陽炎   妹能見明



 夏が来ると、思い出すことがある。あの日は確か、肌を焼くような暑さだった。駅から家に向かう途中に急な坂がある。学生鞄を肩にかけて、汗を滝のように流しながら毎日その坂を上った。あの日、授業は半日で終わった。就業式だったからだ。だからまだ日は高く昇ったまま、地上の人間を嘲笑うかのように照っていた。げんなりしながらあの日もその魔の坂に差し掛かった。すると、前方におばあさんが見えた。この暑い中、カメにも負けそうな程ゆっくり押し車を押していた。押し車のかごの中にはいっぱいの野菜や缶が詰め込まれていた。
 思わず顔を俯けてしまった。高齢者の横をすたすた通り過ぎるのには微かな罪悪感を抱いた。けれど知らないおばあさんに声をかけるのにも勇気がいった。すると、おばあさんの押し車から缶が一つ落ちて、坂道を下ってこっちへ転がってきた。
逃げ道を失ったような気がして、「ばあちゃん、それ持つよ」と声をかけた。おばあさんは間抜けに驚いた顔をした。少し恥ずかしくなって押し車からレジ袋を取り上げた。おばあさんはまだ驚いた顔を残したまま、目を細めて小さく笑った。
 おばあさんの隣に並び、歩幅に合わせてまた歩き出した。坂を上りきった所、町全体を見渡せるような小高い丘。そんな所におばあさんの家はあった。通学路からは一本入った道。古めかしい瓦屋根の家だった。
「上がってきなさい。疲れたでしょう」
「いいよ。俺、帰るよ」
いいから、とおばあさんは勝手に家に入って行ってしまった。帰ろうかとも思ったけれど手にはおばあさんのレジ袋が下がっている。帰るに帰れなくて仕方なしに上がることにした。促されるままレジ袋を台所の冷蔵庫の前に置いて、それから和室に通された。
「座ってなさい。麦茶入れてあげるから」
このご時世に戸締りもしていなかったらしく、庭に向けて縁側が開かれていた。遠くで蝉の鳴き声が聞こえる。置いてある下駄に足を通した。日が当たっているのにその空間は随分涼しく感じた。土の上だからかもしれない。風鈴が風に揺れてちりんと音を鳴らす。ごろんと寝転がってしまいたい。そう思うほど落ち着く空間だった。
戻ってきたおばあさんが横に膝をついた。麦茶のグラスを乗せたお盆を傍に置いた。コーヒーのように色の濃い麦茶だった。
「ありがとうね」
おばあさんは横に座って言った。
「いいよ」
それから特にお互い会話があるわけでもなく、雲が流れるのを眺めていた。
そんなことがあってから一週間位経った頃だっただろうか。部活帰りに雨に降られてしまった。その時傘を持っていなかった。駅まで迎えに来てもらうにも、スマートフォンも家に忘れてきてしまっていた。とんだ災難だと駅で立ち往生していると、あのおばあさんを思い出した。家よりあのおばあさんの家の方が近い。倍ほども違う。そう思ってエナメルのバッグを頭上にかざしてその下に潜る。水たまりも気にせずおばあさんの家へ走った。
いないかもしれない。そう思いながら玄関の前に立つと、インターホンが見当たらない。仕方がないからガラスの戸を二三回叩いておばあさんを呼ぶ。するとすぐに戸が開いた。
「あらあら、こんなに濡れて。やだよぅ」
そう言いながら、彼女は引っ込んでいった。タオルを持って戻ってきて、世話が焼けるのが嬉しいのか頭をわしわしと拭かれてしまった。
 頭の上にタオルを乗せて、畳の上へ座った。雨戸が固く閉まっていて、縁側は見えない。胡坐をかいて、おばあさんが入れてくれた濃い麦茶を飲んだ。
「ばあちゃん、電話貸してくんない? スマホ忘れちゃって」
 風が雨戸を打ってガタガタと鳴らす。
「電話なんてこの家にはないわよ」
 おばあさんは当然のようにそう言った。驚いて部屋を見回すと、確かに電話らしきものは何もなかった。改めて見ると、おばあさんの家には物があまり置いていなかった。雨戸で囲われた和室は、殺風景だった。
「電話がなくて、不便じゃないの」
「かけてくる人なんていないもの」
 おばあさんは笑った。その横顔は、どこか寂しそうに思えた。
それから、よくおばあさんの家に遊びに行くようになった。部活帰りだったり、友達と遊んだ帰りだったり、とにかく家に帰る前におばあさんの家に寄るようになった。
