復讐代行 赤咲穹

古臭い木製のドアは、耳に障る軋みを立てながらゆっくりと開けられた。切れかけの電球が不規則に照らす埃まみれの薄暗い部屋の中はゴミだらけだ。柄が折れた箒、砕けたグラスの残骸、エンターキーが粉々になっているキーボードなどが壁に寄せられて山を成していた。いくつもの窪みや穴でボロボロの床が、居住者の不精さを物語る。

そんな中で彼女の目は、ボロの社長椅子に深く腰掛けた無精髭の男の姿を視認した。目元には深い隈があり、生気の感じられない彼の様子は死体に近しい雰囲気がある。男はおもむろに口を開いた。

「名前、生年月日、居住地域。それと血液型。教えてくれなきゃ仕事は請けられん」

 訝しげな女の様子を受けた男だが、なおも同じことを気怠そうに要求した。何かよからぬことに使われるのではないか――脳裏にふと過り、女は踵を返し、そのまま出ていこうとした。

「別にあんたの個人情報に興味なんてねぇよ。ただの身元照会だ。あんたが嘘をついてないか、信用できるクライアントか確かめたいだけだ」

 心の中を見透かされたような言葉に、女は足を止めた。男はだるそうな面で――テストの方式変えようかな、と呟きながら――だらしなく頷いた。

 男はパソコンを立ち上げ、聞き出した女の個人情報を市民データベースの検索にかけた。腫れ物を触るようにキーを打った。しばらくして表示された検索結果は、彼女のものと相違ない。男は女の方へ向き直り、口を開いた。

「じゃ、要件を聞こう。――俺は誰を殺せばいい」

 

***

 

 女は未亡人だった。一月前に殺された夫の仇討というのが彼女からの依頼である。愛する者の死を受け入れることがどうしても出来ず、せめて夫と同じ苦しみを味あわせてやろうと決意した彼女は、夫を手にかけた人物を割り出し、この男――復讐代行を訪ねたのであった。

 なぜ復讐代行などに頼まなければならないのか。それは、警察組織が動かないからだ。庶民に関する警察の仕事というのは、末端の職員が死体処理に駆り出される程度がせいぜいだ。警察が本当の意味で動く時は、資本家もしくは彼らの財産を守る――強盗の逮捕であったり、デモの鎮圧であったり、あるいは資本家本人またはその家族の警護であったりといった――時だけだ。この惨状には歴史的な背景がある。七十年前の産業革命により資本家たちの競争が始まり、そこから約二十年で終結。競争の勝者たちが国の全てを握った。国家は資本家の傀儡に成り下がり、警察もまた、資本家の意のままに動く私兵となったのだ。

それゆえ、一般庶民が怪我をしようが殺されようが、警察は事件に一切関与しない。犯人は野放しにされ、被害者一族の選択肢は自救行為か泣き寝入りしかない。そんな中で復讐代行という彼の仕事は、被害者一族に残された最後の希望である。奪われたものは帰ってこなくとも、せめて受けた分の苦しみを返してやりたい。復讐代行は、そんな悲壮な望みを託されているのだ。

 

***

 

 今回は早く片付きそうだ、と男は思った。いつもなら犯人捜しから始めなければならないところを、彼女は自分からしてくれたからだ。

 標的は二十代前半の、スキンヘッドで痩せ形の男だという。金を持っていそうな人間を見かけては通りすがりに殺し、金を奪っていく。金を握りしめて酒場に入る姿を何度も見たという未亡人の証言から見て、金のほとんどは酒に消えているのだろう。

因みに、あらゆる店は資本家が大本となっているので、彼のような荒くれといえど食い逃げは出来ない。通報によって駆けつけた警官に囲まれ、警棒でしこたま叩かれて撲殺されるのがオチである。

 男は荒くれの行きつけである酒場の近くに張り込み、ターゲットの出現を待つことにした。今の時点で酒を呷っているのか、それともまだ到着していないのかはわからなかったが、彼としてはどちらでもよかった。どちらだろうと、殺せば同じだ。

 暫く張ってみたものの、スキンヘッドの人物はついに一人も現れなかった。こんな日もある、と諦めて帰路につこうとした、まさにその時であった!

「ウワアアアァァアァ―――――…………」

 悲鳴が木霊した。断末魔のような叫びは、耳鳴りとともにある予感を男にもたらした。

 ターゲットが出た――その思考が脳回路を通る前に、彼は跳ねるように飛び出した。

 

***

 

予感は当たった。スキンヘッドに痩せ型の男が、握り拳からわずかにはみ出す色付きの紙束を眺めながら下卑た薄笑いを浮かべる姿があった。

しかし、そこにあったのはターゲットの男だけではなかった。スキンヘッドの男から少し離れたあたりに、真っ赤な肉塊が血の池に沈んでいる。ターゲットのズボンと靴は真紅に染まり、ズボンの裾からは赤い液体が滴っている。

成程。蹴り殺したか――男はそう結論付けた。が、仮に蹴り殺したとして、人を脚力だけで肉塊に出来るのだろうかと思われるかも知れないが、運悪く居合わせてしまった一人の中年男性がその身をもって証明してくれた。

恐怖に足を取られてうつ伏せに転んだ中年は、背中を踏みつけられた。吐血する中年の体を、スキンヘッドの足が貫いた! 続けて幾度か蹴りを見舞った後、絶命した中年の衣服から金を抜き取り、それを眺めてほくそ笑んだ。

不用心にも何の構えも取らずに近づいた。迂闊! 常識を超えた力を持つスキンヘッドの眼前に、丸腰でのこのこと躍り出た! まさに飛んで火にいる夏の虫、殺されに行くようなものである!

