた頬に僅かな温もりが触れた。
「なに、どうしたの?」
『別に、なにってわけじゃないけど? 帰り道が淋しい君の暇を潰してあげようかなって?』
 微かに語尾が上がるのは笑いを堪えきれていないからだろうか。すまし顔で、だけど少し唇をとがらせている様子がありありと浮かんでくる。僕まで理由もなく可笑しくなって、なんだよそれ、だなんて少し乱暴な口調になって笑った。吐く息の白さとか、少し冷えた指先とか、さっきまで気になっていたことが全部何でもないものに変わって、このまま帰らずにちょっと歩こうかなんて思ってしまう。この安らかさは、繋がるからこそ生まれ得るものだ。これといった具体性を必要としない心の駆ける音だ。また意味もなく笑った拍子に思いがけず見えた、坂道の上に浮かぶ朧気な蒼い月は、やけに眩しく輝いていた。