Answer is...   冬月由貴



 『満月の夜、鏡に向かって「あなたは誰?」と、問いかけると、自分が何者かわからなくなってしまう』、という都市伝説を語っていたのは聡司だった。得意げに眼鏡を押し上げる彼への反発心が反オカルト精神と相まって、今、俺を鏡の前に座らせている。母親の古い鏡台にちらほらと見える指紋の跡が、幼少期の記憶を頭の隅から引っ張り出してくる。
 あの頃は、鏡の向こうに異世界があると完全に信じていた。チェス盤でも、真理でも、ミスタースミスでもなく、そこに映るままの世界が、つまり反転しただけのまったく同じ部屋がそこで自分を待っていて、そのさして特別でもない空間で、トクベツななにかが起こるのだと夢見ていた。そうして衝動のままに鏡にこっそり触れてみては、母親に見つかって怒られたものだ。アリスのようにうまくいかない苛立ちと、母親の叱責のダブルパンチは子供心にこたえたものである。けれどそんな空想を持ち続けることは容易ではない。サンタクロースが来なくなるように、誕生日ケーキを食べなくなるように、ひっそりとそれは、俺の生活から消えていってしまっていた。
「……あほくせぇ」
 一人で感傷に浸っているようで恥ずかしく、意味もなく声に出してみる。鏡の都市伝説を否定しようとしているときに、こんな話を思い出してどうするというのだ。首を一度振ってから、鏡に、鏡の中の自分に向き直る。
「あなたは、誰ですか」  言ったところで、自分の仏頂面があるだけで、なにも起きやしない。ほらな、と呆れて笑って、ふざけ半分にもう一度口を開く。
「あなたは誰ですか」
 鏡に映った唇の動きも、瞬きも、俺でしかない。俺は鳩羽秀一、ちゃんとわかっている。自分が投げた質問の答えだって。
「お前は、俺だよ」
 くだらない、と馬鹿にしながらも試さずに否定できないのは、本当は少し都市伝説を信じているからで、忘れていただけで、鏡の向こうの反転世界を今だって微かに信じているのだ。今だって信じているのに、今は疑っている。現実にそんなものありやしないんだってわかってしまっているから。俺一人の中で、なんて矛盾しているのだろうか。
「お前は、俺か?」
 俺だけじゃなく人間は些細な矛盾を誰だって孕んでいる、そんなことはわかっている。でも、時々わからなくなるのだ。こんなに矛盾している俺は俺なのか、と。俺は鳩羽秀一だが、それは本当は誰なのだろうか? 果てのない思考に迷い込みかけた俺の口から洩れたのは、きっと本音で。
「『鏡の向こうに行ければいいのに』」
 ふと覚える違和感。自分を見失っちゃいない自信はあるけれど、なにかがおかしい。見つめた鏡の中には眉をひそめた自分がいるだけで、不協和音のヒントはない。あるはずがない。そもそもあったら困るだろう、都市伝説を否定しようとしているのだから。
「『気のせい、』」「かな?」『だと思う?』
 唇の不一致、音声の相違が、俺を戦慄させた、はずなのに、こわばる筋肉と裏腹に鏡に映る俺は目を細めて笑う。現実が世界から乖離していくような冷たい予感に押し出されるように、鏡に近づいていく。
「お前、誰だ」
『俺は、鳩羽秀一だよ』
 悪びれる風もなく、鏡に映った俺はまた目を細めて笑う。積年の探し物を見つけたように、その笑顔は満足げな喜びを帯びていた。こいつが鳩羽秀一であるならば、俺は? なんて、考えたりはしまい。これが都市伝説の正体なら、それが落とし穴だ。俺は鳩羽秀一、そこに迷う必要なんてない。
「俺は鳩羽秀一だ」
『そう、そして俺も鳩羽秀一だ。お前もそう言っただろ?』
 確かに言ったがそういう意味ではなかった。俺は俺に言ったのだ。しかし、そんなことが問題なのではない。こいつと会話をしているのは現実で、ならば彼が鏡の中の俺であるのも現実だろう。とりあえずそこは仮定してみようか。
『それじゃだめなんだよな』
 吐き捨てるような台詞。あぁ、こいつは本当に俺に似ている。反転世界の中に住む彼は、性格まで反転しているわけではないらしい。なにがダメなのかを教えないのもまた、そっくりだ。
 冷静になって鏡の中の彼と向き合おう思うと、二人を隔てる鏡に目がいった。懐かしい指紋の跡に、ふと、手が伸びる。鏡の中からも指が近づいてくる。磨かれた金属越しに、指が、触れた。伝わるのは当然、薄氷のように冷たい感触で、あの頃の自分も毎回同じものを感じていたのかと、目を閉じて想起してみる。信じていたのだ、本当に。今だって、異常の起きている今ならと自分の持つ常識に猜疑の目を向けている。鏡と繋がるのは物語の中だけなのか? 本当に向こう側は、ないのか?
『目、閉じるなよ。やっと繋がったんだから。なにも見えないだろう?』
 至近距離の声に鳥肌が立つ。すぐ前には、俺と全く同じ顔。しかし、彼との間に鏡はない。
『初めまして、ハトバネシュウイチ』
 記号のように無機質に読み上げられたのが俺の名前だと気づくまでには数瞬を要した。現状理解には遠いが、一つだけわかる。こいつは鳩羽秀一であっても、俺ではない。
「お前、誰だよ」
 彼は軽く眉を上げて笑う。
『俺は、お前だ』
 違う、お前は俺じゃない。ただのハトバネシュウイチだ。記号はお前のものだろう。
『ずっと見ていたよ。そして、ずっと待っていた』
 彼が手を伸ばす。俺の肩をつかみ、踊るかのように体の位置を入れ替える。
『本当にお前は鳩羽秀一か?』
 なにが言いたい。さっきから、なににこだわっている? 俺が、
「俺が…?」
 わからない、俺は、俺は俺なのか? 自分がわからなくなるなんて、都市伝説でしかないはずだ。なのに、何故急にわからなくなる? さっきまでちゃんと自信があったじゃないか。
『俺が鳩羽秀一だ』
 彼の腕を払って振り返り、鏡と向き合う。そこには誰も映ってはいない。二人どころか、一人の俺さえも。
夢だろ? 寝て起きれば、全部元通りで、俺はなにもなかったって、聡司の横面に皮肉を投げつけるんだ。そうだろ?
『答えはもちろん、』
 その言葉を最後に、俺は意識を失った。

「秀一、例の都市伝説、試してみた?」
「あぁ、なんてことはなかった。俺は俺だ」
 そう言って笑ってやると、聡司は困ったように笑い返した。本当に、頭が良すぎて、こっちが困ってしまう。だけど、
「俺が、鳩羽秀一だぜ、聡司」
「そうだね。もちろん、君は秀一さ」
 眼鏡をくいっと押し上げて、聡司はため息をつく。口元が小さく、ばかだな、と動いた気がした。