本の神様   七水樹


 

 

 僕は本が好きだった。本の中では、時間さえもが自由であり、僕は立ち止まることができるからだ。僕が本のページをめくることがなければ、その時は永遠に止まったままなのである。

 

 

 

 広げていた問題集に、マーカーペンを挟んで閉じる。今日の試験勉強はこのぐらいでいいか、と僕は息をついた。

 うちの高校は、試験日の一週間前からすべての部活動活動を停止する。おおよそどこの高校もそんなものだろうが、文武両道を高らかに唱える我が校の徹底ぶりは恐ろしいもので、この期間に入ると「部活動をしていないか」を見張る教師が出現するほどであった。そのため、普段は部活動に熱い青春を注ぐ生徒たちは居場所を追われ、しょうがなく図書館へと流れつく。今、図書館は僕が日頃利用する時よりも格段に人口密度を上げていた。もちろん、そうした経緯を持つ者が集まるので、図書館にいつもの静寂はなく、小さな話声や笑い声がそこはかとなく充満していた。文字を書く音も、複数になれば輪唱になる。騒がしいな、と僕は胸の内でため息をついた。予定していたノルマも達成し、そろそろ隣の席に座る男子生徒の咳払いにも耐えきれなくなったところで、僕は席を立った。人の立てる音が苦手な僕にとって、この一週間は耐え忍ぶしかない時間なのである。

 静かな騒々しさから離れて、適当に近場の本棚の列へと迷いこむ。僕には、どうしても最後まで読めない本があった。タイトルはない。初めて読んだのがいつだったのかも思い出せないような、曖昧な本だ。

 それはいつも星の光のような青白い光を纏っていて、本棚の中に整然と並べられた他の本たちの価値を奪い、そして僕の目をも奪った。だがその本は、不思議なことに意識して探す時には見つからないのだ。ぼんやりと背表紙の羅列を眺めていると、空に散った星屑をかき集めてまぶしたような輝きを持つその本が、ふいに顕現するのである。

僕は何度も、その本を手に取っている。そして何度も本を開き、文字を目でなぞっている。その本には何か文字が綴られているのだが、その内容は一切理解できないのであった。目から流れ込む文字が、脳で華麗にくるりと回って抜けていく感覚は表しようもなく間抜けで空虚であったが、それでも僕はその先に「彼」と会うことを予感し、そして同時に期待もしていた。

 文字を頭に送り込んでは流し出すだけの単調な作業に余裕を持ち始め、気づけば色を失っている周囲の風景を視界の端に捉えながら、そろそろだろうかと、僕はそんなことを頭の隅で考えることができるようになっていた。そしてその思考さえも霞み始め、僕の頭の中が真白な空白になった時、彼はこの本と同じように瞬くのである。

 

「君は本当に、ここが好きだね」

 

 胡散臭ささえ感じるほどに優しい声が背後からして、僕は目を開いた。目を閉じたつもりはなかったが、目を開いたと僕は意識した。見下ろす僕の手にはもう本は握られておらず、白以外の色彩すべてが奪われた図書館に僕は立っていた。息を潜めるように白に溺れた世界はとても静かだった。僕と彼だけが色づいた静寂は非常に好ましい。

「うん」

 僕は彼の呼びかけに頷く。他者に侵害されないこの空間はまるで世界に僕と君以外いないように思わせてくれるから好きだ、などと答えそうになって僕はそのまま黙っていた。その言葉には、害するものと害さないもの、という僕の区分でしかない意図が含まれている。それを口にすると僕があまりにも卑屈で卑怯な者のように思われて、さらにはそんなことくらい、もう彼には勘づかれてしまっているような気がして、口にする必要はないように感じられた。

 

「前にも言ったけれど、ここは君が過ごすための空間ではなく、終わりを求めた物語がその終極を目指して他者を巻き込み、いたずらにページ数を重ねているだけの空間なんだよ」

 

 つまり君はただ巻き込まれているだけで、外界の一部であることに変わりないんだ、と胡散臭い声で彼は語る。僕はようやく彼を振り返った。年のあまり変わらないような、星色の髪をした少年がそこに立っている。

