第一話   帰納野 京子



 その男はひどく弛緩した格好でくつろいでいた。
 ソファーに寝転がったまま手を伸ばすテーブルにはスナック菓子の袋がいくつも散らばり、空調は全開で、十二 月の寒空の下から帰ってきた私を ――やや暑いほどに――暖めてくれた。
「いや、悪いね。勝手に入ってしまって。しかし、今時鍵を掛けないで外出するってのは少し不用心じゃないかい?」
 男はポテトチップスを摘まみながら、こちらを見ようともせずに言った。留守中、許可も取らず入り込んでいたというのにまるで悪びれたところがない。少なくとも常識をわきまえた人物ではないらしい。
「しかしね、どうしても君に会わなくちゃあいけなかったんだ。わかるだろ? こういうことがあるってこと。 だから少しぐらいのことは許してほしいな」
菓子をほおばり雑誌をめくるその男について私は何一つ知らなかった。どこかで会ったような気がしないでもないが、まさか知り合いではないだろう。こんな印象的な人物を――彼はかなり人目を引く容姿をしていた――忘れるはずがない。誰なのだこいつは。
「警察を」
ひとり暮らしの女性宅に不審な男性が侵入、となれば取る手はおのずと決まってくる。
「ん?」
「警察を呼びます」
彼はゆっくりと猫のように伸びをして、ソファから身を起こした。
「あぁ、待ってくれ。警察を呼ぶ? それも悪くはないかもしれないが、まずは僕の話を聞いてくれないかい? 少なくとも退屈はさせないよ」
私が取り出した携帯電話をひょいっと奪いとり、
「まず何から聞きたい? 僕の趣味? 血液型? なんなら、今日履いてるパンツの色でも。なんでも答えるよ」
そんなことを聞いてどうする。
「あんた、誰?」
一瞬の面食らったような表情の後、ああ、そういえばまだだったね、と彼が名乗った名前は、やはり私が聞いたことのないものだった。知り合いではないらしい。
「それで?」
「それで?」
「名前だけわかったってどうしようもないでしょ」
「焦らないでくれよ。どう? お茶でも」
そう言って差し出したカップも私のものだ。納得はいかないがここで断るのも大人げない。黙ってカップを受け取った。
 なにが気に入らないって、私が入れたものより美味いのが気に入らない。
「ねぇ、君はさ、小さい頃何になりたいと思ってたかな」
突然よくわからない話を始めた彼は、返事を待たずにつづけた。
「僕はね、ヒーローっていうのかな。わかるでしょ? あー。でも最初はケーキ屋さんになりたいって思ってたかな。ほら、ケーキ屋さんなら毎日ケーキが食べられるじゃない? あは。でもやっぱりヒーローかな。子供っぽいかもしれないけどさ、やっぱり一度は憧れるじゃないですか。なんかいろいろ戦ったりして、それで世界とか救っちゃったりしてさ。まぁそんなことはどうでもいいんだけどね。どう? そういうの、あるよね」
 そう一息にまくしたてた彼は、はー疲かれた、喉乾いた、と茶を入れようとし、あれ、もうないや、とポットにお湯が残っていないことに気付くとキッチンへ向かった。他人の家とは思えないほどあっさりと笛吹きケトルを見つけ、火にかける。
「そういうの、あるよね?」
「ないですね」
「そっかー……。そっか、やっぱりそうだよなぁ」
とはいえ、一度たりとも考えなかったわけではない。強く、明快に正しいものにあこがれない理由はない。ただ私には何もないのだ。
「でもさ、僕は夢を叶えたんだ。まだ半分ぐらいだけどね。残りの半分を叶えるには君が必要だ」
「どういうこと?」
「仲間になってほしい。君もヒーローになるんだ。そう呼ばれるのが嫌なら何だっていいよ」
「正義の味方とか、そういうのになるつもりはない」
「正義の味方? いや、違う。僕たちはまかり間違っても正義の味方なんかじゃないさ。弱きを助け強きをくじく、だなんて言うつもりはないよ。僕たちは僕たちのためだけに戦うんだ」
ケトルが鳴る。彼はあわてて火を止めた。とてもじゃないが、控えめに言っても正気とは思えないような内容だ。だが、僕たちのためだけに、というのは気に入った。
「なるほどね。どうやって戦うの? 怪獣も宇宙人も、世界征服をたくらむ悪の組織だっていない世界で?」
「もしかしたらいるかもしれないけどね。僕が見たことがないだけで。戦うといったって、殴りあったりビームをうったりするわけじゃない。変身だってしないぜ」
それならば――テロリズムとか? 間抜けな質問はさえぎられた。彼がそんなものと戦うわけがない。僕たちのためだけに、だ。
「ちょっと電話してもいいかな」
「ご勝手にどーぞ」
主人公の前に現れた、突然の訪問者。彼は主人公を仲間に誘う。まさしくヒーローにふさわしい。
荒唐無稽な話、彼は具体的なことは何一つ言わなかったといっていい。だが、彼は正気だった。少なくとも私には、彼が全くの嘘っぱちを言っているとは思えない。
「もしもし? "先生"? うん。そう。彼女にはちゃんと会えたよ。――え? いやまさか、そんなことしないってば。だいじょぶだいじょぶ。安心してよ」
それから彼は"先生"とよくわからない話――たぶん世界平和とかの話題なのだろう。聞いたことない単語ばかりで見当もつかなかった――をしていたが、突然私に振り向いた。
「はい、"先生"が話したいってさ」
差し出されたままに携帯電話を受け取る。そもそもこれは私のものなのだ。
「もしもし、……"先生"、さん?」
『うーん、私はそう呼ばれるのはあんまり好きじゃないんだけどな。初めまして、だな』
電話の向こうからは"先生"という呼び名から想像していたより若い声が返ってきた。
『すまない、あのアホが迷惑をかけただろ。あいつは悪い奴ってわけじゃないんだが、ちょっと非常識なんだ』
かなりだ。悪い奴ではない、というのは難しいところだ。
『お前も大変だったろう――あー、済まない。"お前"だなんてなれなれしすぎるよな。どうも気を抜くと油断しちゃうなぁ。ごめん。あんまり人と話すのは得意じゃないんだ』
名前を呼び捨てにするのはいいのだろうか。
『あいつはお前に――おっと、すまん――どう説明したんだ?』
言われたままのことを説明すると、
『あいつはアホだ……』
電話の向こうで"先生"が頭を抱えているさまがたやすく想像できた。
『いや、大枠では間違っていないんだが……。そんな説明じゃなにがなんだかわかんなくなっちゃうよな。とはいっても、仲間になるまでは詳しいことは話せないんだ。あいつが言ったとおり、私たちの仲間になれば危ないことだってある。というか、かなり危険な目にもあうかもしれない。でもさ、私は――私たちは、お前来てくれたら、すごいうれしいんじゃないかって思うんだ。何度も試してみたんだが、どうにもやっぱりお前がいないとダメみたいでな。まあ、無理強いはしないさ』
お前に会えるのを楽しみにしてるよ、と"先生"は電話を切った。
気づかないうちにいなくなったのだろう。もう部屋には私しかいなかったが、それが当然のことのように思えた。
携帯電話を握りしめる。次に電話を掛ける時、私はもはやこれまで通りではいられないだろう。そんな予感があった。