いつもなら   畑葵琴



「マコト、らしくないじゃないか。どうした?」
 俺の問いかけに、マコトの動きが一瞬止まった。両耳に緑色のイヤホンを着けているが、いつもと違う所はその他にもある。
「……らしくないって、どういうことだ?」
「いつもなら、黒いヘッドホンで聞いているのに、今日は随分と派手なイヤホンを使っているんだな」
「……故障したんだよ、あのヘッドホン」
「この前買ったばかりのヘッドホンって言ったじゃねーか。いきなり故障だなんて……」
 マコトがいきなり歩む足を速めた。キャンパスまであと百歩程度。マコトは、俺を引き離すように歩みを速 める。授業開始まではまだ時間はあるはずなのに。
 待て、と言う前にマコトは校舎の中に入ってしまった。呼ぼうと駆け出そうとしたが、校舎の中はこの一本道のようにすんなりとはいかない。しかも、初めに受ける講義は俺とマコトとでは違う。これでは、聞きようがない。
「ったく、一体何がそんなに不満なんだよ……」
「買ったばかりのヘッドホンを壊されたからじゃないの?」
 いきなり横から女の声が飛んできた。驚いて振り向いて見ると、イヨが覗き込んでいる。その距離、俺の顔面から三十センチ程度。
 慌てて距離を取ると、何故か顔をニヤニヤしながら近づけてくる。
「イヨ、いきなり顔を近づけるなよ。びっくりするじゃないか」
「駅を出た時からいたけれど」
「声ぐらいかけろよ」
「気付かないあんたのほうがおかしいって」
 悪態を付いた俺は、ふとイヨの言葉を思い出した。
「壊された? 壊れたんじゃなくて?」
「壊されたって、 聞いていないの?」
「故障だって言っただけだよ」
 ふうん……、と小さく呟いたイヨは、ゆっくりと俺を見つめる。
「先週の金曜日、部室に置いてあったヘッドホンが水びだしの状態になっていたんだ。トイレに行くために、少し部屋から離れている間にね」
「その時、部屋に誰か入ったのか?」
「部屋の中には何人かいたようだけれど、帰ってきた時には誰もいなかったわ。あたしも、あの時部室に居たけれど。……あんたは?」
「ちょっと野暮用で部室に来たぞ。野暮用でな」
「野暮用?」
「ああ、間食用のカップ麺を食いに来たんだ。ちょっと、汁をこぼしたけれどな」
 イヨの足が、一瞬止まる。マコトと同じく、ゆっくりと目を向けてくる。
「……汁をこぼしたって……?」
「ああ。少しばかりノートにね。どうでもよかったけれど」
 額を汗のような滴が流れていったのは、気のせいか。
「どうしたんだ、急に早足になって」
「……まあ、今日無事に帰れることを祈るよ」
「無事に帰れるわけ、ないだろ?」
 目の前から、知った声が来た。思わずその方向を向く。やけに神妙な面のマコトが、目の前に立っていた。
「お前の場合、いつもなら大事なことをすぐ覚えているよな?」
「ああ、そうだけれど?」
「なら、何でどうでもいいことのはずの、『カップ麺の汁をこぼした』ことを覚えているんだ?」
 一瞬、マコトが何を言っているのか分からなかった。しかし、自分の行動を思い返してみると、いろいろ疑問がわいてくる。
 いつもなら、どうでもいいことはすぐに忘れてしまう。
 こぼしたノートは、部室にあった薄汚れたものだ。はっきり言って、菓子をぶちまけたり、飲み物で濡らしたりしているから、カップ麺をこぼした位どうでもいいことだ。
 ならば、何故そんなことを覚えているのか?
 理由は一つ。それが、重要だということを、頭のどこかで、それも自分の意識の外側で感じていたからだと思う。
「一つ言い忘れていたけれど、壊れたヘッドホン。随分とおいしそうな匂いがしていたな……。そう、アレはシーフードだったかな?」
 ギシギシと、首をマコトの方へと向ける。拳をかたく にぎり、肩を震わせていた。前髪が長く、俯いているため、良く見えないが、皮膚の皺の寄り具合からするに、唇を噛んでいるのだろう。それも、相当かたく 。
「あとで聞いたぞ、お前、あの時部室でカップ麺 食べていたそうじゃないか」
「し、仕方ないだろ。休憩場が満席で、立ち食いするわけにもいかなかったからな」
「その時ドジって、こぼしたそうじゃないか」
「あ、あの時ノートの下なんかに置いとく方が悪いだろ?」
「買ったばかりの、高かった、念願のヘッドホンを、よくも、よくも、よくも……!」
「だから、弁解させてくれって、なあ、イヨ……!」
 振り向いたが、イヨの姿は無かった。慌てて校舎入口に目を向ければ、一瞬だけイヨの後姿を見た。もはや、助けを求めることができない。
 再び正面を向けば、マコトの怒りは、既に臨界点に達しているのだろう。ゆっくりと、一歩、また一歩と、俺の方へと歩み寄ってくる。ギッと、俺を睨みつける双眸は、獲物を狩る捕食者のそれにそっくりだった。
諦めと言う言葉が頭をよぎった瞬間、俺は両手を太腿に着け、ゆっくりと前屈する。
「…………ごめんなさい」
 その直後、マコトは、無言で俺の顔面を殴り飛ばした。