「わかってるよ。でも僕はここに来たいんだ」

 僕がそう答えると、彼は物好きだねぇ、と薄く笑った。笑みの残ったままの顔をふいと逸らして、彼は浮かび上がるように軽い足取りで歩き出す。僕はそれについて行くが、僕の方の足はずしりと重くて歩く度に床に足が沈んだ。そして僕の足跡には色彩が戻っていく。

 

「さて、今日はどんな話を聞かせてくれるんだい」

 

 図書館の中央にある机の上に彼は降り立つと、両腕を広げて僕を受け止める仕草をした。僕はそれを見て少し視線をさ迷わせた後、カウンターの奥にあるガラスで仕切られた部屋を指差す。

「あそこ。あれ、司書室なんだけど、司書さんがすごく気のいい人で生徒に人気なんだ。でも、生徒がよく入り浸ってて、あそこで騒ぐから図書館にまでその声が聞こえるんだ」

 うるさいんだよねと僕が呟くと、ぼう、と明かりが灯るように司書室が色づいた。続いて女子生徒たちの華やかな笑い声が重なって響いて、そして消えた。

 

「なるほど。姦しいってやつだね」

 

 うん、とまた頷いた。女が三人寄れば騒がしくなるという様を漢字一字で表した人は、きっと僕と同じようにあの甲高い笑い声に辟易していたに違いない。僕は少し、口を尖らせた。文殊の知恵でも出してくれればいいが、大抵は下らない雑談でしかないと胸の内だけに自由な悪態をつく。

 

「他には?」

 

 首を傾げられて、僕はさらに周囲を見渡した。ここに来たら、彼に話そうと思ったことがたくさんあったのだ。あり過ぎて、覚えていられないほどに。

 机の上に置いたままにしていた僕の勉強道具が目に入って、僕はそこへ移動した。彼は首だけ動かして僕を追う。適当にぱらぱらとノートを捲っていると、つい最近の記憶が蘇ってきた。

「……この間、クラスの人に課題を写された」

 ちらりと少年の方を見ると、僕の方を見ているのではなく前を向いていて、ほう、と小さく頷き僕を促した。

「それでいいんだ。他者の努力を奪うことは、良心の呵責に苛まれない限りは何よりも気楽で単純なことだし、僕には確固とした僕の努力が刻まれている。

 けど、驚くほどにそれは僅差なんだよ。きっと死ぬ時に図ったとしてもシャーペン一本分に満たない僅かな差なんだ。それを知った僕が油断をすれば、どこで水増ししているかもわからないやつらに追い抜かれるし、気を張り続ければそれだけ僕は餌食になる」

 馬鹿らしいほどに丁寧に書き込まれたノートを僕は握っていた。

 言葉の割に熱の籠らない僕の声に耳を傾けていた彼は唐突にふふ、と笑った。それから、今日はよく喋るんだねと言いながら、黒く染まり始めた服の裾をいじる。物語は語れば語るほど、白い紙を染めていくものだ。そういうものだと、以前彼は語った。

 

「君は、友人が嫌いなんだね」

 

 僕はノートを閉じて、少年を見た。少年は半月のように愉快に歪んだ目で僕を見ていた。

「……嫌い、かも」

 しれない、と言う僕の声は先ほどよりもずっと小さかった。僕が彼らを疎ましく思いながらも、真向からの否定の姿勢を示すことができないのは、僕が思うように彼らが僕のことを意識してはいないのではないかと、はたと不安になるからだ。思い上がりで、自惚れた恥ずかしいやつだと自分で思ってしまうからだった。僕が彼らに対してこんなに不満を抱いているのに、彼らにとっての僕は些細な存在で、そんなことを考えることもなく僕を傷つけているのかもしれないのだ。人間とはなんと恐ろしい生き物であるか。僕以外の人はこんなこと考えないのだろうか。この恐怖と戦いながら難儀に生きることはないのだろうか。そう思うと、世界を我が物顔で歩く人々が皆恐ろしく感じられるのだ。それは、僕だけなのか。

