毒舌少女と卑屈な少年   七篠しいな



 澄み切った青空の下、ねずみ色のアスファルトの上を白いサンダルでぺたりぺたりと歩く。夏休みも半ばを過ぎた。始めはわくわくとした気分にさせてくれた夏の暑さとセミの鳴き声は、いつの間にか気怠さの象徴へと変容していて、私は早くも秋の涼しげな風を待ち望んでいた。
額に張り付いた髪からは汗が伝い、目に入る。こういう鬱陶しいことが起きるから夏は嫌いだ、なんて心中でぶつくさ文句を垂れながら、青のジーンズから桃色のハンカチを出して汗を拭う。ついでに薄手の白いカットソーをぱたぱたとあおぐ。それから汗を吸ったハンカチをポッケにしまおうと手を動かした。その時、体に大きな衝撃を受けた。人とぶつかったのだ。
「うぐふ……」
 少女らしからぬ声を出して、後ろに数歩よろめいてしまう。くらくらする頭を左右に振り、それから顔をあげた。
多分20代。痩せ気味というよりは栄養失調ぎみの細い体格、顔立ちは整っているが、ドラマのようなラブコメを始めるには余りにも青白い顔色の青年、これが率直な私の感想だった。
「す、すいません……」
 青年は見た目通り、か細い声でそう零した。
「いえ、こちらこそすみません」
 私はそう返答し、軽くぺこりと頭を下げてそのまま歩き出す。なにしろ私は名誉ある母の使いっぱしり途中なのである。恋愛小説の寸劇紛いをしている暇はないのであった。

 自宅に戻り、涼やかなクーラーに一心地ついて、母に頼まれていた人参とナス、カレールーを順々に手渡す。どうやら今日の夕飯はカレーのようだ。カレーが好きな私は、うきうきとした気分になりながら階段を登り、二階のある自室に入る。それからすぐに出て、階段を駆け下りた。
「ちょっと……どうしたの、そんなに慌てて。危ないじゃない」
「ハンカチ、落とした。いってきます」
 母の言葉に簡潔な言葉を返し、家から飛び出す。きっと落としたのは青年とぶつかった時だ。
私は走りながら、お気に入りのハンカチを思い浮かべる。桃色の生地に白い兎の刺繍がされている可愛いらしいもの。たしか、値段は1894円。決して高校生には安いと言えない。それに、なにより私はあのハンカチを気に入っているのだ。早く救出しなければならない。そんなことを考えながら、夏の道をただ走った。

 桃色のハンカチは実にあっさりと見つかった。青年と衝突事故を起こした地点からそう遠くない位置に良い子で佇んでいたのだ。埃を払い、その場の勢いで頬ずりして、元の居場所であるポッケに今度はしっかりしまう……。と、ここまでは良かった、でもついでに厄介なものを見つけてしまった。万年筆だ。恐らくはあの青年のものだろう。こちらは分かりづらいところにあり、植え込みの奥の方に鎮座していた。だが、ハンカチを拾う際、たまたま目の端にちらりと映ったのだ。めんどくさいなぁ、と思いながらも放置するわけにはいかない。仕方がないので私は近くの交番へと足を向けた。

 交番には先客がいた。というよりも先ほどの青年だった。彼は涙目で、なにか書類に記入している。
「あのー。これ、落し物です」
 私は遠慮気味に右手を広げ、万年筆を見せた。
「あっ……それです。それ。本当に、本当に良かったぁ……ありがとうございます。どこにありましたか」
 青年は涙を浮かべながら、そう聞いた。やっぱり不健康そうな顔をしているなぁ。私は、遺失届を警察官に折りたたんで返している青年に答えた。
「ちょうど貴方とぶつかったところです」
「えーっと……。あぁっ、あの時の。本当に色々すみません……」
「いえ、本当に気にしてませんから」
 言いながら、丁寧もここまでくると卑屈と言えるんじゃないか、と考えた。丁寧と卑屈の線引きに頭を働かせながら、私は交番から外に出る。
「あの、色々ご迷惑をかけたので、なにか奢らせてください……。良い喫茶店を知ってるんです」
 背中に青年の声がかかる。どうやら慌てて後を追ってきたようだ。私は紋切型のナンパ師のような言葉だなぁ、と内心思いながら振り返る。青年は情けない泣き笑いを浮かべて立っていた。これは断りにくい。結局、私はその弱々しい風体と猛烈な熱気、そして喉の渇きに押し流され、無言で首肯したのだった。
 
