カプセルにそそぐ   麻佳



「中学生の時、一度だけ、私史上一番綺麗で、楽しくて、まるでこの世界を代表するサンプルみたいな恋をしたの。これを恋と呼ぶのもためらうくらい完璧な恋だったんだよ」

 中学校三階の音楽室。気持ち良さそうでうっかり窓を開けたら、太陽の香りをいっぱい吸った風が、桜の花びらを大量に贈ってくれた。早咲きの桜。慌てて閉めたときには手遅れで、音楽室のピアノの周りが花びらまみれになった。
 後ろから席に座る三人に笑われた。三年生の先輩たちだ。この授業は「特別講座」というもので、自分の選んだテーマによって学年関係なくゼミに割り振られる。田嶋先生のゼミはたった四人の音楽関係のゼミで、私は「作曲について」研究していた。
ひかり先輩は色白の女性の先輩で放送委員会でも会うことが多かったからすごく可愛がってくれた。先輩は「バイオリンについて」研究していた。
「さきちゃん、ほうき取ってこようか?」
 ひかり先輩は笑って言ってくれた。届いた花びらは触ったらとけてしまいそうなほど透き通っていた。ほうきを使うのが可哀想で、指で一枚ずつ拾って集めた。私は「先生が来るまでに全部拾えるか見てて」と言って誤魔化して、黙々と拾った。
「まったくー」
 道哉くんが飛ぶように立ち上がって音楽室檀上の私の所まで来た。小学生の頃はあまり話したことがなかったけれど顔見知りだった。中学に入って一度だけ「道哉先輩」と呼んだら「今更かしこまらなくてもいいだろ」と笑われたのをよく覚えている。週に一度の特別講座では、一緒にふざけるおちゃらけ仲間になってくれた。道哉くんがにこにこしながら「まったくー」というときは、何かをたくらんでいるときだと最近知った。
 二人横並びで、しゃがんで花びらを拾う。小さくなってしまった学ランの袖から出る、道哉くんの丸っこくて日焼けした指先が不器用に花びらを拾うのはなんだかおかしかった。意外だった。小学生時代は泥だらけでほうきを振り回しているような、すごく男の子なイメージだったし、同じゼミになってこうして話すようになってからも、一緒に花びらを拾ってくれるような人だなんて、思っていなかった。
「あ、先生来たよ」
 廊下側に座る高橋先輩が教えてくれた。廊下を歩く先生の姿が見えたのだろう。私は最後の一枚を拾い上げた。
「よし。さき、一瞬、少しだけ窓開けるよ?」
「え? あ、うん」
 その隙に桜の花びらを。そういう意味だった。窓を開けて花びらを放す、それだけなのに、いたずらをしているときのように、新しい絵を描くときのように、ちょっと変にどきどきした。新しい風に注意しながらそっと手を出して花びらを外に帰す。さっと手をひいて窓を閉めた。
交代して窓から手をだす道哉くんの顔は、とても楽しそうで、なんでか私が嬉しくてじっと見てしまった。
「これで全部帰ったよな?」
 道哉くんがきょろきょろと教室を見渡す。
「あ」
 彼の手にはまだ、一枚の花びらが張り付いていた。そしてそっと剥がれて、ピアノの椅子の上におちた。  あ、どうしよう。
何故か私は、それがたまらなく恥ずかしかった。おちた桜の花びらを、私が手で隠してしまいたかった。私は顔が熱くなるのを感じて思わず下を向いた。指をさす。
「道哉くん、おちた」
「ん?」
「おちた」
 あ、と道哉くんが花びらを拾ったときに、ちょうど先生が扉を開けた。
「はい座れー」
 私は急いで席に着き、かばんからノートと筆箱を出した。道哉くんはまだのんびり歩いている。「はやくしろっ」と笑う高橋先輩に、丸めたノートで尻を叩かれていた。
「道哉。号令」
「はぁい。起立。気を付け。礼」
「お願いします」
 なんとなくふらふらしている道哉くんだったが、号令だけはきちっとしていた。
「この授業は個人発表だけど、準備すすんでるか?」
 学年末。一年を通して研究してきたことを、一人ひとりパワーポイントを使って発表する。特別講座も終わり、三年生は卒業。発表の日を除くと、残すところあと二回しか授業は残っていない。私はノートの隅に残り二回の小さな予定表を書いた。曲はだいたい完成しているから心配ない。パワポの方は、少し心配だった。
「じゃ、しっかり準備しておくように。困ったら先生に相談しろよー」
 ゼミの始めに挨拶をして一度解散、個人作業に移る。そして授業の終わりにもう一度集まって挨拶をする。そういう授業形式になっていた。解散したら、四人バラバラで行動することになるからあまり面白くない。私はいつも、早く授業が終わって欲しかった。
 他の三人も、今日からまとめに入るようだった。
「さき」
「はい?」
 手書きで発表原稿をまとめるか、パワポの作成をはじめるか迷っていたら、道哉くんが私のノートを持って机の前に立っていた。
「おれ今からパソコン借りに行くからお前のもとってきてやろうか?」
「あ、いいですか? お願いします」
「うむ。機械音痴のさきにはついでにパソコンのスイッチを入れるところからパワポの使い方も教えてあげよう」
「うっさい」
 話かけてくれたのが嬉しかった。私も一緒に、と言う勇気はなかった。「いってきー」と、道哉くんは歩いて行った。


