被食者   逃走大介



 何でもない月夜の一幕。
 日課であるジョギングを終え、入浴を済ませてのんびりしていると、コンコン、と玄関の扉を叩く音がした。
 夜遅くから誰だろう? と疑問に思いつつ鍵を開け、来客を確認すると。
玄関に佇み、暗がりに溶けるようにして、彼女はそこにいた。日に当たらない生活をしているのだろうか、透き通るように白い肌が病的に映る一瞬があった。
 しかし、よく見てみると、著しい黒髪の艶と、薄い唇の生々しいまでの血色、形の良い瞳に宿るぎらつきとでも言えそうな意思の輝きが、否応なしに生命力という単語をこちらの脳裏に刻み込んでくる。 「あの、どなたですか?」
 おどろおどろしい彼女の雰囲気に気圧されつつも、俺は声を絞り出してみる。

「わたしはクラド=ゼッペリン=ドラクラ」
 決して大きな声ではない。だけど聞く者の腹の内側を重々しく震わせてくるような声音が響く。

「あなたを頂きに来たわ」

 一方的な宣言が俺の脳をぶん殴った。
「やばッ……」
 今の尋常じゃない圧力からして、性的な意味ではなく、ただ単なる「捕食」として「いただきます」をするという意思表示であることは明白だ。薄く浮かべた笑みにこぼれる白い歯。否。それは犬歯と言い置くには大きすぎる牙とでも言うべきものだった。
 身の危険を感じてドアノブを握っていた手に力を込め、扉を閉めようとする。しかしその直前に彼女は扉に手をかけ、俺が閉めようとする力を難なく押しとどめた。
「あら。つれないわねぇ。女の誘いを無下にするなんて器が知れるわよ?」
 嘘をつけ。さっきの言葉にそんな色っぽさなんてかけらもなかった。このままじゃ喰われる。頭からぼりぼりと食われる。言い知れない恐怖の冷たさが全身を貫き、心臓が痛いほどに早鐘を打つ。
「いいわ。いいわぁその怯えた瞳。感情が高ぶった時の魂は炎のように熱く震えるの……本当に美味しそうね貴方」
「ッ〜〜〜〜!!」
 やばいやばいやばいやばい!
 このままじゃ本当に殺される! 
 思いきり力を込めているのに今にも扉が開かれそうだ。なんでこんなに力が出ないんだよ俺の筋肉は! 今まで散々鍛えてやったろ! 少しは俺に応えてみろよいや応えてくださいホントのホントに食われちまうぞ!!
「でも、あんまり焦らされてこっちが冷めても面白くないわ。手短に済ませてしまうのは雰囲気が無くていけないけれど仕方がないでしょうね。えい♪」
 そう言って、ごくあっさりと。
 紙でも破るかのように扉を横に千切り始める。そして金属がねじ曲がるぎりぎり言う音が終わると。扉の上半分がなくなって、彼女の上半身がまるまる見えた。そして薄い微笑みそのままに、俺の手首を掴もうと手を伸ばし――
「うわあああああ!!」
 俺が後ろに飛びのいたことで空を切った。
 みっともなくゴロゴロと転がる。反対に彼女は俺が急に手をドアから手を離したのにもかかわらず、微動だにしていなかった。つまり彼女は扉を押さえるのにまったく力を使っていなかったのだ。
「人間じゃない……」
「あら、失礼な子」
 少し離れてから見る彼女の目は赤くなっていた。一定のリズムでその赤は密度を増していく。どくん。どくん。どくん。どくん。その間隔は心臓の鼓動を思わせる。
「さあ、おいでなさい。そして告げるのよ。お入りくださいと」
「そんなこと――」
 言う訳がないだろうと口にしかかったところで。
 体の自由が利かなくなった。
「――ッ!」
「ほうら、こっちに来たいでしょう? わたしを迎えなさい」
 右足が動く。ギリ、ギリと体が引きずられるかのように前に出る。彼女の瞳に体の意思が吸い込まれて、自由が希薄になる錯覚が満ちていく。
「ああ、いい子ねぇ」
 その目は赤を通り越して鮮血のような金赤になっていた。
 両足はもはや思うように動かない。繰り人形になったかのように、ぎこちなく前に進んでいく。
「レディの来客にジェントルマンは何をもって迎えるのかしら?」
「ようこそ……お越しを……麗しの……君……」
 口が勝手に動く!
「これで入れるわ。ああ、意外と手間取っちゃった」
 彼女は今が時とばかりにハイヒールそのままに家の中に踏み入ってきた。
「ほら、エスコートなさいな」
「この国の……流儀に……反されますと……おくつろぎに……なれますまい……」
「あら、そうね。まあ今の格好はこの国に即してあるし、それがいいわ」
 そして俺の手足はひざまずき、彼女の靴を脱がせた。
「そんな下僕のようなことはしなくてもいいのに。でも悪い気はしないわ」
 なんでこんなことやってるんだ? いや、命令されたわけじゃないけれど、頭の中の「吸血鬼の虜」になった人間のイメージに沿って服従させられているらしい。何やら靴を磨き始める始末である。
「ああ、そんなことしなくていいわ。思ったよりも面白い子ね」
 彼女は彼女でこの奇妙な状況を楽しんでいる。
 しかしこちらにそんな余裕などあるはずもない。どんなに意思を強く持とうとしても、赤い目のイメージがそれを押し流して、行動を上書きしてしまう。
「ドアを閉めなさい。上の部分も一緒に閉めれば一応格好だけはつくでしょう」
 そうした隠蔽工作を多々施した後。
 彼女は俺の首筋に手をやる。身体がビクッと震えた。
 冷たい。生きているものの艶と死人の冷たさを併せ持ったような質感に、気分が悪くなる。
「そう構えなくてもいいわ。すぐに終わるから」
 まずい! このままでは確実に死ぬ。どうしようもない。体の自由がきかない限り、生殺与奪のすべては全部こいつのものじゃないか……!
「お坐りなさいな」
 言われるがままに居間にあるベッドに腰をおろす。
 その瞬間、彼女はそのまま首筋に爪を立てた。
「――――ッ! ――――ッ!」
「大人しくなさい。上手くすれば命までは取らないし、もしそうなっても美味しくぜんぶ頂くわ」
 上手くすればっておかしいだろ!? 
 という心の叫びは届くはずもなく。
 滴った血を舐め取り、彼女はその牙を俺に突き立てた。
「ああ、走っているところを見かけて追いかけてきてみれば思った通り……適度に締まって歯を押し返してくる弾力と若い血の荒々しさが……。」
 吸われてる、滅茶苦茶な勢いで血が吸われてる! このままじゃ五分と経たずにお陀仏だ!
(ああ、ちゃんと加減するから大丈夫よ)
 こいつ! 直接脳内に!?
(血を吸うってことは魂を取り込むことでもあるのよ? 知らなかったでしょ)
 知るわけないだろ! 俺は人間なのに!
(それにしても美味しいわ。血の中に余分なものが少なくて、それなのに栄養は詰まってる。晩御飯は脂身の少ない肉といい野菜を使ったのね)
 なんでそんなグルメリポートみたいなこと言うの!? そういったことがわかるならふつうにご飯を食べればいいじゃないか!
(普通のものを食べることも出来るけど、それじゃ魂の密度が足りなくってね。だから時折こうして人を襲うのよ)
 あああヤバい! そろそろ本気で眩暈がしてきた。視界がぐんぐん狭くなっていく! やめて! ホントに死んでしまう!
(あら、まだ大丈夫よ。成人男性の出血での致死量は二リットル前後よ? あなたは鍛えてるみたいだし、三リットルは頑張れるわ)
 いやいやいや! 既に致死量分吸ったの!? もう無理! 出血大サービス終了!
(本当に面白い子ねえ。ふふふ。なんだかいじめたくなってきてしまったわ。でも一応そろそろ終わりにしようかしら)
 あ、やめてくれた!? ってああ! また吸い出した! あ、やっと終わった……………………あああまた吸い始めた! なんなんですか!? 吸ったりやめたりの繰り返しで! 希望を持つことが罪なの!?
(そんなことないわ。生きていく上で希望を捨てたら人生にはなにも残らないわ)
 いい教訓ありがとう! 願わくばその至言を活かす機会をください! このままじゃただの無駄なお説教になってしまいますよ!
(冥土の土産という考え方はどう?)
 なるほど! その手があったか……ってやっぱイヤー!
 どんなにもがこうとしても体が動かない。脳の回転をどんなに上げようとしても、空転しているかのようにかみ合わず、今にも焼け落ちそうだ。
「あ、あ……」
 思考がどんどん速度を下げる。脳の右側から順に死んでいき、思考にどんどん穴が開いていく。
「ああ。美味しかったわ。これほどの味は久しぶりだわ。ふふふ」
「あら。気を失っちゃったのかしら。あれだけたっぷり血をもらったんだから仕方ないわねえ。んしょっと」
「まあ、これだけ楽しませてもらたんだしちょーっとくらい義理立てしてもいいかな」
 身勝手な声を、意識の奥底で聞いた気がした。

