暖かい風   花園


彼と話したのは、一回きりでした。私たちが高校一年生だった年の夏……そう、一学期期末試験の初日でした。私は、いつもの朝練の時間に来ていました。朝のホームルームの、一時間半前でした。私のクラスメイトは誰も来ていなかったので、私は他のクラスの教室を覗いてみました。

 ちら、と人影だけ確認しようと思っていたのですけれど、偶然彼と目が合ってしまいました。彼は私に柔らかい声で挨拶をして、微笑みました。私はそれを無視する訳にはいかず、たどたどしく挨拶を返しました。もしかしたら、私の声は小さくて、彼に届かなかったのかもしれません。彼は片手をヒラヒラと動かして、近くに寄るよう促しました。私は素直に彼の傍へ行きました。彼の席は窓際で、近づいた時、その席の横の窓だけ少し開けてある事に気がつきました。その日は朝からクーラーをつけるほど暑かったので、私はそれが不思議でした。しかし、彼はたいして暑がる様子ではありませんでした。

「ちょうど、君に話したいお話があるんだ。」

 それはおかしい、と私は思いました。私たちはこの時初めて会ったのだし、この時私たちが会った事は、偶然であったからです。きっと彼だって、予想していた訳ではないでしょう。ただ、彼が人に話をする時、必ずそう言う決まりだったのだろう、と私は思います。

「今から話すお話は、裕福な家庭に生まれた男のお話。彼は、ある日大切な人から十字架のネックレスを貰ったんだ。その時は十字架の意味は知らず、ただその人がくれたというだけで大事に持っていたんだけど、本をたくさん読むうちに、キリストと神さまについて知ったんだ。そして、その教えの素晴らしさに感動した彼は、ただお祈りするだけじゃなく、行動に移そうと考えた。」

 彼は母親が子供に言い聞かせるように、ゆっくりと私に話しはじめました。しかし、視線は私の顔ではなく、例の開けてあった窓の外に向けていました。私もつられて窓の外を見ました。

「貧者のために自分の持っているものを与える事を、喜捨というんだ。彼にとっては、無償で人のために労働する事も〈喜捨〉だった。他の人が求めている労働力というものをあげるのだからね。時には、泣いている迷子をなだめてやったり、また時には、腰を抜かして動けなくなってしまった老人をおぶったり、人のためならなんでもやった。服や勉強道具は親が買ってくれたから、おこづかいの使い道は寄付しかなかった。彼は、たくさんの人に感謝された。彼は幸せだった。彼の行動のおかげで人が笑顔になるのを見ると、彼は心がとても満たされた。しかし、もっとたくさん本を読んで知識を増やしていくうちに、彼は喜捨する事に疑問を感じたんだ。自分が貧者にお金や物をやるのは、恩着せがましい、自分が救われたいという、エゴなのではないか? それは実際そうだった! 彼は自分が汚いのが嫌で、喜捨しなくなった。しかし、その三日後、彼が肌身離さず持っていた大事な大事な十字架が、突然、落ちるはずもないのに落ちた。懐にあったはずが、音もなく、気配もなく、落ちたんだ。彼は、縁起が悪いと思い、慌てて十字架を拾った。そして、手が十字架に触れた途端、自分が愚かであった事を悟るんだ! 自分の汚点を恥じた時点で、自分をゆるしてくださるのでは? 僕はこうして、十字架を持って、救いを見出す事ができる!」

 話が進んでいくと、それに比例して彼の声が荒々しくなりました。獣の吠えるように叫んだ時には、さすがに彼の様子が不安になって、私は視線を戻しました。彼は空を見上げていました。表情はよく見えませんでした。

「貧者。彼らはかわいそうだ。生きるので精一杯で、救いに気づけない者がいる。自分の過ちに気づけない者がいる。救いは見えないものである事が多い。しかし、僕が、ちっぽけなこの僕でも、彼らに救いを与える事ができる……、君、君もそう思わないかい? 持つ者が、持たざる者に、与える。与えるものは、お金だったり、食べ物だったり、……救いだ。」

 お話が終わったのか、彼は、私の顔を見て、少し疲れたように微笑みました。その時やっと、私は思い出しました。スカートのポケットの中にあった拾いものを。

 取り出すと、教室の蛍光灯に照らされて、一瞬視界が十字にギラッと煌きました。

「これは、あなたのもの?」

「そうだよ。」

 私の手は、拾いものを彼に見せたまま、石のように動きませんでした。それでも、彼は無理矢理私の手からそれを奪おうとはせず、私の目を優しく見つめました。それでも、私は怖かったのです。身体が思うように動きませんでした。

「さっきの話は…………。」

「うん? 声が小さくて聞こえないよ。」

「さっきの話は、あなたがしてくれた話は、……。」

「ううむ、どうしちゃったの? 言いたい事があるなら言ってごらん。」

「これは、あなたのもの?」

「そうだよ。」

「ごめんなさい。」

「謝る事はないよ。」

「あなたの、大切なものでしょう?」

「そうだよ。」

「これが無くてかなしかったでしょう?」

「そうだね。でも、なくしたのは、僕だ。」

 彼の目は、痛々しくも赤く染まっていました。窓から吹いてくる風が、優しく私たちの頬を撫でていました。

 その風は、暖かいはずなのに。

 私は全身がぶるぶる震えていました。時々歯どうしがあたって、カチカチ鳴りました。

私は、怖かったのです。

彼の中に、とても大きなものが見えて、その大きなものを、私が十字架を渡す事によってこわしてしまうかもしれないと思ったら、とてもおそろしくてなりませんでした。

「救いを…………ください。」

 いつのまにか、彼につられて私も泣いていました。

 暖かい風が、優しく、私たちの頬を撫でていました。