(不)携帯ことはじめ   四十川あらら



 お昼休みになると決まって女子の一団が真っ先に教壇の方に押しかけて、各々のケータイを回収して戻ってくる。次に髪の毛を茶色く染めた男子が行って、その後あんまり声も聞いたことのないようなクラス内で影の薄い顔ぶれがきまり悪そうに席を立つ。
 「いまどきケータイ持ち込み禁止なんてありえない」と隣の席の葉月は月に一度ペースでめんどくさそうに愚痴るけど、彼女は律儀に毎日ケータイをちゃんと携帯してきて、ちゃんと預けて、ちゃんと回収する。私には無理だ。だから今みたく列なすクラスメイトたちを自分の席からぼんやりと見ていることになる。
 葉月はいち早く教壇の列に並ぶ手合で、髪色も明るくてスカート丈が短くてうっすらと化粧をしていて、顔を近づけるとちょっといいにおいがする。回収してきた自分のケータイを私の机の上に投げ出したあと、隣の席から椅子を引いてきて向かい側に座る彼女を見て、ああかわいいなと思う。かわいくなろうと努力する女の子はかわいい。それは見た目の問題ではなくて、心意気の問題だと私は思う。
 葉月の水色のケータイには絡まらないか不思議なくらいたくさんのストラップと、気持ち程度のデコレーションがつけられている。邪魔じゃないのと一度聞いてみて、不思議そうな顔をされたのを今でも覚えている。
 かばんの中からお弁当包みを引っ張りだしながら、ケータイは人に似るのかななんて考える。葉月のケータイは派手に見えて実用には障らない程度で、彼女によく似ている。じゃあ今手元にない私のケータイは、と考えてみて、不携帯で非携帯で、おまけに何の飾りもなく、まあ確かに似てないこともない。
 携帯電話なんて名前は嘘っぱちで、ケータイは実際のところ手のひら大のパソコンだ。みんなケータイを触っている時間の一〇分の一も電話にあてていやしないだろう。つまり携帯電話の電話は嘘。今この場にないから携帯も私にとっては嘘。
 女子高生という枠組みの中で、私は自分の携帯電話のようなものだった。名実伴わず、年齢と性別の一致だけで女子高生でございと言ってまかり通っている。異物感に敏い高校生たちは、頭がいいが故に私を遠巻きにする。露骨ないじめを行うバカがいるような程度の学校でもないから、より私は縮こまって暮らすことになる。家電売り場に置かれた携帯電話の気持ちを、ケータイショップに置かれた固定電話機の気持ちを考えてみて、だいたいそれで相違ない。
「あれ、夏バテ?」
 葉月はよく食べる。なんでそれで太らないの、ねえ。彼女のお腹に手をのばそうと考えて、一度本気で怒られたことを思い出してやめる。バレー部効果なのか、脂肪の下に固く締まった腹筋の感触があった記憶もついてくる。
「いつもこんなもんじゃない」
 「いやいつもより少ないよもっとちゃんと食べな」なんて葉月の言葉を聞き流しながら、私はプチトマトを口に運ぶ。ヘタを摘んで一息に口内で潰すのがコツだ。舌の上に酸っぱい味が広がって、私はなんとなく血の味を連想する。目に見えないのにミニトマトの味は赤い。
「どうでもいいけどさ」
 葉月の目がまっすぐ私を射抜く。水晶体と水晶体が乱反射を起こす前に私は彼女から目をそらす。
「あの、なんだっけ、後藤みたいな名前の男。あいつ気をつけたほうがいいよ、なんかこのまえ私の方ずっと見てた」
 九遠ね、と一瞬で諒解する。私と縁のある男子なんてこの学校には彼一人だ。同じ部活の、唯一の同級生。どころか、唯二の部員。
「その人、メガネかけてた?」
「多分かけてなかった。なんで?」
「じゃあ別人を見間違えたのよ、きっと」
 目の悪い彼は、けれどよく眼鏡もコンタクトも忘れて学校に来る。きっと寝坊でもしているのだろう、三割増しでボサボサの髪の日だ。そんなときはいつも目尻にしわが寄って近くに人が来るたび睨みつけているようだけど、まあ多分悪気はないのだろうと私は自分のメガネを直しながら考える。眼は耳よりもすぐ悪くなるから、感覚器としては信頼できないのだ。
 彼の事情を葉月に話したりはしない。こうやって忠告されるたびに、彼女が私を気にかけてくれていることがわかって、未来の私にそのプレゼントを残しておきたくなる。
「そうかなあ」と首を傾げる彼女の手元のケータイが何度も明滅しているのに、私は気づかないふりをしつづける。
