ヒロイックシンドローム 鹿ノ介

 家の扉を開けると、ひどく饐えた臭いが俺の鼻をついた。玄関脇には出そう出そうと思いつつも日々の寝坊に阻害された、哀れなゴミ袋達が積み上げられている。いや、この場合哀れなのはゴミも出せず、こんな狭いワンルームに暮らしている自分の方かな。

 ネクタイを緩めつつ冷蔵庫を開き、缶ビールを取り出してそのままごろんと畳に横になった。ほぼ万年床となっている布団から枕だけをひったくり、壁に押し当てて頭を乗せる。視界に広がるのは、わずか六畳の俺の部屋。今の俺の全て。

 ビールを開けて一気に呷る。周りとの付き合いの為にと飲みだしたビールは、俺にはまだ苦いだけの炭酸だ。それでもこれが一番手っ取り早く酔えるからいつからか買い溜めをするようになっていた。それは典型的なアル中の考え方のようで、自分のみっともなさに自嘲の笑みがこぼれた。

 ああ、そういえばツマミを買い忘れてしまった。普段自炊する習慣もないものだから、冷蔵庫の中には食材なんて入っていない。横になってしまった以上買い出しに行くつもりは毛頭ない。ならばツマミなんて必要ないかと、俺はもう一度ビールを呷る。口の中に残る嫌味っぽい苦みと部屋の臭いとで最悪の気分だった。たぶん、説明しようとしてもこれは大人になって経験しないと理解できないタイプの気分。こんな些細なことから大人になってしまったことを気づくようなやつは俺以外にもう出てきてほしくはないなと、換気の為に窓を開けながら思う。

 梅雨の時季にふさわしくジメジメとした空気が部屋に流れ込んでくる。このままにしておいたら、そのうち布団の裏からキノコでも生えてきそうだ。考えただけでもおぞましいことだが、ポジティブに捉えればツマミを買いに行く手間が省けて案外、うまく共存できそうな気もする。

 どうにもはっきりしない梅雨時の天気のような、あるいはタイトルの思い出せない本のことを考える時間のような、そんな靄に包まれた気持ちを抱えてちびちびとビールを飲み進める。缶が空になろうかというところで、スラックスに入れたままだったらしい携帯が震えた。

「メール……誰から」

 差出人欄の古谷という名前にはどこか引っ掛かったが、誰だったかが出てこない。だが知らない相手でもないようだし、スパムでもないだろう。勝手にそう当たりをつけ、メールを開く。

『お久しぶりです、突然のメールすいません。同じ高校だった古谷です。あまりに久々のメールで普段の話し方を忘れてしまったので、敬語です。実は今度稼働するアーケードゲームの開発に携わっています! 覚えているでしょうか、よく学校帰りに吉祥寺のロフト地下でやっていたものです。来月にロケテストがあるので、また一緒にやれたらと思いメールしました。都合が合えば、是非。』

 メールの最下部にはそのゲームの公式サイトらしきリンクと、ロケテストの日時が貼ってあった。リンクを辿ってブラウザが切り替わると、鮮やかで派手派手しい色使いのページが表示される。

「あぁはいはい、こいつか」

 なにやら知らないキャラも増えていたが、それは間違いなく昔俺がやっていたゲームだった。ゲームと記憶が結びついて、芋づる式に古谷のことも思い出されてくる。黒縁の眼鏡にかっちりと制服を着てゲーセンに通っていた友人が、確かそんな名前だった気がする。もうかれこれ十年近く前のことなのか。ゲームを遊んでいた側の人間が作る側に回るだなんてこと、それこそゲームや漫画の中の話だと思っていたのに、知り合いがそうなったのだと知るとやたらと時間の流れを感じてしまう。

 通称ライズと呼ばれたそのゲームはまだ根強い人気を誇っていて、数年前に発売されたコンシューマ版は自分でも買ってやったことがある。なんでもまだオンライン対戦は活発らしかったが、俺はもうすっかりやめているので詳しくは知らなかった。

