薫の手記   冬月由貴



 彼は弱い人でした。失うことを知りながらも、進むより他の道を知らぬ哀れで愚直な男でした。それでも一つ言えることは、彼は不幸ではなかったということです。人はそうとは知らないでしょう。嘘だと仰る方もいらすことでしょう。しかし、私は決して不仕合わせではなかったと申し上げたいのです。そう信じているのです。


「僕は間違えたのだろうか」
 小さく漏らした声は秋風に浚われて夕闇に紛れました。僕は藤観寺の縁側に腰掛けて、紅がかった空を舞う鳶を眺めていました。どうしてそのようなことを呟いてしまったのか、定かにはわかりません。不安だったのでしょうか。それとも慰めを求めていたのでしょうか。つもった想いの淵に気がついたときには、言葉は既に零れているものです。
「薫様は正しいことをなさりたかったのでしょうか」
 左後方から同様に小さく言葉を流した伊島は、一度だって僕に答えを与えたことなどありません。少し視線をやってみましたが、この数年の間僕の一切を委ねてきた老女の表情は変わらず、細められた目からは何も伺い知ることはできませんでした。僕は少なくとも年齢の上では大人と呼ぶに差し支えありませんが、彼女の前ではなんだか花札でも打っていた時分のように思われるのです。
「他に方法があったようにも思わないか」
「私は難しいことはわかりません。ですが、薫様の御心がどうであったかが、一等大事なような気がいたします」
 依然として老女は澄まし顔で、僕の問い掛けはかわされてしまうのでした。
 紅葉の色づき始めた藤観寺の庭は、黄昏時と相まって橙色に染め上げられ、火の中にでもいるようでした。頬を撫ぜる風が冷たく僕の幻想を落ち着けていましたが、どうにもここで全てが灰に帰してしまうような、そんな恐ろしい心地がしたのです。しかしそれは可笑しい話です。薫という人間はもうとうに死んでいるのです。覚悟を定めたその時に僕はもう死んだことと同じなのです。どうして灰燼などを恐れる理由がありましょうか。
 僕がこうしてここに在るのはただ一度打ち捨てたものを拾うためでした。いいえ、それは正確ではありません。打ち捨てられたのは僕です。僕は僕自身によって放逐されたのです。そして笛などを吹きながら、桜の花の咲くをずっと待ち続けていましたが、その一時を過ぎてしまえば、本当に幽鬼の類にも等しいのです。
「僕はね、後悔しているのだよ」
 おやと老女が眉を上げるのが視界の端に映りました。きっと彼女は僕が強く予断のない意志で行動したと思っていたことでしょう。誰一人としてそれを疑う者はいないのでしょう。誰も僕の真実の姿など知らないのです。だからこそ、僕は孤独なのでした。孤独であることで意志を支えていました。この庭で燃えて消えゆくものはきっと僕一人なのです。
「僕はどうしたって後悔したに違いないのだ。それだけは知っているのだ」
 返事を求めていないことを知っていたのでしょうか、伊島は何も答えませんでした。僕が立ち上がり、障子を開いても石のように動かないのです。部屋から龍笛を取り出して再び縁側に立ったとき、ようやく口を開きました。
「いけませんよ」
 鋭い声でした。彼女の笑うのを山鳥のようだと常々思ってきましたが、この時の彼女ほど強く思わされたことはありませんでした。僕は笛を縁石に叩きつけて打ち砕いてしまおうと思ったのです。この数年を共にしたそれを失うことが相応しい罰と思ったのです。彼女は見抜いたのでしょう。まったく自然の人間の持つ洞察力ではありません。猟銃の引き金に手を掛けた途端に飛び立つ雉のような鋭敏さです。どうして、と尋ねることはできませんでした。かといって無言のうちに押し進める力も僕には残されていなかったのです。
 僕はまったく屍のようなのでした。この世で為したことと言えば、一人の女性に涙を流させたことだけでしょう。それも、最も愛する女性にです。僕たちは逢うべきではなかったのです。互いに恋い慕い合いながらも、決して逢わないことだけが僕たちの愛を恒久なるものにしていたはずなのです。相手を思い忍び枕を濡らす瞬間こそが、最も尊ぶべき幸福の時間であったと知ったのはそう、彼女と見えたその時なのでした。文の一つさえままならないとしても、僕たちは隔たることで永遠の恋人たりえたのです。僕たちの待ち望んでいた仕合わせの時こそが最大の破滅を含んでいたのです。
 僕は愚かな人間です。全て弱さ故なのです。人を騙してきました。偽りと欺きで厚く化粧をして生きてきました。それを死化粧のつもりでいましたが、多くの人を斬りつけながらここに至ったに等しいのです。誰も僕を知らないのではありません。僕が嘘を吐いていただけなのです。僕が死人のようであったのは、誰の目にも真実の姿を晒さぬよう生きたからに他ならないからです。
「薫様は正しいことがなさりたいのですか」
 伊島は再びそう問いました。答えを知っているような口振りでした。僕は自らの行いが正しかったなど、真実一度も思ったことがないのです。いいえ、正しく生きることなど人には出来ないのではないでしょうか。僕の持つ正しさは僕だけのものです。僕の行いの善は同数の悪を人に与うるでしょう。まったく美しく正しい振る舞いなど不可能なのです。人間に出来る唯一完全な正しい行いは死のみです。それだけが、何者をも妨げない自然の行いなのです。
「けれど、正しいとありたいと思ったことも僕にはなかった。それだけが、人の為すことの出来る唯一絶対の悪なのだ」
 これから僕のすべきことは明白なように思われました。僕が過去に対して行えることは何もありません。全ての嘘は嘘のままに、あらゆる言葉は自然のままにあるのです。
「この笛を、然るべき人に届けておくれ」
 老女は全て了解した顔で肯きました。僕の半身とも言える笛を渡すべき人間など本当に限られていますから、彼女が迷うことはないでしょう。
 炎の消えて黒く染まった庭に降りてみて、月を仰ぎました。下界の様子を意に介さない天の鏡はただ蒼い影をひっそりと落とすばかりです。眺むるには目映過ぎる光を避けて、僕は木陰に立ち入りました。
「人であるからには、正しくありたいものだ」
「薫様は立ち姿が絵になってお綺麗で御座いますね」
 まるで冗談とも思えない口調でそう言うものですから、可笑しくて、思わず彼女を振り返りました。 「歌などお詠みにならないでくださいまし」
 伊島はどこか慌てた様子でそう頼みました。どうして本当に鋭いのでしょう。彼女は僕の一切が見えているようでした。
 紅葉だに 夜と知りせば 着ぬるかな
   からくれなゐに 闇のころもを
 月影の眩しすぎるせいでしょうか、彼女の頬は光の粒が下りているように見えました。
「せめて清らかでありたいのだよ、僕は」


 彼は長く孤独でした。彼にとって、孤独というものはなったその時が最も不幸である代わりに、その後には永遠に不幸を与えないものでした。幸福を知らない者は不幸もまた知らないのです。幸福を知らないという点で彼は最も不仕合わせでしたが、不幸を知らないという点では最も仕合わせでもありました。ただ一つ言えることは、正しくありたいと願った時に、彼は最も美しい人間になったという、ただそれだけです。私が知っているのは、それだけなのです。