じっくり寝かせて   添紋



「宅配便が来るから、今、離れられないの。ちょっと買い物に行って来てくれない?」
 ソファに寝っ転がりながら、週刊誌をめくっていた母が、顔を上げないままにそんなことを言う。
「えー、お母さんが行けばいいじゃん。わたしが留守番してるからさー」
「いいから行って来なさい。働かざる者食うべからずっていうでしょ、そんなこと言ってると、晩ご飯作らないよ」
「わかった、わかったよ、もう」
 母は最初こそそこまで怒らないが、言い訳を積み重ねていくと途端に怒り出す傾向にある。沸点が低いのではないと思う。ただ、母の怒りゲージをグラフにするなら二次関数なんだろうなと佳奈はぼんやりと考える。なら、早めに折れた方が何かと楽だ。経験則としてカナはそれをよく知っている。
「で、何買えばいいの?」
「今日はカレーにしようと思ってたんだけど、冷蔵庫見たらジャガイモもニンジンもなくて。あと牛乳も切らしてたから二本くらい安いヤツね。加工乳じゃなくて、牛乳で」
「はいはい。ニンジンにジャガイモ、牛乳ね。……じゃあ、お金ちょうだい」
「あーっと、そこの白いバッグに財布入ってるから取って」
 母はダイニングテーブルの椅子の背もたれにバッグの紐を引っかけて置いておくのが常だ。あまり見栄えのいいものではなかったが、少なくとも置くのにも取るのにも楽で便利なのは確かだった。
 佳奈は言われた通り白いバッグを手に取り、財布を探す。開いて中を覗くと側面の収納ポケットに膨らみがあり、皮の財布がひょっこりと頭を出していたので、それをすっと摘まんで取り出した。その拍子に同じ場所に入っていたらしい小さな巾着袋がぼてっとバッグの底に落ちた。ついでにその巾着袋も拾い上げる。
 手のひらにちょこんと乗るほどのそれは、京都のお土産屋さんで見た西陣織のものに似たような布地に見える。深い赤色を背に、点描のような白い丸が鮮やかに無数に散りばめられていて、ただ純粋に綺麗だなと佳奈はいつも思っていた。使い込んでいるせいで所々ほつれたり、くすんでいるのが実に惜しい。佳奈は財布を左手に、巾着袋を右手でお手玉のように宙に浮かせて弾ませながら母の元へと寄っていく。
「はい、財布。あとこれ、たぶん相当昔から持ってるけど、なんなの? 手作り?」
 寝っ転がったままの母に手渡しつつ、巾着袋の紐をぶらぶら揺らしつつ訊いてみる。
 母は佳奈を胡散くさい催眠術士を見るような目で一瞥して、
「ああ、それね。手作りだけど、それ自体よりも中身に意味があってね。大事なものが入ってるの、一応」
「一応って何よ」
「あー、じゃあ、買い物行って来てくれたら教えてあげる、それでいい?」
「いや、別にそこまで気になりもしないんだけど」
「まあいいから、いいから」
 佳奈は何がいいからなのかよく分からないままに母が差し出す千円札とポイントカードを受け取って、代わりに巾着袋を母に返した。母がそれを見つめる目はさっきと違い、優しく柔らかなものだった。

 歩いて十分もかからない距離に、渡されたポイントカードのスーパーはあるのだが、どうにも面倒くさがりの佳奈は自転車で行くことにした。帰りは荷物があることを考えると、足取りは自然重くなってしまいそうでもあったから。
 玄関を出るとひんやりとした外気と門までの狭い通路に沿って並べられた家族分の自転車群が佳奈を出迎える。一番手前にあった自分の自転車を押したり引いたりしながら、時には自身の体を心持ち細めるようにしないと門に行き着けないのが嫌だった。佳奈にとって東京が狭く感じるのはいつだってこんな時だ。東北にある祖母の家には車を何台停めても困らないだけの広々とした庭と、持て余すほどの畑と田んぼがあるのだ。その中で蜻蛉を追いかけ回したりして過ごしたこともある佳奈としては、やっぱり狭くて窮屈に感じられる。
 佳奈は一苦労して自転車を出すと、すぐさま跨った。ゆっくりペダルを踏み込むなり向かい風が強くて一瞬ハンドルを取られてしまう。吹いて来たのは北の方で冷たかったから、青北風ってやつかもしれないなあと佳奈は思った。今年の夏は異様に暑かったので、少し冷えるだけでも唐突に秋がやって来たように感じられた。
 なんとなく進路方向の上の方へとちょっとだけよそ見をすると空は不思議なほどに澄み切った水色をしていた。雲が遠くの方にひっそりとしているだけで、近くの空には白い綿毛は見当たらない。今日は大学の講義がないのをいいことに部屋に篭り切っていたらこれを見られなかったと思うと、悪い気はしない佳奈だった。