 しかし折角思い出したんだ、久々に引っ張り出してやってみようか。空になった缶を放って、本棚を漁る。最近は本もゲームも買わなくなって、本棚なんて名前こそあるがただの棚となっているそこは、掃除の嫌いなものぐさ野郎のせいで荒れ果てていて探すのに苦労しそうだ。病気での休載後に何があったのか絵がひどく乱れて集めるのをやめた漫画、クリアが近づいて放り出したゲームが数本、いつ脱ぎ捨てたんだか覚えていない片方だけの靴下、生活の荒廃ぶりを語るには十分すぎるほどの物々を掻き分けて、どうにか目当てのライズを掘り出した。

 さて、いざやってみようかと箱を開くと肝心のディスクが入っていない。これはどうしたことだろう、もしかして前回遊んだ時のままゲーム機に入っているのかしらんとそちらを探してみるも、出てきたのは延滞していたDVDだった。深夜にこっそり返却箱に返しておけばいいか、もう会員登録した時の住所も電話番号も使ってないし。

 冷蔵庫から持ってきた次のビールを開けつつ、どこに片づけたのかと過去の自分がしそうな行動をトレースしてみるものの、一向にソフトは見つからない。そうしていると家の外からしゃがれた数人の笑い声が聞こえてきた。金曜日だからと飲んだくれたのだろう、深夜の住宅街を汚い声でげらげらと笑いながら闊歩する彼らが通り過ぎていくのを、俺は心を静めて待った。窓を閉めておくんだった。手元に投げつけるものでもあれば、勢い余って本当に投げつけてしまいそうだ。

 いや、なんだか前にも似たようなことを思ったっけ。あの時はそうだ、彼女とも別れたばかりで気が立っていたものだから投げつけてしまったんだ。なにをって、ソフトを。フリスビーの要領で投げたら意外と気持ちよく飛んでくれて、そのまま飛び過ぎて向かいの家に消えていったんだっけ。なんてことだ、俺は無くしものではなく失くしものを探していたのか。

 失意の中でテレビをつけると、これまた懐かしいアニメの再放送をしていた。変身もので、回を追うごとに主人公の変身時間が減っていく中で戦う、というような話だった気がする。思わず見入ってしまい、終わるころにはもう深夜の一時を大きく越えていた。

 主人公の変身時間は二分半だった。

 放送当時見ていた時はなんとも思わなかったが、この歳になって改めて見ると随分メッセージ性が強かったのだなと感じると同時に、それをこんな時間に放送する性格の悪さに嫌気がさした。主人公の変身時間が減っていくのは、大人の視聴者への痛烈な皮肉だ。いつまでもこんなものに憧れず現実に生きろと、お前らの夢の賞味期限はもう切れるのだぞと、子供には通じず大人にだけ伝わる暗号のようなそれは俺の胸に突き刺さった。

 外からはまた酔いどれ共が向かってくる気配がする。俺は開けていた窓から飲みかけのビールを外に垂れ流して、空き缶を声のする方へ力任せに投げ捨て、憎い相手の顔面を思い切り殴りつけるくらいの勢いで窓を閉めた。

 古谷に返事をしなくてはならない。返信画面を呼び出して、行けないという旨を言い訳を交えつつ書き綴る。あとは送信するだけ、というところで俺は違和感を覚えた。

「名前、登録したままだったんだな」

 正確には少し違うかもしれない。相手の名前が表示されるのは相手のことを電話帳に登録したままということではあるが、それが持つ意味はそれだけではないことを俺は知っていた。

 相手のことを登録したのは十年前。相手が俺のことを登録したのも同じ頃だろう。その間、俺たちはお互いにアドレスを変えていなかった。だからこうして相手の名前が表示されているのだ。

 別にアドレスを変えなかったのに理由があるわけではない。たまに迷惑メールは届くし、若い自分が考えたアドレスは大人になって見ると少し恥ずかしいと思うこともあった。それでもなんとなくアドレスを変更することなく、こうして古谷のメールを受信している。

 俺は返信内容を書き直して、二度読み返し納得してから送信ボタンを押した。まだ賞味期限は切れてはいない。