「なんだてめぇ、見てやがったのか?」

 スキンヘッドの荒くれは目を剥いて凄んで見せるが、男は相変わらず不健康そうな面持ちで、頬をだらりと垂れている。

「そうだと言ったら?」

「金を出せ、あるだけな。じゃなきゃ蹴り殺すぞ? そこの死体みたいになっちまうぜ」

 スキンヘッドはシャドーするように脚を何度か振り回した。あまりの速度に風が甲高く鳴った。常人であれば恐れおののき、土下座して許しを請うだろう。

 しかし彼は違った。土下座どころか欠伸をしていた。剥き出しの頭皮に青筋がくっきりと透ける。

「ほーん、で?」

「ざけんなコラァッ!」

 何たる愚かさか! 不用意な挑発が荒くれのフラストレーションを爆発させてしまった! 荒くれは飛び蹴りを仕掛けた。跳躍した次の瞬間には、もう爪先が男の心臓を貫かんとしている。食らえば死は免れない!

 だがしかし、飛び蹴りは男の体には届かなかった。――キックは受け止められていた。どうしたことか、足は男の掌に収まっている! 殺したものだと確信していた荒くれは、想定外の事態に脳を白く染められた。

 男が右足を振り上げると、宙ぶらりんになっていた荒くれの体がボトッと落下した。しかし、男は足を掴んだままだ。――信じられないことに、彼は右足の一振りのみで脚を一本根元から切断したのだ! 振り上げていた右足を降ろす勢いで、もう一方の脚の膝関節を踏み抜く! 骨が砕ける音と同時に、脚が破裂し、肉の群れがそこかしこに飛び散った。

一瞬にして両の脚を失ったことに数秒遅れて気付いた荒くれは激痛にのたうつ。喉を絞って痛みを口から吐き出し許しを請いながら、芋虫のように悶えた。男はその背中を踏みつけ、突き破った。芋虫は血を吐き、やがて動かなくなった。体内に侵入している右足で聴いていた音も、止まっている。

「ぬるい“拡張”で粋がるからこうなる」

 

***

 

 力を持てば持つだけ、相応の代償がのしかかる。力を得る方法は、復讐代行の彼が言う“拡張”だ。

拡張――正式には“脳内使用領域拡張”とは、資本という事実上の支配権を得たにも関わらず満足できなかった資本家たちの狂気的な強欲から始まった。労働者を休みなく、効率よく働かせたいという歪んだ願望を出発点とするこのテクノロジーは、今から十年ほど前に実用化された。人間の脳で使われている領域は、脳全体の比率からすると僅かである。そこで、その領域を人工的に埋め込んだチップによって稼働させ、稼働場所に応じた力――並外れた計算力だとか、桁外れの膂力であるとか――を人間に付与する、というメカニズムである。埋め込んだチップが多ければ、より脳を――即ち能力を強化出来る。この男と荒くれの両者はどちらも拡張により身体能力を強化していたが、埋め込んだチップの量は比較にならない。男が荒くれを「ぬるい」と評したのはこのためだ。

だが、脳にメスを入れて、さらにその機能までに手を加えているからには、多少の代償を覚悟しなければならない。抱く代償は力の強さ――チップの量に比例して大きい。少なければさほどでもないが、復讐代行の彼のように大量に入っていれば、その代償は半端なものでは済まされない。

まず、脳を強化しすぎたせいで、力を制御しきれない。掃除をしようと箒を持てばポキリと折れ、不用意にグラスを持てば即座に割り、足を踏み鳴らせばたちまち床はボロボロになる。キーボードなんて、もう幾つお釈迦にしたか覚えていない。下手を打つと自分の力で自分を殺してしまうとまで言われ、身体組成を頑丈にする手術を長期にわたって受けさせられる羽目になったこともあった。

 機能を強めた脳をつつがなく動かすには、その分栄養が必要になる。彼に必要な栄養は、もはや食事では賄いきれない。栄養を凝縮した特注のサプリメントを、一日に十数粒服用することでやっと脳に必要な栄養を摂取できるのだ。

 そして何より、彼は眠れない。拡張・活性化されすぎた脳は常に稼働し、脳の消耗をリカバリーするチップにより休息は不要である。しかしチップは、彼の体そのものが求める睡眠欲には全く関わらない。結果、彼は「眠りたいのに眠れない」という責め苦を常に味わっている。

 彼がそんな代償を背負ってまで力を欲した理由は誰も知らない。彼が語ろうとしないからだ。「そんなことを聞いて何になる」と。

 男はただ黙して待つばかりである。復讐代行という、最後の希望を求める者を。