  * * *

 扉をバタンと大きな音をたてて閉め、佳奈が自転車を出すのに苦労しているのであろう、がちゃがちゃという音が遅れて聞こえる。
 騒がしい娘がいなくなり、真理奈はほっとひと息吐いた。銀行の窓口のパートに週四日で入っているため、平日の休みは週一回。そんな休みの時くらい、一人の時間があってくれてもいいじゃないと真理奈は思う。
 真理奈は巾着袋を近くの小さなガラステーブルの上に乗せてから、また週刊誌に目を落とす。どこまで読んでいたのかがちょっと曖昧だったため、読んでいたコラムの頭から読み直すことにした。将棋の棋士である後山遊七段の書いているこのコラムを真理奈は連載されているものの中で一番楽しみにして読んでいる。すらすらと頭に入っていく軽妙な筆致もさることながら、自身とはかけ離れた勝負の世界が彼の文章を通して垣間見えてくるのが新鮮で面白かった。プロの棋士の世界では明確にランク付けというか、階級があるそうで、順位戦というものを勝ち続ければ上へ、負け続ければ下へと落ちていくらしい。そんな中で降格が決まった時の後山氏の切々と綴られた悔しさ、憤りには駒の動かし方さえロクにわからない真理奈にでも感じ入るものがあった。結果が伴わない努力は、結果が伴わなかっただけで、紛れようもない努力なんだろうと思う。
 突然、ピンポーンと間延びした音が部屋中に響く。真理奈は慌てて身を起こしインターフォンを取ると、案の定、指定時間内通りにやって来てくれた宅配業者だった。
 テーブルの上に用意しておいた、キャップが何処かに消えてしまったままのシャチハタ印を手に取り、リビングの縦長の窓を開けて待つ。玄関は奥まった所にあるため、こっちの方が門にずっと近い。業者も最早そのことに慣れている。
 見慣れた髭の濃い配達員さん相手に、二、三ほど事務的な会話をして、荷物を無事受け取った。トラックに乗り込み、見えなくなるのを確認してから真理奈はそっと窓を閉めた。
 送り主であるお義母さんに届いたとお礼の電話を入れてはみるものの、真理奈の耳には呼び出し音が繰り返し響くだけだった。また畑の世話で外に出ているのだろう。後でもう一度かけ直すことにした。たまには孫の声も聞きたいだろうし、佳奈にさせればちょうどいい。
 真理奈は届いたばかりの段ボールをカッターで開いて、お米を床下の収納庫へ、キャベツ、白菜などの野菜類は冷蔵庫へと各々順次整理していくと、自転車のブレーキ音が聞こえてきて、佳奈が帰って来たなとわかった。

