息継ぎ   軟太郎



 まるで水の中を速く走ろうとしているみたいだ。浪人生になってから、勉強するたびにいつもそう思う。ただでさえ朝早く起きるのは億劫だし、毎回家を出ようとするたびに鬱屈とした気持ちになって行く上、予備校に行くのがもはや苦痛以外の何物でもないのだから、机に向かって勉強する事、これはもう奇跡みたいに思えてしまう。ときどき麻薬中毒者みたいにゲーセンやカラオケのどこか詰まった空気を胸いっぱいに吸い込みたくなるのは、どこか当然のことのように思えた。
 今日も嫌がる体を無理やり外に引っ張り出して、見るたびに色あせていくように感じる電車に乗り込んだ。座席の背もたれに強く体を押し付けると、尻の方から体が前に滑っていく。平日の朝だというのに、車両の中には自分以外の誰もいない。
 耳に挿したイヤホンからは、下品な言葉で腐った社会を責め立てるロックな曲が流れてくる。
 ふと思う、ロックって何だろう? とりあえず体制への怒りを叫べばいいのだろうか。今の政権は国民を馬鹿にしている! 原発は廃止しろ! とか。でもこれでロックなら、煽り記事を飽きもせずに掲載し続けている三流週刊誌や学生運動家までロックになってしまう。
 そうしてしばらくロックについて考えているうちに、いつのまにか二人組みの男が同じ車両に乗り合わせていた。  眼鏡をかけた大人しそうな奴と、猫背で、手をポケットに突っ込んでいる奴が話をしている。慌ててポケットの音楽プレイヤーに手を伸ばし、停止ボタンを押した。とたんに男の一人が視線をこちらに向けたので、きっと今まで音漏れが酷かったに違いない。申し訳ないやら恥ずかしいやらで、目をそらしてまた窓の外の風景を眺めてしまう。埃が固まってできたような黒い雲が、空を埋めているのが見えた。
「いやだからお前、人の話聞いてんのかよ」
 突然耳に棘のある声が飛び込んできた。 視線を音源のほうにそっと向けると、どうやら、猫背の男が眼鏡の男に怒りをぶつけているらしい。猫背は眉を吊り上げ不機嫌そうに喋っているが、眼鏡のほうは視線があっちこっちへと定まらないまま、すました顔で聞いている。あの顔は明らかに人の話を右から左に聞き流している顔だ。
「俺もお前もさ、結局は親の金で浪人させてもらってるわけだろ。だったらさ、お前のその態度はどうなの、って俺は思うわけ。いやさ、わかるよ? 勉強すんのは確かにめんどいし、予備校の講師だってアホみたいに自分勝手な必勝法ほざいてるしさ、現役で受かった奴らが楽しそうにしてるの見ながら必死こいて机にかじりつくのはホント辛いし。でもだからってさ、逃げてちゃだめだろ。お前最近特にひどいぜ。朝から予備校の自習室行っても、たいしてやってない内から俺とゲーセン行ったりカラオケ行ったりでさ。そもそもそんなの自分だけで行けよって話じゃん。俺を巻き込むなよ。高校時代からお前はそうだ。周りがどういう迷惑を被るか何も考えないで、自分のしたい事やってるだけじゃん。そりゃあ落ちるわ、受験にさ。それにお前、俺は頭が悪いからあんまり高いとこは目指せない、つって志望校下げるとか予防線張るのもいい加減にしろよ。いくじのねえ小便くさいクソガキかっての」
 耳を覆いたくなるような言葉の数々が、猫背から容赦なく眼鏡へと投げかけられていく。この言葉に眼鏡の心が抉られているかどうかはわからないが、赤の他人である自分の胸にもちくちくと罪悪感とやりきれなさが突き刺さってくる程度には棘のある言葉である。横目でちらと眼鏡の顔を伺ってみると、ふらふらとしていた視線が今は猫背のほうを向いている。眼鏡はまるで、今まで壁の汚れだと思っていたものが虫であることにようやく気づいたような顔をしていた。
「だいたいさ」
 お前、と続けようとした猫背の言葉を眼鏡が「はん」、とあざ笑ったような声で遮り、ほほを膨らませたかと思うと、猫背の顔に向かって唾を吐きかけた。その瞬間、確かに電車の中の時間が止まったように思えた。なぜなら猫背は唾が顔にかかった後もしばらく微動だにしないし、そのまま顔にかかった物が頬を伝って床に落ちていくまでなにも表情を変えなかったからだ。垂れて行く唾の他に動くものが何もない車両の中で、急に思い出したかのように電車のブレーキ音が聞こえてきた。数秒の後、電車が駅に止まる。顔に嘲りの表情を浮かべたまま、眼鏡が電車を降りていく。びっくりして放心状態だった俺も、慌てて電車を降りようと座席から腰を上げ、ドアへと向かう。猫背の、瞳孔が大きく開き、青ざめた顔が目に入った。足を止めて、ポケットから音楽プレイヤーを取り出し、猫背の耳にイヤホンを突っ込む。再生ボタンを押すと、イヤホンから狂ったように喧しい音が漏れ出してきた。猫背の顔にいまだ表情は浮かんでいなかったが、開きっぱなしだった口が閉じている。
 電車から降りると、ホームには眼鏡の姿はもうなかった。振り向くとすぐにドアが閉まり、猫背を乗せた車両が動きだしていく。俺は出口へ向かう代わりに、向かい側のホームへと歩き始める。ズボンのポケットにあったプレイヤーの分だけ、確かに俺の足取りは軽くなっていた。