ガンジー   冬月由貴



「らっしーって、なんだろ?」  昼食に入ったインドカレー屋。俺がそれをメニューに見つけるのと、沙姫が読み上げるのとはほとんど同時だった。
「あぁ、ラッシーと言うのはね、」
 聡司がくいっと眼鏡をあげるのと俺が心中で嘔吐の真似事をしたのも、またほとんど同時であった。
「ダヒー……日本でいうヨーグルトに近いものをベースにしたインドのドリンクだよ。飲んでみるかい?」
 一切の過不足がないであろう完璧な説明に沙姫が感嘆し、うんざりする俺を余所に、聡司の雑学披露、もとい人格者ごっこが始まる。
 まったく、忌々しい限りである。勉学はもちろんのこと、こういうどうでもいい分野にまで精通しているもんだから、『ラッシー』から名犬しか浮かばなかった俺とは違って、コイツに尋ねれば大概は事足りてしまう。そのくせ、見た目に難があるわけでも、通常見える範囲では性格がねじ曲がっているでもないなんて、チートにも程があるだろう。優しく、温厚で、賢く、誠実。今の彼は現代に舞い降りた聖人君子、インドカレーの店にいる今ならガンジーとでもお呼びしようか。
「沙姫ちゃん、先に食券買ってきていいよ」
 はいはい、レディーファーストね、紳士なことで大いに結構ですよ、なんて毒づくのは心の中だけで、けれど考えるだけでも自分の卑屈さに嫌気がさしてしまう。だからコイツは嫌なんだ。
「秀一も先に行っていいよ。僕が待ってるから」
 俺に対してだってすんなりとこういう台詞が出てくるあたりが聖人君子の作りこみはばっちりなわけで、いっそ、コイツを良い奴だと思い込んでしまえば楽になれるのはわかっている。だけど、
『僕が待っててあげるから先に行っていいよ』
 少し解釈を広げただけで香る微かな傲慢さ。俺がガンジー様を好きになれない最大の理由は確実にここにある。無意識なのか意識してなのかは知らないが、無遠慮に優しさとの境界線を踏み越えてくる言葉はうっとうしくて、あの、自分は正しいと信じて疑わない顔に、煮えたぎった味噌汁でもぶちまけてやりたくなる。それでも、平気な顔で味噌の寸評でも始めることだろうから、ダメージが大きいのは俺に違いない。
 なんて馬鹿な妄想は捨てて、御言葉に甘え食券機へ向かうと、ラッシーのボタンとにらめっこしていた沙姫が顔をあげた。
「鳩羽くんって、伊沢くんと仲良いんだよね?」
 急な言葉に面食らって、真剣にすがるような目を裏切るのが後ろめたくなって、咄嗟に俺はイイ子ぶった。
「仲が良いって程じゃ、ないけど」
 嫌いだと言ってしまうわけにもいかない、でも彼女の言う通り仲良しだと語るくらいなら三十倍カレーを食べるほうがまだマシだろう、なんて慌てて自分に言い訳をしてしまう。でもそれは弱っちい自分を守ろうとしているに過ぎないと気付いては、あぁ、結局俺は卑怯なだけなのだとまた自己嫌悪に侵される。
「伊沢くんって、彼女いるのかな……?」
 いない、と短く答えながら、続けかけた『でもやめておいたほうがいいぜ』という言葉は慌てて飲み込む。代わりに、一言だけ。
「ガンジーのブラフマーチャリ実験って知ってる?」
 もちろん沙姫は意味がわからずぽかんとしていて、むしろ理解されたら俺の性質の悪い冗談はヒかれるだけだから一向に構わない。だけど、冷え切った味噌汁を飲まされたような後味の悪さが残り、再三の嫌悪感に苛まれる。率直な忠告も、個人的な好き嫌いも述べる気にはなれず、聡司と入れ違いに席へと戻りながら当たり障りなく彼の長所を挙げていく。そのまま適当に褒めちぎっていると、彼女の目がだんだん不治の病からくる熱に浮かされていくのがわかった。
「沙姫ちゃん、あげるよ」
 戻ってきた聡司が差し出したコップには乳白色の液体、ラッシー。
「わぁっ! ありがとう!!」
 喜ぶ沙姫をにこにこと眺めながら、彼は横目で俺に笑いかけた。
 労いの意が籠ったその笑みを見て、悟る。こいつは全部見越していやがったのだ、と。嫌われていることは知っていて、俺の性格もわかっていて、だから紳士ぶって俺たちを二人にした。最初からその打算の上で俺を誘ったのか。
 ――やっぱり俺はこいつが大嫌いだ
 脳内で再び味噌汁をぶっかける。何度も、何度も、投げつける。だがその映像が脳内から飛び出すことはなく、カレーが代用されることもない。結局俺には、暴力なんて向いていないのだ。
 沙姫がツイッターに載せる写真をあれこれ撮る間に聡司がそっと俺に囁いた。
(沙姫ちゃん、もらうよ)
 ごめんねと言わんばかりのニュアンスで、そのくせ楽しそうに聡司は笑う。
「ガンジーが肉食系なんて、シャレにもならないぜ」
 せめてもの抵抗と皮肉で額に手を当てて俺も笑ってやると、学識高い聖人君子は、不愉快そうに嗤っていた。