 喫茶店は、雰囲気の良いお店であった。店主の趣味だか、アンティーク調のものが多く、それが独特の落ち着きを生んでいるのだろう。なんて、大人ぶった感想を抱きながら店内を見渡す。ウェイトレスが私たちの前に、水を置くと注文を尋ねた。慌てて、メニューに目を通す。
「僕は珈琲のブラックで。えっと……」
「カフェオレ。あっ、アイスでお願いします」
 ウェイトレスは注文を繰り返し、確認をとると奥へと引っ込んでいった。私はそれを目で見送ると、思索の海へと沈んでいった。
 やはりこういう時、大人はブラックを頼むべきなのだろうか。いやそもそも、ブラックはどうして大人の印象を与えるのだろう。あの濃褐色の色が大人らしさを人に想起させるのだろうか。それとも、子供に苦い印象しか与えないあの液体から微かな酸味とやらを感じ取り、さぞ美味しそうに啜る大人が多いから大人らしいのだろうか。うーん、分からない。なににしても私はやはりマイルドなカフェオレにどうしても心が惹かれてしまう。ん? 待てよ。私は華の女子高生、大人らしいブラックより可愛らしいカフェオレを頼むほうが良いに違いない。だから悩む必要なんてない、間違いない。
私は自己解決して、現実に焦点を合わせて水を一口飲んだ。それから沈黙を気まずそうに耐えていた青年を一瞥した。彼はそれを見て、口を開こうとする。
「お待たせしました」
 その時、間が悪いことにウェイトレスは珈琲のブラックとアイスカフェオレを運んできた。彼女は丁寧に、私たちの前にそれらを置くと一礼して、また奥へ姿を消した。ばつの悪そうな顔をした青年がなんだか面白くって、くすりと笑う。彼は少しだけむすっとした顔をしたが、すぐに真剣な面持ちをすると口火を切った。
「えっと、まずは本当にありがとう。あの万年筆は祖父の形見だったんだ」
「そうだったんですか……」
 なんと言えばいいのか分からず、私はありきたりな返事をする。青年はそれに答えず、静かな声で祖父のことを語り始めた。
「祖父はね、そこそこ有名な文筆家だったんだ」
 青年は祖父の著作した作品名を一つ挙げたが、残念ながら聞き覚えのないものであった。彼は話を続ける。
「昔から、僕は祖父に憧れていた。書斎に籠って真摯に作品に取り組む姿は、胸打つものだった。そんな偉大な祖父を見て、僕は育った。だから幼少期はいつか祖父のような文筆家になるんだ、とそんな夢を見ていたんだ」
 青年の青白い顔に影が差す。無理に口を歪ませているのだろう。辛うじてその表情は笑顔と呼べるものであったが、そこには色濃く自虐の色が浮かんでいた。私はなにも言わずにそのまま耳を傾けた。
「一昨年、祖父が死んだ。その直前、僕は彼から万年筆を譲り受けていたんだ。僕は祖父の遺志を受け継いだ。それからもう二年が経つ。けれどね、僕はなにも残せてないんだ……。なにも成し遂げてない。今日だってそうだ。何も出来なくて、頭が痛くなって、耐えきれなくて万年筆を無造作にポケットに放り込んで書斎から逃げるように外に出た。そして、愚かにも一番大切なはずの万年筆を落としたんだ」
 あぁ、この人は自分の話を聞いてくれる人が欲しかったのだな、私は思った。たしかに、大切な遺品である万年筆を拾ったことを感謝しているのは事実なのだろう。けれど、なにより溜め込んだ弱音や懊悩を吐き出す先が欲しかったに違いない。
 瞳を潤ませ、頭を抱える青年を見ながら、私はカフェオレを口にする。香り高く、マイルドな口当たり、絶品だ。
「って、お礼のつもりで連れてきたのにこんなつまらない身の上話ばかり聞かせてしまって、ごめんね。なんでこんなこと会ったばかりの君に言ったんだろうね、ごめん」