 道哉くんのご指導のもと、私は順調にパワポの準備を進めることができた。原稿を作って手直しをして……来週には、なんとか終わりそうだ。
 放送委員の私とひかり先輩は、帰りの放送を流すべく、職員室から鍵を取って、放送室に向かっていた。
「前から思ってたけどさ、さきちゃん、道哉好きなの?」
「え?」
 人がいないのを見計らって、ひかり先輩が訊いてきた。あんまりにもケロッときいてきて驚いた。
「ううん。そういうんじゃないです」
 私ははっきり答えた。
「そうなんだ。道哉さ、おちゃらけてるし馬鹿だしさ……」
 この時ひかり先輩は普段の教室での道哉くんのことを教えてくれていたと思う。あんまり聞いてなかった。教室での道哉くんやひかり先輩の姿を想像できなかったから、興味がなかったのかもしれない。私は楽しそうに話す先輩の顔を見て、ほんわかした。ひかり先輩と高橋先輩が道哉くんのことが大好きなのはわかった。
私は道哉くんに関して「好きなの?」と訊かれたら「ううん」と答えるしかなかった。よくわからなかった。ただ、木曜日の四時間目が終わったら小走りで音楽室に向かって、そわそわして……いつのまにか毎週木曜日の五時間目が楽しみになっていた。
 放送室に着いた。年代物の茶色い鍵を回し、扉を開けた。古い機材の独特の匂い。私は明かりをつけ、換気扇を回した。放送開始までまだ少し、時間がある。
「道哉とメールのやり取りとかしてるの?」
「してないです」
「そうなの? 意外。メアド教えてあげよっか?」
 いまいちピンとこなかった。道哉くんの携帯を見たことがなかったのも関係しているかもしれないけれど、私と道哉くんが音楽室以外のどこかで会話を交わすことの想像がつかなかった。ひかり先輩が道哉くんのアドレスを知っていることに羨ましさも感じなかった。
「うーんわざわざメールで話す話もないですね」
「そっかー。この前顔真っ赤にしてたから好きなのかと思っちゃった。ほら、道哉と花びら拾ってたとき」
 私はすぐ顔が赤くなるから、小学生の頃から、密かに恋をしたことがなかった。けれど今回は本当に恋とは呼べなかった。
「別に赤くなんてなってないですよ。え、もしかしてひかり先輩道哉くん好きなの?」
「まさか!」
 ひかり先輩はすごい馬鹿にした顔をしていた。
「誰があんなアホ!」


 翌週木曜日。きた! と思ったら、あっという間に五時間目は終わってしまった。家でまとめておいた内容を、必死で打ち込んでいたら、いつの間にか時間になっていた。他の三人の先輩も、発表準備でバタバタしていた。作業中はこれが最後になるんだ、と感傷に浸る暇もなかった。
作業を終えて、再度音楽室に集まった。先生はまだ来ていない。四人教卓の周りに集まって、私が作曲するのに余った五線譜に落書きをし始めた。
「ひかり先輩」
「んー?」
「さみしい」
「そうだね」
 やっぱり私は木曜の五時間目がすごく、ものすごく好きだった。実質お話できるのは授業の最初と最後の数分ずつだけだったけれど、音楽室という世界の中で、お姉さんみたいな優しい先輩がいて、眺めてるだけで面白い二人の先輩たちがいた。
 桜の花びらが道哉くんの手からおちたとき、多分私は言葉にしようのない自分の気持ちに気付き、音楽室の存在に気付いたんだと思う。
「高橋先輩絵、うま。それ道哉くんでしょ」
「だろ。さきちゃんも描いてあげる。はい」
「うえー! ぶっさいく」
 ようやく田嶋先生が来て、何やってんのと紙を覗いてきた。ばかだなあと言われて、席に着かされた。ばかは先生だ、来るの早過ぎ。と思った。
 先生は来週の発表の説明をしてくれた。先輩たちは三年生だから前半、私は後半らしい。他のゼミと合同での発表会だそうだ。
 先生の話を聞きながら、なんとなく自分の活動ノートを開いた。今日ノートに何も書き込まなかったことさえ、ちょっとさみしかった。枚数は案外なかった。週に一度の活動な上、作曲が中心だったから、私は特に少ないかもしれない。ぺら、ぺらとめくり先週書いた最後のページを開く。何かが挟まっていた。
 あ、あの時挟んだんだな……。
 桜の花びらが、小さく恥ずかしそうに挟まっていた。真っ白なノートに透かされて、樹に咲いているよりピンク色に見えた。つられて私まで、少しだけ顔が熱くなった。
「よし、じゃ、今年も一年間お疲れさん。来週発表がんばれよー。号令」
「起立」
 私はそっとノートを閉じて、起立した。たった四脚、椅子を引く音がちょっと大きく聞こえた。ぱりっと背筋の伸びた学ラン姿がそこに見える。
「気を付け。礼」
「ありがとうございました」
号令なんて子どもみたい。制服なんて脱いでしまいたい。そう思っていたけれど、道哉くんがかけたきっちりとした号令でした礼は、ものすごくかっこいい気分だった。


