光射す街で   夕凪奈都



 「世界」という言葉がある。普通の人はこれを聞けばまず思い浮かべるのは、地球全体のことだと思う。でも現実の世界にいる僕たちが感じる「世界」は、身の回りのほんの小さな箱庭だ。認知した場所のみが自分の「世界」だから。この箱庭という表現は、まさに田舎に住み、学校に通う僕には特にお似合いである。などと愚痴を溢す暇があるのなら遅刻せずに学校に来いと担任に言われてしまいそうである。まぁ、今日もしっかり遅刻だが。

 担任にこってり絞られた後教室に戻ると、隣の席の亜貴が話しかけてきた。
「また遅刻か。君も懲りないやつだな」
 いつも通りで安心するでしょ。布団の温もりが僕を二度寝へと誘うんだよ……。
「それはつまり君が間に合う時間に起きれたということか? そしたらそれはすごい進歩じゃないか!」
 そこはかとなくばかにされた気分だけど……まあいいよ。それよりも僕はちょっと眠いから寝る。
「そうか。ならゆっくり寝てくれ。昼になったら起こしてあげるよ。」
 止めないのか? こんなこと聞くのも野暮だけど。
「私が止めたところで君は寝るのをやめるのかい?」
 確かにそうだ。ほんとに野暮だったね。あ、もうダメ。お休み。
 そういって僕の意識は深層へと落ちて行った。


 僕は、この町が嫌いだった。電車もろくに走ってないし、県の主要の街に行くのにも一時間以上かかるような場所、町は小さく、都会にあるようなものは一切ない。そしてココでしか生きることを考えていない同級生。僕は変わりのない、変わることを拒否している人々に嫌気がさしていた。そんなやつに、一生ここで安定した暮らしをするのが一番と考える同級生たちの中に真の友達ができる訳がなかった。だから一日の多くを図書館で本を読むことに費やしていた。そして、ある日僕と同じように一人で本を読み漁っている少女と出会ったのだ。

 昼休み、亜貴にすごい勢いで揺らされ僕は目を覚ました。
 地震が起きたのかと思ったよ……。
「こうでもしないと起きないと思ってね。許してくれ。今日はどこで食べる?」
 まぁ、いつも通りで良いんじゃないかな?寒いけど、うるさいとこよりはましだし。
「だね。では早速向かおうか。」
 待って。まだメシ買ってないから購買寄っていい?
「どうせ今から言っても売り切れだろう。そうだろうと思って君の分はもう買ってあるよ。」
  相変わらず気が利くね。全く亜貴には頭が上がらない。
「それ程でもないさ。君には大きな貸しがあるからね。」
  貸しだなんて。僕は何もやってないのに。
「そんなことない。君は私を救ってくれた。それは今でも大きな支えになっているよ。」
 そういう亜貴の顔を見ていると、彼女が本心でそう言ってることが伝わってきた。
  大げさだなぁ。それにあの時はむしろ君が僕に近づいてきてくれたから、だろ。だからこの話は終わり。礼なんか言われたくないしさ。
「なんだそっけないな。それに礼がちゃんと伝わっていないみたいだし。」
 と、頬を膨らませながら、亜貴は少し早足で階段を上って行った。そんな後姿を見て、少し顔を伏せながら僕も少し足を速めた。