 彼女は気づいて無視してくれているのだろうか。それとも、ただ気づいていないだけなのだろうか。彼女にはケータイで繋がり続ける人間がいるのは間違いなくて、彼または彼女は私より優先度が上なのか下なのか、私は気づかないふりをする。
 葉月のケータイが私のメールを受信したことはない。私のも、また。


 放課後、私は葉月の忠告を無視して今日も演劇部室の扉を開ける。校舎の奥の奥、かつて倉庫として使われていたらしき部屋は今でも似たようなもので、埃をかぶった大道具が床面積の五割を占めている。
 九遠はいつも決まって私よりも先に部室に来て、窓際のベッドの上で体育座りをしている。今日はもう秋口だというのに靴下まで脱いでおり、靴と靴下はベッドの脚の脇に几帳面に揃えられていた。
「冷えないの」
「別に」
 九遠の視線は自分のケータイに落ちたままで、私が部屋に入ってこようと声をかけようとぴくりともしない。よく見れば今日も彼はメガネを掛けておらず、画面と顔の距離はひっつかんばかりだった。ときおり細い指が画面を縦横に走り、一〇秒ほどで脱力して、満足気な表情になったり強張ったりする。
 私は扉沿いに置かれた木の椅子に腰掛けると、かばんの中から読みさしの本を取り出して膝の上においた。最近買ったブックカバーの背を撫でると、まだこなれていない皮の硬い感触が返ってくる。
 演劇部は今や廃部寸前の弱小文化部だ。部室狭しと並べられた道具たちが使われたのも私達が入学する何年も前の話、いまはどれもこれも椅子か机くらいの用しかなしていない。それでもまだ先輩がいた頃は部活らしいの活動をしていたような気もするが、ここ半年を振り返ってみるともう一人の部員とまともな会話をした記憶すらほとんどない。
 彼はいつもケータイでゲームをやっている。私は本を読んでいる。話題は当然ない。気が向いた時にはゲームのタイトルについて聞いたりしないこともないけれど、帰ってから調べるかといえばそんなこともなく、加えて彼は聞くたびに違う名前を答えるのだから話題の増える余地もない。客観的に見て、おそらく彼も同じことを思っているに違いない。
 いつもケータイを触っているのに、彼が昼休みに急いで教卓に向かっているところは想像できなかった。クラスが違うから確認はできないけど、間違っていない自信がある。
「そのベッドのせいでマイコプラズマ肺炎にかかった先輩がいるらしいよ」
「それならそれでいい。マイコプラズマ肺炎になったら家の布団からでなくてもよくなる。一週間くらいは」
 彼がケータイで誰かに連絡をとっているところを私はほとんど見たことがなくて、それだからか私は彼といるとひどく安心する。ここにしか居所がない感じを私は彼に重ね合わせている。意識はゲームに向いているのかもしれないけれど、彼は間違いなくここにいる。
 葉月はそうではない。彼女は偏在する。いつ、どこにいても、彼女とは連絡が取れる。九遠はいま、ここで、ベッドに座っている。私は。
 ケータイでゲームというのはひどく歪だ。世界とつながるための機器である携帯電話を、内にこもるために用いる。当然そのときには内的宇宙が生まれて、彼はいつもそことつながっている。少なくともどこかに繋がれていることを時々うらやましく思う。
「その手の噂話ならぼくも聞いたことがあるぜ」
「ん?」
「あんたの座ってるその椅子、昔壊れた時に理科室の骨格標本を芯材にして補強したらしい」
 私は思わず立ち上がって、今まで自分の座っていた椅子を見た。典型的な、工作室とかによくある木造の椅子。木材の節が擦り切れてよく見えなくなっていて、端っこには絵具が飛んだのか赤く色づいている部分がある。しゃがんで目を凝らしてみると、たしかに後ろ右足だけ色が違う。
「嘘だよ」
 九遠はケータイから目をあげない。
 ガコン、と投入口が十円玉を一枚飲み込んだ。古ぼけた緑色の筐体が一瞬熱を帯びたように感じる。耳奥にビープ音が響く。  指はもう幾千度叩いた順番を覚えていて、初めてのその通りになぞる。ピ、ポ、パ、コール音。 「あ、お母さん? うん、いまから帰るから迎えよろしく……」  私はその一言だけを口にして、あとは母の言葉をただ聞き続ける。夕飯は鰆の西京焼きに金時草と山芋の和え物、猫が今日吐き戻してペットショップに言った話、弟のテストの点数……  母のしゃべり声をぼんやり聞いているうちに、ぴったり57.5秒で通話は途切れた。