 その日の放課後。凝りすぎて遅れを取ってしまった美術の作品の作業を進めるために、居残りをしていた。
「イテ」
 彫刻刀が指をかすめた。十分に注意はしていたから、大した傷にはならなかった。
「痒いからばんそこ貰ってこよ」
 美術室は三階。音楽室が近くにあった。音楽室が見えると反射的に喜んでしまう。もうあの空間はないのに。
「さき」
「うおっ」
 後ろに道哉くんと高橋先輩がいた。
「さきちゃん、今すごい声出たね」
「忘れてください」
「何してんの?」
「美術の居残り。そしたらちょこっと指切ったからばんそこ貰いに行こうと思って」
「あ、おれ持ってるよ」
 道哉くんは学校指定の色褪せたスクールバッグの外ポケットから絆創膏を出してくれた。
「ありがとうございます」
 陸上部だったふたりは卒業に向けて、部室にあった荷物を整理していたらしい。
「じゃあ道哉。あとおれやっとくからもう帰っていいよ」
「おーさんきゅ。あ、鍵閉めといてな」
「はいよ。じゃあね、さきちゃん」
「さようなら」
 高橋先輩は、道哉くんと私を残してまた部室に向かってしまった。私はつい、音楽室を見た。
「特別講座、楽しかったね」
「はい」
うっかり私が俯くと、そうだ、と道哉くんが歩き出した。
「まったくー。特別だぞー」
 にやにやしている。何かを企んでいるに違いない。彼が向かったのは、鍵のしまっているはずの音楽室だった。そして音楽室のドアをちょっと過ぎたところで、しゃがんだ。
「何してるの?」
「おいで」
 外側から見るとわからないが、音楽室の壁の下の方は全面、高さ六十センチくらいのドアになっていた。内側からのみ、鍵をあけられる仕組みだ。道哉くんはその扉をガラリと開けた。
「何で開いてるの?」
「五時間目に高橋と遊んでたときに開けた。田嶋ちゃん鈍いから気付かなかったんだねえ。内緒だよ」
 放課後の音楽室は暗かった。先生にばれると困るから電気は点けられない。
「や、別に入ったからといって面白いことがあるわけじゃないんだけどね」
 道哉くんがうははと笑う。アホ面を月明かりが照らすのはあまりにも風情がない。私たちはこっそりベランダに出た。まだまだ大分、肌寒かった。
「あそこ、陸部の部室。高橋は……見えないね。あそこでトレーニングしてたんだぜ」
 さっきといい、今といい、道哉くん本人の口から音楽室以外の場所の話を聞いて、ほんの少し、胸がチクリとした。道哉くんは、音楽室の外にもいるんだなと思った。週に一回、特別講座で会うだけだったから、変な感じがした。
「あーそうだ。さき、クッキーあるぞ。食う?」
「うん。……先生にばれたら怒られちゃうね」
「ばれたらおれのせいにしていいよ。はい」
「ありがと」
 音楽室に侵入しておかしを頬張る。ふたりの最後のいたずら心。月と小さな電灯に照らされた早咲きの桜。遠くに見える家々の灯り。私はこの景色で週に一度のお楽しみに蓋をして、「ご馳走様! またね」と音楽室を後にした。


 中学校からの友人が、大学の講堂で肘をつきながらそれからの展開を期待して私を見ている。
「以上です」
「え、そんだけ?」
「うん、そんだけ。無事に発表も終わらせて、卒業してった」
「えーつまんな。せめて卒業間際に告るとかさあ、ないわけ? 今から連絡したりしないの? 先輩も学生でしょ?」
「しないよ。この話はあの音楽室の中だけでいいの」
「はいこれ先輩のアドレス」
 彼女は足を組み換えながら唐突にスマホを見せてきた。
「いらん。……え、なんで知ってんの」
「中学のときに交換した。変えてないと思うよ」