 見なれない顔だ。しかも自分と同じくらいの子だったから余計目を疑った。でも僕の記憶にその子はいない。僕は少しの期待と多くの不安を感じていた。だから本を読むふりをして彼女を観察した。彼女は僕に気づいてないようで黙々と本を読んでいた。それをずっと続けていると、いつの間にか夕方になっていた。本を読み終わったのか、彼女は少しため息を付いて本を閉じた。そして本棚へと向かっていった。僕は机へ体をうなだれる。彼女をずっと観察していたので、かなり疲労が襲ってきた。どうやら本を読むよりも集中していたみたいだ。そんなに珍しいことじゃないと片付ければずっと本を読めたのに。全く何をやっているんだろ。そう考えながら机に伏していると、ふいに肩を叩かれた。「もう閉館ですよ」と司書の人が言いに来たのかと思いゆっくり体を起こし、目を向けるとそこにはさっきまで見ていた顔が目の前にあった。思わずわっと声を上げ、体をすごい勢いで戻した。声に驚いたのか、彼女もまた顔を急いで戻していた。同時に二人しかいない図書室の中に気まずい空気が流れ始めた。何か言いださなきゃいけない。そう思ってとりあえず何か話題を……考えていると、「さっきから気になっていたが、君は誰だい?」
 と彼女から唐突に質問された。まるでいきなり捕まえられて知らない場所に連れてかれたような、そんな気分だった。
 誰って言われても……この町の住人かな。
「なかなか面白いことを言うな。君は来てからずっと私のことを見ていたじゃないか……。まさか初対面で私のことをす……」
  違うよ! そうじゃない。見慣れない顔だったから気になったんだ。この町の同年代で知らない人はいないから。
「……んだ。つまらんな。」
  なんか言った? 小さくて聞こえなかったんだけど……。
「そういうことか、といったのだよ。しかしそれにしても熱心だったね。普通そこまで気になるようなことではないと思うのだけど。」
  ……確かにそうだね。変な視線浴びせてごめん。
「いやいや君が謝る必要はない。ただ少し気になったのでね。よければ、ぜひ理由を教えてくれないか?」
  ……僕と似ているなって思ったんだ。だって君ぐらいの子だったら普通は図書館なんて来ないで友達と遊ぶよ。
「まぁそうかもしれないな。でも君にはそうできない理由がある。そういうことかな。」
 そんな感じだよ。……そういう風に言うってことは君も同じってことかな?
「そうだね。そういう点から見れば似ているね。私たちは。私の理由は単純だから言ってもつまらないだろうから、君の理由を知りたいな」
 僕の? 少なくとも面白い話ではないよ?
「いいさ。その代わり君の話を聞いても誰にも言わないし、茶化すようなこともしない。あくまで興味本位として聞きたいんだ。それに言わなかったけどね、君がずっと私を見るから私は読書に集中できなかったのだよ。その罪を償う意味でも話してくれ。」
  わかった。話すよ。


 亜貴の背中を追いながら夢の続きを思い出していると、すぐに屋上に着いた。春先になるとこの場所は賑やかになるのだが、今は冬将軍が日本にどんと居座る一月。昨日降った雪が残った屋上にくるような人はいない。でも校舎もかなりオンボロだから中と外の気温はあんまり変わらないみたいで予想よりは寒くなかった。僕たちは上にあるタンクのおかげで雪がかぶらない椅子にいつも通り座った。亜貴はいつも通り弁当箱と取り出しながら、話してきた。
「さっきはすごい勢いで寝ていたみたいだけど、昨日は遅かったのかい?」
 読んでいた小説が面白くなってきてつい、ね。どうしても最後まで読みたかったんだ。
「そっか。でも君が学校に来てすぐ寝るなんて珍しいな。いつもは数学になると寝るのだが……。」
  なんで高三から文理に分けるんだよ……せめて二年だろ。数学とかどうせ勉強しないし。
「確かにそれは思うな。でもそうしたら君と私は別になるから私は嫌だな。」
  確かにお前は理系だからな……ってなんだよ急に……。
 僕は少し恥ずかしくなったので、さっき見た夢のことを話して話題を逸らそうと考えた。
  そういえばさ、授業中夢で僕たちの出会いのことを思い出したよ。ほら、図書館のやつ。
「ずいぶん懐かしいことを思い出したね。私は今でも一部始終覚えてるよ。なんていってもこの町にきて最初の思い出だからね。」
  そうだね。僕も同学年の子とあんなに話すなんて町に来てから初めてだったよ。今はこうやって普通に話すけど、今考えたらすごい巡り合わせだよね。
「そうだね。でもあの時君に会っていなかったら私はもっと大変なことになっていたはずだ。それこそこの学校にいれない程に。」
  ……でも今こうしてここに亜貴がいる。それでいいじゃないか。
「……そうだね。それで十分だ。」
 そういって亜貴は少し憂いのある表情をしたが、すぐにこっちを向いて笑顔を見せてくれた。それを見た僕は少しほっとして、買ってきてくれた焼きそばパンをわざと頬張りながら食べた。


