比翼   まいおし


「お久しぶりです、今木さん。少しお話があります」

 深町が訪ねてきたとき俺はたいそう驚いた。深夜、というよりは夏場であれば朝に近い午前四時だった。とても他人の家に訪れるのに向いた時間帯ではない。もっとも、俺は普段からほとんど朝方に寝て起きるのは夕方ごろ――ろくでもない生活だ――だったし、深町もそのことを知っているはずだから、驚いたのはそのことについてじゃない。彼女が何の連絡もなく、突然にやって来たことだった。少なくとも、俺が知っている以前の深町はそういったことに関してはきちんと筋を通すやつだった。

 よく見れば彼女の頬には、もう秋も終わろうという頃なのに汗が浮いていた。もしかしたら走って来たのかもしれない。とにかく、こんな時間に玄関先で立ち話なんて近所迷惑になる。

 俺が半ばひきこもるように暮らしている家――といってもボロいアパートの一室だが――は世間一般に考えられている男の一人暮らしのイメージをけして裏切るものではなかった。この二年間でかつてはそれなりに清潔に保たれていた部屋は大きくその姿を変えていた。隅に積まれた雑誌だとか手紙だとかの山。空のペットボトルやカップ麺の容器のようなゴミさえいくつも散らばっている。

「とりあえず座ってくれ」

 深町は部屋をぐるりと見渡し少し眉をひそめて、そこだけは周りより少しはマシなベッドに腰掛けた。彼女は以前の、もう一人の住人を失う前のこの部屋を知っていた。ずいぶんと急いでいるように見えた割に、彼女はなかなか話しだそうとはしなかった。もしかしたら俺の思い違いなのかもしれない。

「コーヒー、飲むだろ?」

 彼女はわずかにうなずいた。

 目分量でインスタントのコーヒーを淹れる。ミルクと砂糖をたっぷり。深町はブラックでは飲めないのだ。以前は結構な頻度でこの家に来ていたから、その程度のことは俺も覚えていた。

 まさか隣に座るわけにもいくまい。俺は湯気を立ち上らせるカップを手渡し、何冊かの雑誌をどけて床に座った。自分のカップに口をつけてから気づく。なにも俺までこんなに砂糖を入れる必要はなかったのだ。

「それで、話っていうのは」

「真面目な話です」

 彼女にしては珍しく、深町は言葉をつづけるのをためらっているようだった。かつての深町響は馬鹿が付くほど正直でまっすぐなやつで、こんな時間にわざわざ訪ねてくるのだから良い知らせではないだろうと想像はしていたがいよいよもってロクでもない話らしい。

「早く言え」

 深町は救いを求めるように俺を一度見てからあらぬ方に視線を彷徨わせたあと、今度は何かを諦めたような目で俺をまっすぐに見つめた。

「高村先輩が亡くなられました」

 彼女はゆっくりとそう告げた。

 わざわざ深町が俺のところに訪ねてくる用事なんて、明日香のことのほかには想像もつかなかった。こんな時間ならなおさらだ。半ば予想していたことではあるが、それでも俺は思いのほか衝撃を受けた。高村明日香が死んだ。なるほど。人はいつか死ぬものだ。不思議でもなんでもない。

「そうか」

 コーヒーを飲み干すことで、なんとか手の震えをごまかそうとする。情けないことに、鼓動は心臓が裂けてしまいそうなほど速くなっていた。畜生。甘すぎる。

「どこで」

 つとめて落ち着いた声を出そうとした。最後に明日香を見たのは成田だった。それから一度たりとも連絡は取っていない。確かその時は中南米のどこかに行くと言っていたが、今はどこにいるのか知れたものではなかった。いささか無鉄砲でいやになるほど行動力のある明日香のことだ、二年間もひとところに落ち着いているとは考えられなかった。

「どうしてそんなところへ」

 深町があげた国はニュースで何度か聞いたことがある名前だった。ヨーロッパの南の方だったか、物騒な事柄の絶えない場所だ。政治と宗教と民族。少なくとも今この時まで俺の人生に関わりのある地名ではなかった。

「先輩は、」

 そんなことすら知らなかったのか、と深町は驚きと軽蔑の入り混じったような表情を浮かべた。

「先輩は毎週のように手紙をくれました。あなたのもとにも届いたはずじゃないですか?」

 部屋の片隅を振り返る。何通もの手紙は乱雑に積み上げられた紙の束のどこかにあるはずだった。もちろん開けられないままに。いったい俺に、どんな顔で手紙を読めばよかったと言うんだ?

「たしかに手紙は届いたよ」

「なんで今木さんはここにいるんです?」

 深町の視線には激しい怒り――それとも、憎しみと呼ぶべきだろうか?――があらわれていた。かつての彼女にとって高村明日香はもっとも重要な人物だった。今でもそうなのかもしれない。忠実な犬っころみたいに明日香の後ろをどこにでもついて行って、ついには俺たちの家にまでも来てしまったほどだ。確かに明日香は尊敬に値する人間だった。彼女が崇拝するのも無理はない。

「どういうことだ」

「なんで先輩と一緒にいないんですか? 先輩は今木さんのことも誘ったはずです」

 あるいはもし俺が主人に忠実な犬であれば。俺は明日香にどこまでだってついて行っただろう。残念なことに俺は犬にもなり切れなかったし、対等な存在にもなり得なかったのだ。

「俺も死んでいればよかった、と。そういうことか」

 別段怒りは湧かない。彼女が俺のことを恨んでいるのも当然のことだ。俺は明日香を引き留めようとさえしなかったのだ。決定的な二年前のあの日までに、俺はすでに明日香といることに耐えられなくなっていた。

「まさか――ええ。でも、そうなのかもしれません。先輩には今木さんが必要でした。誰か、一緒にいる人が」

「お前が行けばよかったんだ。俺の代わりに」

 彼女ならばそれができたに違いない。けして敵わない相手に、それでも並ぼうとし続けることよりも付き従う方が簡単には違いないだろう。もっとも、俺はそれすらできず逃げ出したのだけども。

「だめですよ。先輩は私の言うことはほとんど聞いてくれませんでしたから」

「同じことだろ」

「いいえ。先輩を止められたのは今木さんだけでした」

「俺にはできなかっただろ」

 誰も明日香を引き留めておくことなんてできやしない。自分の信念の為ならためらわずになんだってできる、そんな存在。この世の誰もが彼女のようにふるまえるわけではない。そうして、明日香は俺との何もかもを放り投げて、俺にはもう届かない場所へ行ってしまったのだ。

「やらなかっただけでしょう?」

 深町はそう言って、もう冷たくなってしまったであろうコーヒーを啜った。

 一つ大きく息をつく。どちらにしたって大した違いはない。

「手紙を読んでいないんでしょう?」

 その声にもう怒りはほとんど含まれていなかった。深町は憐れんでいたのだった。何一つできやしなかった男のことを。彼女はふっ、とわずかに口の端を上げさえした。

「先輩がどこから手紙を出していたか、知らないでしょう? 先輩はひとところに居続けやしませんでした。パナマ、キューバ、アイスランド――」

 深町が並べたのは、穴蔵ようなこの部屋から出られない俺には到底想像もつかない、これからも行くことのないだろう場所ばかりだった。

「――高村先輩はどこにいたって、あなたのことを忘れてなんかいませんでしたよ」

 ああ。明日香は本当に、どこへだって行けたのだ。

すでに夜が明けようとしているようだった。雲に覆われてはいたものの、確かに空は白み始めていた。窓から見えるその景色に、俺は目を開けてはいられ

なかった。