 一体、何度謝れば気が済むんだろう。さすがに私は、この卑屈さに辟易してきた。言いたいことが頭の中を錯綜している。このままでは禁断症状が出てしまう、早く家へと帰ろう。その旨を伝えようと私は口を開いた。
「本当、貴方の話は詰まらないわ。いい大人が悲壮な顔してなに話すかと思えば、ただの悲劇のヒロインごっこ、くだらない。貴方、祖父ばかり見ていて自分と向き合ったことがないんじゃない? 一度、よく考えたほうがいいわ。自分のことも碌に知らない癖に文章だなんてお笑いだもの。それに卑屈が過ぎるのも考えもの。ペシミストきどりだか加害妄想だか知らないけど、不快だわ。百歩譲って、それが貴方の創作に功を奏してるのならまだ分かる。でも、聞いたところそういうわけでもないんでしょう? 違うならやめたほうがいいわ。さっきも言ったけど不快ですから。それに……」
 どうやら遅かったみたいだ。元々、言おうとしていたものとは全く違う言葉が次から次へと勝手に口から溢れ出てくる。こうなるとどうしようもない、一種の病気のようなものなのだ。頭の隅にいる冷静な私はため息をつく。
一方、青年は鳩が豆鉄砲食ったような顔で硬直していた。時折、口をぱくぱくと酸欠気味の鯉のように動かしている。しかし私は暴走モード、止まらない。
「……なんでそんな青白い顔してんの。ちゃんとご飯を食べたり、寝たりしないと常識的に考えて駄目でしょ。そういう生活習慣の乱れが脳の活動を鈍らせて、結果的に貴方の創作を妨げることになったりするの。それになに、その服装。そんなだっさいジャージでよく外に歩けるわね。髪もよく見ると荒れ放題のぼさぼさ頭だし、髭も伸びてる。そんな風に生きていたら、そりゃぁ卑屈にもなるし、自分に自信を無くして、年下の少女にもペコペコするわよ……はぁっはぁ……」
 第三者視点で見たら私は完全にキレる十代というやつだろう、冷静な私は脳内で言った。そもそも私はこいつのお母さんでもなんでもないのだから、ここまで言う必要はない。生活習慣について指摘するのもおかしな話だろう。後半なんて、もはやただの悪口でしかない。言葉遣いも激しく崩れている。なんで私は一人でこんな白熱しているんだろう。なんか白けた。なにもかも夏の暑さが悪い。落ち着きを取り戻すため、カフェオレに口を付けた。頭が徐々に熱を失っていく。それと引き換えに、少しずつ気まずさが顔を出してきた。
「あっ、えっと、その……言いすぎました」
「…………」
 いつの間にか顔を伏せていた青年はその言葉を聞くとゆっくり顔を上げた。青年は予想通り、引き攣った作り笑いと涙目を浮かべていた。しかし、私の目はご都合主義なのか、彼の表情はどこかすっきりとしているように見える。彼は震える唇を動かして、されど意外にもしっかりとした声でしゃべった。
「いや、うん。なんか僕もすっきりしたよ。ただ、なんというか君を無害なものだと認識していたからね。ちょっとダメージが大きいっていうか……もう少し、広い視野を持って生きていこうって気になったよ。うん」
 歯切れの悪い言葉。どこか遠くを見るような目で、彼はそう言った。だが、この青年の周りにはこのようなことを言う人間がいなかったのだろう。きっと結果はオーライだ。自身の中で結論づけて席を立つ。
「あのさ、君の名前は……」
「私はね。貴方との関係は、少女Aと青年Bのままでいいと思うの。それが一番自然な形。でも、この喫茶店は気に入った。だからまた来るわ」
「そっか……」
 そう呟いた青年が浮かべた笑顔は、卑屈さのない今までで一番ましなものであった。
「じゃぁ、またね」
 そう言って喫茶店を出る。日が暮れて外気温が下がったからだろうか、なんだか清々しい気分だった。そういえば今日の夕飯はカレーだ。私はスキップしながら帰路についた。