 幼稚園の頃、僕は東京で暮らしていたんだ。父親は優れた学者だった。けど父親は僕が小学生の時に病気で亡くなってしまって、母親が働かざるを得なくなった。けどそれまで働いてなかったせいか就職先はなかなか見つからない。その時にたまたま父親の知り合いの人から連絡を貰って仕事を見つけてくれたんだ。でもなぜか母親は最初それを断った。けどその後も見つからなかったから、仕方なくそれを受けた。まだ僕も小さかったし、早く決めないといけないって思ったんだろうね。それがこの町だった。
「……それでこの町にきたのか。」
 そう。その時はまだなぜ母親が最初拒んだのかっていうのがわからなかった。でも少し経ってそれがわかったんだ。母の仕事場の近くで暮らすことになった僕は地元の小学校に転校した。でもなぜか周りの人は僕に対してよそよそしくてびっくりした。前の学校にいた時はそんなことなかったのに。だから僕は戸惑ったし、自分が何かいけないことをしたのかと不安になった。でもそれがいつまでも続くから、僕は何だか変だなと思ったんだ。耐え切れなくなった僕はついに母親に訳を聞いてしまった。そうすると母親は、一瞬辛そうな顔になったけど、すぐに訳を話してくれた。

「この町で生まれ育ったお父さんはとても好奇心が強い人で、知らない物にすぐ興味を示すような子だったんだって。当時はもうTVが全ての家庭に出回っていたから、それで情報を得ていた。それらを見ているうちに、外部に対して興味を持つようになった。そんな子だから当然自分でそこに行きたくなる。だから高校を卒業したら上京することを昔から決めていたみたい。でも家族は猛反対だったの。
『なぜ行く? お前は頭が良いのだからこの町の役場などに入れば、安定した暮らしができるのに』『この町にいて何も不自由はないだろう』ってね。でもお父さんはそう言われても、そんな意見は間違っていると思った。だから卒業と同時に飛び出した。文句を言われないように大学も一流のとこを受けて。その直後からお父さんと実家は関係を絶ったの。それで大学を卒業して学者になって、今の私と結婚した。私も同じような境遇だったから気が合ったの。でもね、町っていうのは小さいの。だからもちろん父が町を出て学者になったことも、結婚したこともみんな知っている。父のように町から出て行く人が増えていったら、町には若い人が消えてどんどん廃れていく。それは町で暮らす大人たちにとっては良くないことだよね。だから小さい頃から自分の子に町にいるのが一番良くて、町から出ることはとても危険な事だと教えるんだよ。しかも私たち家族はそんな彼らから見たら裏切りものだよね。だからクラスメイトの親たちは仲良くするなって子ども達に教えるから、よそよそしいんだよ。」
 
 ……そういい終えた母親は泣きながら僕に謝った。
 その時に、僕も父親と同じようなタイプだったんだなって思った。知らないことは知りたいし、学びたい。そう考えていたから。  クラスメイトの事も知りたかっただけで、それが辛くはなかったから。純粋に、それにそれが辛いと分かりながら僕のために来てくれた母親への罪滅ぼしとして外に出て働こうとも思ったよ。でも、一つ言えるのは、別にこの町じゃない場所で育ったとしても、僕は町を出て生きるってこと。確かに安定な暮らしは町で就職して一生暮らせば得られると思う。だから町の人の意見も認める。けどそんな生き方はまるで蟻みたいじゃないか。それなら危険を冒して宝を求める渡り鳥になる。それが僕の理由だよ。