 重い。頭が重い、心臓が重い、呼吸が重い、胃が重い、肝臓が重い、関節が重い、脳髄が重い、重い重い重い! モイモイ!
「ッぶはあっ!」
 目が覚めた。全身を貫くだるさと重さが苦しい。この世にサヨナラしかかってしまった。それにしてもモイモイ! っていうフィンランド語の別れの挨拶かわいすぎると思う。
 どうやら俺は生きている。全身の不調が、自分が今生きていて、死にかかっていることを伝えてくれる。生きているということは死を感じていなければ感じられないのだろうな、という不思議な発見があった。
 あのドラクラとかいう女性は影もない。もしかするとあれは体調が悪かったから見た悪夢だったのかもしれない。
 とにもかくにも一日は始まっている。立ち上がると確実に立ちくらみで倒れるであろう気分の悪さなので、這い出るようにベッドから出る。まさしく今の俺は這い寄る混沌の図であろう。
 狭い視界の中、テーブルに何か乗っているのに気がついた。なんだろうとよく見てみると。
「レバー、鳥もも肉、ホウレンソウ、牛乳、カロリーメイト、ヨーグルト、ヒジキ、オレンジ…………飲むタイプの鉄分ヨーグルト」
 そう言えばあいつ言ってたなあ。
『まあ、これだけ楽しませてもらたんだしちょーっとくらい義理立てしてもいいかな』
夢じゃなかった……。というか義理立てってこれか……。失った分の血を再生できるように鉄分の入ったものをただただ買ってきたらしい。その傍らに空っぽの財布が置いてある。
「これ俺の財布やん……」
 懐が寒くなってしまったのは悲しいが、正直ありがたい。まともに動けないので、このまま放っておかれたら、衰弱で死んでいたかもしれない。
 財布の下に白い紙が見える。飲むヨーグルトを吸い込みつつよく見てみる。


  頑張ってたべておいてね! また今度友達連れて来るから! 絶対よ!


 ……悪夢だったならよかったのに。