ある日、部活の帰りに寄っていつものようにガラス戸を叩いた。しかし返事も、おばあさんの足音もしない。大声で呼んでも返事がなかった。鍵はかかっていなかった。用心のない人ではあるし、もしかしたら留守なのかもしれない。そうは思っても不安に駆られて中に入った。
おばあさんはいた。いつもの和室の縁側でぼうっと庭を眺めていた。
「ばあちゃん」
 近くまで行ってそう声をかけると、夢から覚めたようにはっとして顔を上げた。
「ノックしても、呼んでも返事がないからびっくりしたよ」
「ぼうっとしてたのよ。歳ねえ。かったるくなっちゃって」
 そう苦笑するおばあさんは、顔色も良くなくて、いつもより年取って見えた。
「ばあちゃん、やっぱり電話、買おうよ」
「いいのよ、邪魔なだけだわ」
 なんとなく心配になって提案したが、おばあさんは取り合おうとしない。
「そんなたいそうなもんじゃないよ。誰かと話したくなったら話せる便利グッズなんだよ」
「でもねえ、いきなり大声で呼び出されたら驚いてポックリ逝っちまうよ」
 何とも言えなくなって、それ以上押し付けるのはやめにすることにした。
 その日はおばあさんとよく話した。思い出話だったり、高校の話を聞いてくれたりした。そうしている内に雨戸に当たる雨の音がしなくなって、隙間から漏れる光が明るくなっていった。
「俺、明後日から部活の合宿あるんだ。一週間くらい来ないからね」
 帰り際に、濡れた靴を履きながら言った。つま先がべちょべちょで気分が悪くなった。
「はいはい、いつも年寄の相手してくれてありがとね」
 その時手を振ってくれたおばあさんは、どんな顔をしていただろうか。寂しそうな顔をしていなかっただろうか。薄れていく記憶は、おばあさんの顔を正確に呼び起こしてくれない。
 あの夏の合宿は大変だった。コーチが代わったせいで前任の人よりも厳しくなったせいだ。
合宿が終わってもしばらく予定が詰まっていておばあさんの家には行けなかった。夏休みの課題が山積みになっていて、まだ少しも手を付けていなかった。気付けば夏休みもあと一週間近くなっていた。そうそう遊んでいられる状態ではなくなっていたのだ。
何とか宿題を終わらせて迎えた始業式。帰り道の途中、ひさしぶりにおばあさんの家に行くことにした。指折り数えたらもう二週間は行っていなかった。
そもそもお年寄りの家に入り浸っている高校生ってなんか変だよな、なんて少しおかしく思いながら、あの魔の坂を上っていった。いまだ容赦のない太陽はギラギラと照っていた。
坂を半分くらい登った時だっただろうか。大きな物音がして、顔を上げた。
 工事の音。おばあさんが住んでいる家の方から聞こえてきた。嫌な予感がして、坂を駆け上がった。汗が噴き出してくるのに、背筋が冷たく感じた。
 純日本的な家。落ち着く縁側。あるはずのそこに、ぽっかりと空が見えていた。真っ青な空。絵の具のチューブからそのまま塗ったような明るい空。知らないおじさん達が、空を広げていく。ガラガラと崩れていく音が、頭を揺さぶった。
「あ、あの。ここの家、人が住んでるはずなんですけど」
 おじさんを一人捕まえて、どもりながら聞いた。おじさんは、うるさそうに答えた。
「ああ、キヨさん。亡くなったよ」
 あの時工事現場のおじさんになんと返したか覚えていない。ただ、額から垂れた汗がコンクリートに黒い染みを作っていたことを覚えている。おばあさんの笑顔を塗りつぶすような黒い黒い染みだった。
 それから、機械仕掛けのおもちゃになったかのように、家へ歩いた。その途中、ズボンのポケットに入れていたスマートフォンを落としてしまった。それに気が付いたのは、家に帰ってからだった。しかし、おばあさんと繋がっていない役立たずのそれを、探しに行く気にはならなかった。
あの夏を思い出している今、あの時と同じ色をした空が私の上に広がっている。あの夏から、もう何十回夏を迎えただろうか。何もない和室に、濃い麦茶。あのおばあさんが入れてくれた麦茶よりも濃くなってしまったかもしれない。しわくちゃの手で床板を撫でると、うっすらと煤が付いた。開いた縁側に、風が通った。風鈴がちりんと鳴った。おばあさんの顔を思い出しながら、私は目を閉じた。