 そう言い終えると僕は少しため息を吐いた。彼女も同じように少し体の力を抜いたみたいだ。
「……なるほど。危険を冒して渡り鳥になる。それが君の理由か。」
  自分で言って恥ずかしくなってきたからあんまり繰り返さないでよ……。
「ごめんごめん。別にからかった訳じゃない。言っただろ?茶化さないって。本当にいい言葉だなと思ったんだ。」
  そっか。ありがと。こんなこと人に話さないからさちょっと不安だった。
「確かに私が『住民』だったらそれはまずかったかもね。でも私はまだそうではないからね。」
  ……? どういうこと?
「つまり、私は今日この町に来たばかりってことだ。」
  てことは、引っ越してきたのか。そりゃ知っている訳ないな……。
「そう。君と同じようにね。まさか初めて来た図書館にこんなに興味深い出来事があるなんて知らなかったよ。」
  確かに単純な理由だ。そりゃ友達もいないよな……。
  でも疑問が一つあるな。
「なんだい?」
  なんでこの町に引っ越してきたんだ?僕のように親に知り合いがいたからか?
「いやこの町には全くいないよ。……それにしても、なぜこの町……か。」
 そういった彼女は少し沈んだ表情をしたがすぐにこっちを向いて、
「子どもの頃、この町に一度来たことがあってね。その時の思い出が忘れられなくて。それで来たんだよ。」
  そうだったのか。こんな辺鄙な田舎をそんな風に思う人がいるなんてびっくりだ。
「なんとなく、そう感じたんだよ。……少し長く話してしまったみたいだ。図書館もそろそろ閉まる時間だ。すまないね。君に話ばかりさせてしまって。」
  ううん大丈夫。僕の方こそ申し訳ない。君も他を回りたかったはずなのに拘束してしまって。
「いいさ。どうせ一日じゃ回りきれない。……それより急いで帰って荷物の整理を手伝わなきゃいかんな。それじゃ私は帰るよ。また明日!」
  待ってよ! まだ名前も聞いてない……っていっちゃったか。まぁこの町だしまたすぐにでも会えるか。……遅くなっちゃったな。僕も帰ろう。
……ん? また明日?

 次の日、学校に行くとクラスが騒がしかった。でも僕はそんなことは良くあることだし、わざわざ聞いてまで知る必要もないかなって流した。しかし朝のホームルームでそれは起こった。
「こんにちは。この学校に転校してきた桑嶋亜貴です。よろしくおねがいします。」
 ……この町には中学一つしかない。小さいから。


 私は彼が気を使って焼きそばパンを頬張ってくれている姿を見ながら、少し複雑な気持ちになった。君はいつも優しい。こんな私にいつも構ってくれる。でもそうすることで彼はさらに孤独になってしまう。私が近くにいることで。だから拒んだ。やっと安心して捕まえる手を見つけたのにも関わらず。しかし彼はその手を摑まえた。温もりを知らない手を。だからもうそうやって自分を責めるのはやめた。自分がそばにいれば彼は孤独ではないから。今度は自分が彼に温もりをあげればいい。・・・ホントにそう思えたんだ。
「……だから心配する必要はない。何も。」
  ……ん?なんかいった?
 といって私の顔をじっと眺めてきた。その顔は本当に素直で優しい表情だった。そんな君だから私は・・・
「なんでもないよ。ただ・・・ありがとうな。」
  ・・・?今日なんか変だよ?亜貴。
「おかしくなったのは君のせいだよ。」
  え?僕のせいなの?
 そういってちょっと赤らめた顔をからかいながら、私はこの表情を守りたいと強く思った。


 孤独。私はそれが嫌いだった。周りにあるのはからっぽな空間。廃墟ではない。空虚だった。物質なんて初めから存在していなかったように。誰も話さない家族。その代わりを保育所の先生に求めた。でも満たされなかった。だからその頃の自分をあまり思い出せない。はっきりと思い出せるようになるのは小学生の頃だが、それは思い出したくもない記憶。消し去りたい記憶だ。もうあんな経験はしたくない。だから私は孤独を選んだ。私がいることでまた誰かが傷つく。そんなのもういやだった。でもあの日。ここにきて一番つらい事と一番うれしい事 があった日。私の日常は変わった。


 昼食を食べ終えた僕たちはそのまま雑談しながら教室へと戻った。そして五時限目が始まる。その前に亜貴が話してきた。
「全く昼を食べた後と体育の後の授業というのは大変だね。強烈な眠気を戦わなければならないよ。」
  僕は今そんな状況じゃなくても寝るよ。数学と生物? どうぞ寝てくださいと言っているとしか思えないよ。
「君にとってはね。私は興味あるからさっきいった話があてはまる。どうせ帰りになったら起きるだろ?」
  ああ、もちろん。だから寝る。
「しょうがないな。でも、最初会ったときはもっと真面目かと思ったよ。」
  そんなもんだよ。男なんて。
「女の子もそこまで変わらないと思うけどね・・まぁ君が死にそうだし、話はこれでやめるよ。おやすみ。」
  おあすみ。
 亜貴の呂律回ってないという突っ込みが鼓膜から脳に届いた頃には、僕の意識はすぐにノンレムへと入っていった。