 

「君は優しいんだね」

 

 少年はなおも笑い続けていた。胡散臭いその声は僕を馬鹿にしているようでも、心から僕を優しいと庇護してくれているようでも、そのどちらの意味合いでも受け取ることができた。君の気持ちの持ちようだよと頭を殴られたようにも感じるし、この世のすべてとは思うよりも単純なものだよ、と頭を撫でつけられているようにも感じる。割り切ってしまえば、どれほど僕は気軽に生きていけるだろうかと、僕だって考えるのだ。もっと軽快なステップを踏みながら大胆に駆け回れるのではないか、と。けれどそれをしてしまった先に、本当の僕はきっといないのだ。

「優しくはないんだ。臆病なだけなんだ。卑屈で意地が悪いだけなんだ」

 僕が俯いて、彼の服が染まっていくのを足元から追っていると、そうかい、と言って彼は机から降りた。幼子にするように、膝に手を当てて姿勢を低くし、僕の俯いた顔を少年は覗きこむ。

 

「どうにも君は外で生きることが難しいようだ。いっそのこと、僕とこのままここで暮らしてはどうかな。いたずらにページ数だけがかさむ世界の登場人物が一人増えるくらい、どうってことないと思うのだけれど」

 

 少年の瞳は、宇宙のような輝きを放っていてとても魅力的に思えた。彼のその誘いも、素晴らしい提案であるかのように感じて僕は口を開いた。

「……僕も、それを望んだことはある。僕は、時が流れるのが嫌なんだ。懸命でいても、そうでなくても、ほとんど区別がつかないこの雑多な世界が怖いんだ。未来を思うと、たまらない不安ばかりが溢れてきて前に進むことが嫌になる。本のように同じページで止まっていられたなら、時を止められたなら、夜眠りにつく微睡の時間のように曖昧なままでゆったりと溶けてしまっていけたなら、どんなにいいだろうかと、いつも考えてしまうんだ。僕は、それが

 

 純粋なる文字の羅列がそこにはあった。

 

 僕はページを捲っていた。星の光を放つ本ではなく灰色の、ところどころ擦れて破けてしまったぼろぼろの本を手に、本棚の前に立って僕はページを捲っていた。そして僕の背後には、白い世界ではなく僕のよく知る鈍い色彩を持つ世界が広がっていることに気づいていた。騒々しさが、帰ってくる。

僕はページを捲った先を読む。灰色の本には、黒く一面を塗りつぶすように言葉が綴られていた。

 

 

『君は永遠の時を望んでいながらも、次へと進むことを選んだ。君は真に止まることを知らない。君の言葉の先は失われ、後も失われ、そこには何も残らずに、君は君というすべて失い、ただそのページを捲ることもなく、ただひたすらにそこにいるだけになる。君は永遠の時に惹かれて、甘い言葉に頷こうとしたけれども、君はその本質を知らない。止まるというのは、そういうことなのだ。』

 

 僕は本を閉じた。そうして適当に本棚へと突っ込んで、自分のいた席に戻った。勉強道具をさっさと鞄にしまうと、机につく半数の生徒が眠ってしまっている図書館を後にした。

 もう僕はあの本を読むことはないだろうと思った。あの場所だけは、僕が逃げ込むことができる場所であり、わかりきった説教などを食らう場所ではないと思っていたのに、裏切りにあった気分であった。内のもやりとした思いを抱きながら、僕は下校する。しかし僕は、神のようにすべてを見透かして語る少年の最後の物語を何となしに理解していた。

時に「止まってしまえ」と強請っていながら、僕は自分の手で時を進めてしまったのだ。止まった時というのは、僕が夢見るほど素晴らしいものではないらしい。それはまるで、星の光の届かない、宇宙の奥底へ落ちていくようなものなのだと、そういうものなのだと、彼は僕に見せつけて、物語の終極を迎えたつもりでいるのかもしれなかった。