  * * *

 灰汁をこまめに取りながら、中火でこつこつと煮込んでいく。ジャガイモは油で炒めると煮崩れしないからと母に言われるまま、佳奈はバターで炒めたものを入れた。大した違いはないのだろうけど、バターが溶けて染み込んでいくにつれてカロリーが心配になった。
「にしても、あんまり手伝いしないからまともに料理できないくせに、野菜の選び方はいいのね」
 佳奈の選んできたニンジンは艶やかなオレンジ色をしていて、ジャガイモはふっくらと丸くて張りがあり、ともに食べ頃だとよくわかるものだった。
「中学高校の家庭科はね、筆記は完璧だったんだよ。実技は男子と似たり寄ったりだったけど」
 きゅうりの輪切りのタイムも合格ラインギリギリだったことは母に告げていない。このままだと手伝いをしていないことをずっと詰られると佳奈は考え、話の矛先を変えてみる。
「そうそう、お母さん、さっきの巾着袋ってさ、結局なんなの?」
「ああ、あれね。……じゃあさ、佳奈はあの中に何が入ってると思う?」母に訊かれて、佳奈はさきほどの手に乗せた重さを思い出そうとする。少なくとも今握っているナイロン製のレードルよりは断然軽かった。というより、全然重さを感じなかった。
「軽かったことしかわかんない。思いつかない」
「なら、中身出してみなよ、代わってあげる」
 母は夕方にやっている刑事もののドラマの再放送を消して、キッチンまでやってくる。
「いいの、テレビ?」
「あの話、今日で見るの三回目だから。犯人は自分の絵を侮辱されてかっとなったイラストレーター」
 手を洗いながら母が答えた。
「あっそう」
 佳奈はレードルを母に手渡す。母はそれを受け取ってから鍋を覗いてみると大分煮えているように思い、レードルで掬った具に竹串を挿して様子を見てみる。
「大丈夫そうね。そろそろルー入れようか」
 佳奈は母の声に背を向け、ガラステーブルに置かれていた赤い巾着袋を手に取ってソファにぶかっと座った。
 巾着袋はやはり軽かった。佳奈は感触を確かめようと左手で支え、右手で軽く揉んでみると薄く堅い何かが入っているようだった。口を開いてひっくり返し、右手で落ちてくるものを受け止める。出て来たのは五百円玉が一枚。よく見ると旧式で「昭和五十九年」とある。
「何これ、普通の五百円玉じゃん」
「そうだね、なんの変哲もない五百円玉だよ。でも、これ、お父さんがね、結婚してからくれたものなの」
「へー。それはまたなんで?」
「少しは考えてから質問しなさいよ」
「もう、教えてくれるって言ったのは母さんからじゃない」
 軽い気持ちで言い出したこととはいえ、ここまでくると無性に気になってしまう佳奈だった。だから真面目に頭を働かせようとは思うのだが、なかなかこれだという回答が導き出せない。
「希少価値が高い五百円玉とかじゃないよね? ギザ十だとか、昭和六十四年ものだとかみたいに」
「違う違う。ただのありふれた五百円玉」
 ルーを掻き混ぜ溶かしていきながら母は言った。
「うーん。もう無理、降参です」
「……それはね、お父さんがね、私と付き合う前から持ってたやつなんだよ」
 こっちも見ずに、母は鍋の方を向いて続ける。
「お父さんと高校が一緒だったって話はしたでしょう」
「うん。そんでお互い社会人になってから再会して意気投合して交際して、果ては結婚したって」
「そうそう。でもね、お父さんは高校の頃から私に気があったみたいでね。その頃私は大してなんとも思ってなかったんだけど」
「母さん酷いー」
「本当のことだから仕方ないでしょう。でもお父さんは違った。あんまり覚えてないんだけど高校の友人と何人かで一緒にファミレスで食べた時があったらしくて、その時私はちょうどのお金が出せなくて両替というかお釣りをお父さんにお願いしたそうなの」
 そこまで聞けば、佳奈にもわかった。
「その時の五百円玉がこれってこと?」
「そう」
 相変わらず母は背を向けたまま答えた。
「お父さんも変わってるね、持ち続けてたのもそうだし、そんなこと言っちゃって、下手したら嫌われちゃうんじゃないの」
「全くね。お父さん自身もこれを言ったら引かれるんじゃないかと思ってなかなか言い出せなかったって。でも隠してるのも後ろめたかったらしくてね、結婚して少し経ってから全部聞いたの」
「ふーん」
「なんでもね女の子が第二ボタンもらうような気持ちだったとか、なんとか。でもあれは断りを入れてるんだから、少し違うんだろうけど」
 母は掻き混ぜていた鍋に蓋をして弱火に切り替えてから、佳奈に向き合うようにしてテーブルの椅子に座った。
「上手く言えないんだけど、それだけ想ってくれていたってのはやっぱり嬉しくてね。それをもらって、半ばお守りみたいにして今に至るって訳」
「ふーん、なるほど」
 話を聞いて佳奈はそれが本当にずっと父が持ち続けた五百円玉なのかがちょっと気になったけれど、そんな野暮な質問はやめようと思った。母自身そんな疑いを全く持たずに無条件で信じたとも思えない。それに、例えその真偽がどうであれ、母が目を細めて昔のことを愛おし気に語れるのなら、それはきっと悪いことなんかじゃないと佳奈は思うのだった。
 きゅるると佳奈のお腹が鳴って、母はくすりと笑った。自分で切ったジャガイモは不格好だったが美味しく仕上がっていてくれることに期待して佳奈は夕飯を待つ。