 亜貴は意外にも馴染んでいた。外から来たからといえさすがに僕ほど危険ではないだろうと親たちは踏んだのかもしれない。もちろん僕も話した。図書館で話したことを除けば、他のクラスメイトと変わらなかった。しかし一つだけ違った事があった。僕以外のクラスメイトと話すとき、亜貴は決して自分から話しかけようとはしなかった。でもわざわざ理由を聞くのも変だなと思っていたので聞かなかった。それは後に思いもよらぬ形で現れたのだった。

 それは突然だった。ある日僕が遅刻して(その頃から僕の遅刻癖は始まっていた)教室の前に向かうと、やけに教室が静かだった。いつもならこの時間はホームルームが終わって騒がしいはずなのに。そして一人が言った。
「君のお母さんは、……なの?」
 それを聞いたときは、何かの聞き間違いかと思った。でも壁一枚、しかも木製のオンボロだ。しっかり音を響かせる構造である。聞き間違いは無い。そう分かっているのに納得できなかった。
「そして君も……」
 そう彼が言った途端、
「それがどうした? 私が君たちに何かすると思っているのか?」
 亜貴が、少し震えた声でつぶやいた。顔が見えないので声しかわからなかったが、それはとても悲しかった。
「君たちが私をどう思おうが構わない。だが母を悪人にするのだけはやめてくれ。」
 そういって教室は再び静寂に包まれた。そして彼女は、
「私が怖いなら無理に話しかけるな。こっちが迷惑だ。」
 といって、教室を歩く音が聞こえた。おそらく教室を出るみたいだ。僕は戸惑った。しかし、すぐに心は決まった。教室から出てきた亜貴は、これまでにない悲しい表情をしていた。そして次に僕の顔を見た時には、とても驚いた顔をした。そんな亜貴に言葉を言おうとした瞬間、彼女は走り出した。僕は必死で追いかけた。ここで追いつかなければ一生後悔する・・・。その時はそこまで考えていた。

 最終的に着いたのは屋上だった。屋上のフェンスの近くで止まると、どちらからともなく膝に手をついて息を吸った。
「なぜッ……追いかけてくるんだ……。」
 まだ息を切れて苦しい状態だが、亜貴が質問してきた。
  わかんないッ……けどッ・・・追いかけなきゃって……。
「君はほんとにッ……よくわからないやつだ……。」
  なんだよ、それッ……。
 少しずつ二人の呼吸が正常に戻っていく中で、亜貴の心も少し落ち着いたみたいだ。
「……聞いていたか、さっきの話。」
  ……うん。
「それでなお私を追うなんて……君は怖くないのか?」
  怖いさ。でも単純に君が怖いんじゃなくて、君に何があったのかわからないから怖いんだ。
「……普通の人は聞くだけで怖いと思うが?」
  ・・・まぁ、そうだけど。図書館で言ったよね。僕は知らないものを知りたいって。それみたいな感じだよ。それに図書館で話した君からそんな雰囲気は微塵に感じられなかったから。
「……そうか。君はやはり変わっている。」
  それはいいよ。ていうか桑嶋さんは僕に何も教えてくれなかったじゃないか。あれ不公平だよ。だから教えてよ。なぜこの町に来たのかを。
「……わかった。ただ一つ約束してくれないか? この話は誰にもしないと。」
  うん。約束するよ。
「わかった。では話す。」

 私は普通の女の子じゃなかった。というと語弊があるかもしれないが。私の母と父は結婚してない。でもいわゆる義理とか妾の子とかじゃない。父の不倫によって生まれたんだ。予期してない妊娠だったらしい。最初は生まないことにしようとしたんだけど、母が生みたいっていって聞かなかったらしい。でも父親と本当の妻の間には子どもが生まれなかったんだ。だから嫉妬した彼女は母を妾にすることを拒んだ。それで私を引き取った。妻は私を自分の娘にしたかったみたいだ。でも彼女は私をすぐ保育所に入れて、ほったらかしにした。その時まだ私は母の顔を見たことがなかったから、妻が私の母親だと勘違いしていた。だからそれがすごく悲しくて辛かった。でも小学生になって、だんだん妻がおかしくなっていった。自分の娘じゃないっていう現実とずっと闘っていたからね。私に暴力をふるったり、父に怒ったり。父は完全に悪い立場だったからね。謝るしかなかった。それもだんだんヒートアップしてきて、もう堪えきれなくなってきたんだ。そこで父は私を母にわたそうと考えた。この子だけが唯一の被害者だからといってね。でもそれを提案したら彼女は激しく怒って、『「あなたがいけないんだわ。だから死んで」って言って』私を殺そうとした。包丁を持ってね。死にたくないと思った瞬間、父が身代わりになったんだ。それで私の中の何かが弾けたんだ。気づいたら妻を刺していた。父を刺してしまって動揺していたからね。小学生の私でも刺せた。直後に私の母が来てこれを見た。母は最初あわてていたけど、すぐに何かを悟ったような顔になって警察に電話したんだ。それで現行犯。母は罪を全て被ろうとしたんだが、目撃者がいて私も共犯になった。これで私の母と私は殺人で逮捕されたんだ。当時はすごくニュースになってね。小学生の凶悪犯罪として有名になった。真相は違うけどね。私は小さかったし、なにしろ前代未聞だったから最初精神鑑定を受けた。そこでどうやら私には激しい二面性があるということがわかった。
 さっきいっただろう? 何かが弾けたと。あれはまさにそれらしい。だから少し刑が軽くなって中学入学ごろには出れたんだ。だが私を引きとる人がいなかった。なんていったって殺人を犯したわけだからね。この町の老夫婦が私を預かってくれることになったときは感動して涙が出た。それでこの町に来たんだ。これが私の理由だ。

 一気に話し終わった彼女は少し息が乱れていた。
「これを話したのは君が三人目だ。でもなかなか慣れないな。……これでわかっただろう?私は二面性がある。こんなに穏やかにしていても急に人を襲うかもしれない。特に自分の大切な人ほど確率は高い。だから人と仲良くしない。また人を殺してしまうかもしれないから。」
 そう言った彼女はこれ以上ないくらいさみしい顔をしていた。今までの顔がうそみたいに。僕は彼女のそんな顔を見ていられなかった。
  じゃあ僕は桑嶋さんを信じてみることにする。君が僕と仲良くしても、他の人を殺さないって。
 彼女は一瞬ぽかんとした後に、少し怒り気味に、
「君はバカなのか!? まだ知り合って少ししかたってないのに! 私のことを少ししか知らないのに! そんなので信じられたって困る。むしろ迷惑だ。」
  でも君の顔はそう言ってない。助けてほしいって言っているみたいだ。
「……本当に君はわからない。バカなのか、頭がいいのか。」
  はは。母親にも言われたよそれ。
「だから、今日から私は君のことを知ってみることにする。もちろん、君に拒否権はない。君が吹っかけたんだから。」

  もちろんわかっているよ。だから今日からよろしく。桑嶋さん。
「さっきから思っていたんだが桑嶋さんって変じゃないか? 呼び方を変えてくれ。」
  何がいいの?
「そうだな・・・。じゃあ!」
 彼女は少し涙を浮かべた満面の笑みで僕に言った。僕らがいた屋上は太陽の光に当てられた雪で輝いていた。


 しっかり帰りのホームルームまで寝た僕は亜貴と並んで歩いて帰っていた。
  ……そういえばさ。
「うん? なんだい?」
  なんで亜貴なの? もっとひねるかと思ったよ。
「名前で呼ばれるのがなんだかんだ一番いいなと思ってね。君も名前で呼ぼうか?」
  いや。やめとくよ。
「そうかい? つまらない、なっ!」
 そういいながら亜貴は前まで走って行って振り返りこういった。
「これからもよろしく頼むよ。とはいっても私にとっては死ぬまでか。」
  ちょっと亜貴!? 物騒なこと言わないでよ!
「……でも君が私の隣にいる限りは、私はいなくならないさ。そんなの当たり前だよ。」
 そういって亜貴は少し前をご機嫌よく歩いている。そんな亜貴を見ると僕はもう何も言えなくなってしまう。

 今はこんな箱庭にいても悪くない――僕は少し眩しい西日と前を歩く亜貴を感じながら、雪についた足跡を辿りながら歩いて行った。